主の降誕(夜半)(ルカ2:1-14)

主の降誕おめでとうございます。今年の御降誕にあたり、わたしは神のご計画の不思議さについて考えてみました。それは、人間的に「不可能」と思われることから神のご計画が始まるということです。救い主をお遣わしになる直前の時期にも、不可能と思われる3つの出来事を神は可能になさいました。

1つは、マリアが神の母となることの承諾です。マリアは天使から「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」(ルカ1・31)と知らされたとき、その時点で人間的には不可能であることをはっきり知っていました。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」(同1・34)

マリアはよく分からなかったから天使に尋ねたのではなく、「人間的に不可能なことが可能になるのはなぜですか?」と尋ねたのです。それでも天使の「神にできないことは何一つない。」(同1・37)という返事を聞いて、「神がご計画を動かしておられる」と理解し、すべてを委ねることにしました。

2つめは、夫ヨセフの承諾です。ヨセフも、婚約者であるマリアが一緒になる前から母となっている事実を受け入れるのは、人間的に不可能なことでした。けれどもヨセフも、「神は我々と共におられる」という思いを理解し、人間的には不可能だけれども、神が我々と共におられるから、このご計画は信頼出来ると感じたのです。

そして最後3つめは、神の御子が家畜小屋でお生まれになったことです。「布にくるんで飼い葉桶に寝かせ」(ルカ2・7)、地上に姿を現しました。全能の神が、その御子を、さまざまな危険が考えられる場所にお与えになる。こんなことがなぜ可能なのでしょうか。

まったく無防備な姿の幼子が、命を危険にさらすような場所にお生まれになりました。そして3歳にもならないうちに、ヘロデからも命を狙われます。こんな危険な場所と環境が予測出来ているのにそれを選ぶのは、人間的には不可能なことです。それでも神は、人間的には不可能な状態から、ご自分のご計画を始められたのです。

わたしたちが喜び迎えた幼子イエスは、幾重にも張り巡らされている不可能な状況を乗り越えて、おいでになりました。幼子イエスは「神にできないことは何一つない。」との神の思いを、「布にくるんで飼い葉桶に寝かされて」全身で表してくださっています。

不可能が可能になる様子を見た人間は、どんな反応をするのでしょうか。幼子イエスを与えてくださった父なる神は、わたしたちに何を求めているのでしょうか。一つの光景がそれを教えてくれています。「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(2・13-14)

つまり神は、わたしたちに「神を賛美しなさい」と呼び掛けているのではないでしょうか。人間的に不可能な出来事から、神はしばしばわたしたちにご自分の計画を明らかにしてきました。不可能と思われたことが乗り越えられた時、神のご計画が動き出していることに気付いて神を賛美しなさいと、教えているのだと思います。

実際、救い主の誕生に最も近く関わった人たちは皆、神をたたえています。先駆者ヨハネを宿したエリサベトは、「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。」(ルカ1・42)と賛美の声を上げます。これに応えてマリアも、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」(同1・47)と神を賛美しました。

ヨハネの誕生を喜ぶ父ザカリアも、「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。」(同1・68-69)と賛美の声を上げました。

さらに付け加えるなら、マリアとヨセフが幼子イエスを神殿に献げに来たとき、シメオンは「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」(同2・29-30)と感謝を口にしました。

不可能とも思える中で決定的な神のご計画が実現した様子を見て、人々は皆賛美しました。わたしたちも今、人間を救う神のご計画を、マリアの腕の中に見ているのです。羊飼いが見守る視線の先に、占星術の学者たちが礼拝し、贈り物を献上する先に、小さな小さな全能の神がおられるのです。

わたしたちは力の限りこの出来事を賛美しましょう。わたしの歌、わたしの祈りに喜びを載せて、神を賛美しましょう。すべての人に訪れた救いを今ここで力の限りたたえるなら、礼拝に集まることのない人々にも、喜びは届いていくでしょう。

1つ、不可能を可能にしましょう。みなさんの中に、悲しみに打ちひしがれ、温かい心を準備出来ない人がいるかも知れません。そんな人にも、幼子イエスはおいでになります。悲しみの中でも、幼子が眠る温もりのある部屋を整えてください。温かい心を用意するなら、あなたはすでに不可能を可能にしています。不可能が可能になったなら、そこに神を賛美する力が湧いてくるのです。

どんな困難も神は乗り越えて、ご計画を進めてくださいます。わたしたちに与えられた幼子がそのしるしです。今日幼子をわたしたちの心に迎え入れ、賛美しながら家路につきましょう。神を賛美することを知らない人にも、幼子誕生の喜びを知らせ、賛美の歌を共にする人に導くことができますように。

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼御降誕おめでとうございます。まだ一息つくには早すぎるけれども、まぁケーキでもつついて、2013年を振り返りたい。今年起こったことを考えると、得したことはあまり思い出せなくて、損したこと、損失と感じることの方が多かった。
▼いろいろ相談出来る医師が上五島から故郷に戻られた。カトリック信徒の医師だったので、わたしにとっては損失だった。まぁ今でも連絡は取れるのだが、診察をしてもらえなくなった。個人的な親しみを持てる医師がいるといないとでは安心感が違う。
▼お金を失った。失ったというか、貸した金はどうせ返ってこない。失ったのだから損失だ。損失があったら、「取り戻す」か「損失をカバー出来る価値を別に見出す」か、どちらかを考えなければならないが、今年はそのどちらもできなかった。どうして借りに来る人は「ちゃんと返せる」と言うのだろうか。
▼分析・判断があと少し届かなかった。「この人はもう少し働きかけたら変わるかな」という想定のもとに押したり引いたりしたつもりが、その人はもはや興味を失ってしまい、距離ができてしまった。わたしもそれ以上踏み込めず、人間関係で損をした。
▼多少の得もあったかも知れない。「無理なのかなぁ」と思っていたことが好転し、喜ばしい日を迎えることができた。人間の力を越えた働きを感じた。不可能を可能にするのは、やはり神の力なのだと再確認した。感謝と賛美を忘れてはいけない。
▼子供がなついてくれた。4年目で、何となく心を開いて話せるようになった。どこで距離が縮まったのかは覚えていないが、小学校低学年から中学3年まで、話しかけることができて話を聞いてあげることも出来るくらいになった。打ち明け話をしに来る子供に「へぇ。そうなんだ」と相づちを打つ自分が、我ながら滑稽ではあるが。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===