主の降誕(日中)(ヨハネ1:1-18)

主の降誕を、あらためてヨハネ福音書の朗読から学びなおします。ヨハネ福音書の冒頭は、「言が肉となった」という抽象的な言い回しですが、今年はわたしの中で学ぶところがありましたので、分かち合い、学びを持ち帰っていただきたいと思います。

神の独り子が最初に出会ったのは何でしょうか。昨晩の夜半のミサ説教が参考になるはずです。神の独り子は、最初に何と出会ったのでしょうか。それは「肉」です。食べる肉の意味ではありません。永遠のお方にとって、滅びるもの、朽ち果てるものに属する「肉」に出会われたのです。

永遠に属するお方が滅びるものに属する「肉」に出会った。どんな意味があるのでしょうか。それは、限界とか制約とか、神の子にまったくふさわしくないものを受け入れたということです。本来無限のお方である神の御子が、有限を受け入れられ、疲れることも眠ることもないお方が疲れて眠り、死ぬはずのないお方が死ぬべき定めを受け入れられたということです。

わたしたちは、ほとんど例外なく、より良いものに巡り合えばそれまでのものを手放し、より良いもので効率よく、生産性をあげて、豊かに暮らそうとするものです。

どの家にも洗濯機があり、自宅の洗濯機で間に合わないものはより大きな洗濯機を数百円で利用できる時代です。こんな時代に、あえて限界があり、制約だらけの洗濯板で服を洗濯する人がどこにいるでしょうか。

蛍光灯やLED電球が隅々までいきわたっているのに、それらに背を向けて誰がローソクの火で生活するでしょうか。暖房器具もこれだけふんだんに利用できる時代に、誰が家の中で焚火をして暖を取ったりするでしょうか。だれも、便利なもの、より優れたものを手にしたあとで、限界だらけ、制約だらけのものに手を伸ばそうとはしないのです。

ところが神は、その御独り子をこの世にお遣わしになるにあたり、限界だらけ、制約だらけの「肉」を取られたのです。いつかは死にゆく身体、翼もない、目は闇の中を見分けることもできない、社会も様々な制約だらけ。そんなこの世、そんな「肉」を受け取って救いの計画を始められたのです。

のちに宣教活動を開始されますが、だからと言って神の独り子は一度でも宣教活動に限界と制約を感じて不平不満を父なる神に述べたでしょうか。決してそういうことはなさいませんでした。

ところがわたしたちは、同じ限界と制約の中に生きて、数えきれないほどの不平不満を神に申し述べているのです。時間がない。思うような道具がない。夫が不満だ妻が不満だ。ありとあらゆることに不満を感じて生きているのです。

わたしたちはなぜ馬小屋に眠るイエスを見て考えないのでしょうか。神が救いの計画を完成させるのに、限界と制約のある「肉」を甘んじでお受けになったのに、わたしたちが並べ立てる不平不満はどれほどのものなのかと。わたしたちはもっと別のことを、幼子の前で申し述べる必要があるのです。

むしろ、こう言うべきでしょう。「おいでくださったイエスさま、わたしが自分に課せられた限界と制約を受け入れる知恵と勇気をお与えください。」限界と制約の多い「肉」を受け入れても神の救いの計画は完成するのですから、わたしたちの人生も、さまざまな限界と制約をありのまま受け入れたとき、完成するのだと思います。

本日のミサでは、一人の方が洗礼をお受けになります。一回限りの人生を、カトリックの信仰に土台を置いて完成させようと決意しておられます。限界や制約もあることでしょう。不安も少しあるかもしれません。けれども、人間の制約多いいのちを救い、完成させてくれるのはイエス・キリストですから、イエスを信じて生きる新しい生き方に生まれ変わってほしいと思います。

これから入信の秘跡に入ります。復活祭ののちには、同時に参列しておられるパートナーの方と婚姻の秘跡を結ぶ予定となっております。参列者の皆さんも、心を合わせて受洗者のためにお祈りください。

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ちょっとひとやすみ
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▼最近自分のことを「わたしの長男と同じ年ですね」などと比較する話を耳にする。つまり自分の母親と同じくらいの年齢のご婦人の話だ。この手のご婦人を味方につけることには大いにメリットがある。その人の長男と同じ目線で、わたしの味方をしてくれるからだ。
▼わたしもそうしたご婦人に「お母さん」と平気で言う。すると貴重な意見を引き出すことができる。明らかにわたしのほうからは「お父さん」「お母さん」と呼びかけて甘えているわけだ。相手は「お父さん」「お母さん」と言われて悪い気はしないはずだ。
▼わたしの両親よりもちょっと若い人の場合は、さすがに「お兄さん」「お姉さん」とは言わないが、うまく付き合える年齢になってきた。年齢が50歳を過ぎるというのは、一概に悪いことばかりでもない。
▼ある時期は、道路に表示されている「50(速度表示)」が腹立たしかった。「言われなくても50はわかっている」そんな気持ちにさせられていた。今は50という数字に特に反応しなくなった。傲慢と言われそうだが、50歳だという意識はあまりない。
▼50代になると、案外見た目や内面の年齢は努力によって衰えを防ぐことができるもののようだ。今でもナイターソフトでは「あいつは足が速いから要注意ね」と必ずマークされている。50歳にはとても見えない足の速さだということだ。非常に気持ちがいい。
▼一方で、変えられない現実もある。新幹線の予約をネットで押さえたとき、50歳以上の割引があって、早割よりも安いことに気づいた。腹立たしかったが、50歳以上の「おとなび割り」の料金でチケットを押さえた。そういうことにはあっさり従うのである。

† 神に感謝 †