年間第27主日(マルコ10:2-16)

今週の福音は、2006年の説教を参考にしてまとめました。いろいろ重なって全くのゼロから練り上げるのは困難と考えたからです。取り上げたいのは後半部分、人々がイエスに触れていただくために子供たちを連れてきた場面についてです。

今日から明日にかけて、小学生2人を長崎のカトリック神学院に体験入学に送ることとなりました。よく私は「神学院に行ったら未使用の下駄箱を見つけて、自分の名札を入れてきなさい」と声をかけて送り出します。

子供たちがどのように受け止めるかはわかりませんが、子供たちにとって、「もう一度戻りたい場所」になればこれ以上のことはないと思っていまして、体験入学でそれぞれが呼びかけを感じ、自分の場所を見つけて帰ってきてくれればと思っています。

神学院体験入学は明らかに子供たちを変える体験です。去年体験入学に行った一人は、それまでは頭を壁にピッタリつけて、「寝てませんよ」アピールをしつつ、ぐっすり眠っていたのが、いっさい寝なくなったのです。この日は本当に寝てないのか、気になってミサに集中できませんでした。

子供たちは体験入学を経てなぜ立派に育ったのでしょうか。私の理解ですが、それは、神学院が十分練り上げたプログラムでもてなしたからではなく、イエスが、ふだんの生活、ふだんの家庭環境では得られない導きをしてくださったからではないでしょうか。

もちろん神学院側は、あれやこれやの綿密な準備を重ねて、体験入学に来た子供たちを魅了しようとするでしょう。しかし突き詰めるとそれは、「人間が準備できる最高のものということ」です。しかしイエスは、神学院の神父様や神学生を通して、それ以上の導きと、直接届く教えを施してくれていると思うのです。

朗読箇所後半部分の中で、イエスは次のようにはっきり仰いました。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」(10・14)。子供たちが激しく、大胆にイエス・キリストに触れる環境が神学院にはある。私はそう思うのです。

「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」。この言葉は意味深いと思います。子供たちがご自分のそば近くに来ることをイエスが強く望んでおられるのです。子供たちはイエスに近づくことで、イエスから直接教え導かれる機会を得るのです。

私たち大人は、さまざまな思惑で子供たちが作られていくと考えがちです。もし人間の思惑よりもイエスの導きがすぐれていると思うなら、イエスに触れることができる環境を作ってあげてほしい。私たちはそのことだけに心を配れば、あとはイエスがすべてを計らってくれるのではないでしょうか。

神学院体験入学は、子供たちをイエスに触れさせるまたとない機会と思っています。体験入学で見たことが、今後どのように花咲くのかは予想できません。子供たちを教え導いた、イエスが体験した子供たちの中で花を咲かせてくれるでしょう。「子供たちをわたしのところに来させなさい」という言葉は、イエスからの「わたしが責任を持って子供たちを教え導きます」という強い決意の表れだと私は考えました。

見落とせない点があります。イエスは、「子供たちをわたしのところに来させなさい」の後に「妨げてはならない」と言っておられます。私たち大人は、いろんな障害物をそのまま放置して、知らずに子供たちがイエスのところに来るための環境を悪くしてしまっていることがあるのではないでしょうか。

たとえば、朝のミサに子供たちが参加するためには、当然家庭で朝のミサに間に合う時間に起きなければなりません。子供たちは疲れて眠たいから、朝のミサには起こさないでそのまま寝かせてあげよう。それが親の配慮だと思っているとしたら、私たち大人はイエスに叱られるのではないでしょうか。

むしろ、子供たちがイエスに近づくのに障害となるものを取り除いてあげることが、私たちにできるお世話なのではないでしょうか。日曜日の朝に眠くてミサに来ることができないとすれば、それはおそらく寝る時間が遅いからです。土曜日にもっと早く子供たちを休ませるようにすれば、朝のミサは決して早い時間ではないはずです。

部活や習い事など、どうしても外せないことで子供たちがイエスに触れる機会が遠ざけられているとしたら、それを仕方がないであきらめるのではなく、ほんの少しでもいいから、子供たちがイエスに触れるチャンスを確保してあげるように大人たちが努力して欲しいと思います。

また、「妨げてはいけない」と言ったのは、単に眼の前の子供たちのことだけ考えなくてもよいと思います。「洗礼を受けた神の子供」を、イエスに近づけるようにして欲しいのです。配偶者や、自分の手を離れてしまった子供たちであっても、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」という言葉は生きているのです。

今回体験入学に参加した子供たちがイエスに固く結ばれる機会を得て帰ってきてくれたらと願っています。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」(10・14)イエスの招きは今も私たちに迫っているのだということを肝に銘じて、すべての子供たちがイエスに親しく触れることができるように、これからも努力を続けていくことにしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼過ぎた週は葬儀が2回入った。ふだんの一週間と比べると、2倍、いや3倍は長かった一週間のように感じた。木曜日の葬儀で、最後に家族との食事会に招かれ、そこで強烈な個性の青年に出会った。この人は最初少し離れたテーブルの席に座っていたのだが、自ら、私の隣りに座ってきた。
▼「今日の葬儀ミサの説教、『俺は今日忙しい合間をぬって葬儀をしてるよ』みたいな猛アピールしてましたよね」最初の挨拶でこんな切り出しをする人はいないわけで、私は気分を害するどころか「非常に面白い!」と思ったのである。
▼確かに、その日は忙しかった。初金曜日で病人訪問をしつつ、11時の葬儀ミサの務めを果たしたからだ。7時半から始まる家庭の病人訪問を10時の訪問者まで回り、10時20分、40分、11時の人たちにはお断りを入れて葬儀に入った。葬儀ミサ直前の病人訪問で感じたことを葬儀の中で関連付けて話したのだが、「結構忙しくしているでしょ」みたいな話し方をしていたと思う。
▼本人が隠しながら織り交ぜた「アピール」を、その人は私に突きつけたわけだ。「何を!」と思う司祭もいるかも知れない。だが私は「この人は実に面白い」と直感したのである。私がいくら「君はそう感じたかもしれないが、ご年配の人は『そんなに忙しかったのですか。ご苦労様でした』と思っているんだよ」と抵抗してみたが、「私は騙されません。あれはアピールです」と切り捨てられた。
▼あまりに興味深い人物だったので、スマートフォンで名前をメモを取ったら「そんなに私に興味ありますか?どうしてそこまで食いつくのですか?」と突っ込まれた。「理由は一つ。君が面白いからだよ。」久しぶりに、私を言い込める人と出会った。

† 神に感謝 †