聖家族(ルカ2:22-40)

聖家族の祝日を迎えました。ヨセフとマリア、幼子イエスで始まった家族のことです。わたしは、ただぼんやりとヨセフとマリアとイエスがいる姿を思い描くのではなく、幼子イエスを母マリアが腕に抱いて、ヨセフが見守る姿、このように聖家族を描いてみたいと思います。

喜んでください。来年3月に予定している黙想会の説教師が決まりました。使徒ヨハネの祝日に、使徒ヨハネの霊名の神父さまに頼み込んできました。その神父さまはあるものに目がないので、大好物をぶら下げて説教師を引き受けてくださるよう説得してきました。案外簡単に釣れました。平戸瀬戸での釣りより、よほど簡単でした。

話変わりますが、最近、聖体拝領をさせていて感じたことにちょっと触れたいと思います。聖体拝領はご存知のように直接口の中に、舌に載せて授ける方法と、手に載せてもらって自分で口に運んで拝領する方法と二通りありますが、最近は舌をしっかり出して直接聖体を拝領する人は少なくて、手に載せてもらって自分で口に運ぶ人が多いようです。

聖体拝領に来るお母さんの中に、お子さんを抱っこしておいでになるお母さんがいます。感心だなぁあと思いつつ、器用だなぁとも思います。わたしが感心するのは、口の中に、舌に載せる方法ではなくて、手に載せた聖体を自分で口に運ぶ方法を選ぶお母さんです。体重3kgか、それ以上のお子さんを抱えたまま、手を動かすわけですから、器用だなぁと思うのです。

それはわたしにとって一つの気付きでした。母親は、子供を抱いたまま、もう一つのことをこなすことができるのです。説教の結論もここで見えてきています。お母さんたちは何気ないことなのかもしれませんが、幼子を抱いたまま、もう一つのことができるというのは新しい発見でした。

今週の福音朗読で、預言者シメオンと女預言者アンナが登場します。特にシメオンに注目すると、「シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った」(2・28)とあります。ここまでは待ち望んでいたメシアに会えたわけですから自然な成り行きです。

しかし続けて、「シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った」(2・34)とあるのです。シメオンは幼子を腕に抱き、一方で神をたたえ、他方でマリアとヨセフを祝福したのです。

皆さんはこう言うかもしれません。「シメオンがマリアとヨセフを祝福するときには、もう幼子イエスは腕に抱いてはいないでしょう」と。わたしは違う考えを持っています。預言者シメオンがマリアとヨセフを祝福した時、もし幼子イエスもシメオンが祝福したとしたら、そこには矛盾が生じるからです。

シメオンは、はっきりと幼子イエスを「主が遣わすメシア」と理解していました。それなのにシメオンが幼子イエスを祝福するのは無理があります。ですから、この時点で預言者シメオンは幼子を腕に抱いていたに違いないと考えたのです。

もう一つ、わたしの考えと重なる部分があります。シメオンは母親のマリアにこう言いました。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。(中略)」(2・34)

「御覧なさい」とは、どういう状況でしょうか。母親がすでにわが子を抱いている状況で、そばにいる誰かが「御覧なさい」と言うのでしょうか。むしろ、語る人が幼子を抱いていて、注意を向けるために「御覧なさい」と言うのではないでしょうか。

まとめるとこういうことです。預言者シメオンは、「主が遣わすメシア」「幼子イエス」を腕に抱いたまま、一方で神をたたえ、他方でマリアとヨセフを祝福したということです。先に母親は、わが子を腕に抱いたまま、もう一つのことを器用にこなしますと言いましたが、預言者シメオンにもそのまま当てはまるのです。

大胆に言わせてもらうなら、人は腕に幼子を抱いたまま、二つのことが可能なのだということになります。一方で神をたたえ、同時に人に語りかけたりすることができる、ということです。条件は、その人が幼子を腕に抱いているとき、ということになります。

わたしたちの生活でも、同じことは実現するのだと思います。同時に二つのことはできない。そう思っている人がほとんどだと思いますが、イエスを腕に抱いている人は、同時に二つのことが可能なのです。

ある人はこう言います。「現実の生活があるから、信仰と生活の両立はできない。」それは、本当の意味で幼子イエスを腕に抱いていないから、不可能だと思ってしまうのではないでしょうか。幼子イエスをしっかり腕に抱いている家族は、信仰生活と社会生活を、同時に、両立させるのです。どちらかを捨てなければ、どちらかを取れないというものではないのです。

マリアとヨセフに連れられて神殿に来た幼子イエスを腕に抱いた預言者シメオンに学びましょう。幼子を抱いて、同時に聖体拝領のために手を広げる母親に学びましょう。
わたしたちが同時に成し遂げるのは無理だと思っていることは何でしょうか。同時に成し遂げる確実な方法は、幼子イエスをしっかりと腕に抱いて生活すること。これが唯一の答えです。

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼田平教会には敷地の一角に「案内所」がある。平戸市の観光課だったか、あるいは観光協会だかが建てたものだ。「田平教会のガイド」を通じて平戸市内の観光につながるようにサポートするのが業務だと理解している(正確ではないかもしれない)。
▼田平教会を訪ねる人は案内所に一声かける決まりになっている。事前に申し込んだり、その場で申し出たりして、案内所職員が来訪者の統計を取る。どこから来たのか、何人なのか、男女の構成比など。月ごとの統計から、一年で何人訪問したかもわかる。おおよそ6万人が田平教会を訪れる。
▼もちろん一般の来訪者もあり、お祈りに来るカトリック信者もいる。韓国からの巡礼団や、国内のカトリック以外のキリスト者もちらほら見える。中には特定の宗教団体のグループがおいでになって、志を置いていったりもする。6万人も来訪する教会に赴任するとは思ってもみなかった。
▼ほとんどは案内所の職員が丁寧に応対して教会を拝観し(あるいはお祈りし)、また帰っていく。韓国巡礼団も同じだが、たまに、主任司祭を訪ねてくる韓国巡礼団もいる。ほとんど英語でしか話さないが、たまに巡礼団に同行する司祭と、通訳を交えて話すこともあり、「チョットだけ」韓国語を披露することがある。
▼巡礼団の司祭と会話するお決まりの韓国語はこうだ。「イルボネソ・ミサガ・チョウミエヨ?」(日本で・ミサは・初めてですか?)返事は「ネー(はい)」か「アニヨ(いいえ)」となる。いずれの返事でも、韓国語が通じた証拠になる。
▼広島だったか、大分だったかで働いたことのあるある韓国人司祭がこう言った。「神父さんが韓国語をあれこれ話すよりも、韓国語で巡礼の信者さんを祝福したりしてくれたほうが喜ぶと思います。」なるほどそうかもしれないと思った。そこで、「日本でのミサは初めてですか?」と、天候の挨拶などのありきたりの内容ではないことを尋ねるようにしたわけだ。
▼勉強も毎日しないので三歩進んで二歩下がり、会話も遅々としてはかどらないが、この一年、韓国語はわたしに新しい空気を送り込んでくれた。文字は、ずいぶん読み書きできるようになったので、ここにいる間に話が聞き取れるようになれたらと思う。

† 神に感謝 †