四旬節第2主日(マルコ9:2-10)

「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。」(9・5)今週の福音朗読の中で、このペトロの言葉が目に留まりました。「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。」(9・6)とありますから、実際には舞い上がっていて、よく考えずにこう言っていたのかもしれません。

それでも、ペトロの言葉は非常に意味深いと思います。イエスと、そこに同時にエリヤとモーセが現れて、そこへ3人の弟子たちが居合わせました。ペトロは、イエスの光り輝く姿を見て、その神々しさに「すばらしいことです」と言ったのかも知れません。たとえそうでなくても、イエスと一緒にそこにいることは、すばらしいことなのです。

エスと一緒にいることを、言葉は違いますが「すばらしい」と理解していた人々を紹介しましょう。シメオンがその一人です。彼は、幼子イエスを神殿で奉献するためにやって来たヨセフとマリアの前で幼子を抱き、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」(ルカ2・29-30)と声を上げました。

まだ何もイエスのみわざを見ていないのに、シメオンは十分満足ですと言ったのです。それは、「イエスと一緒にいること、そのことがすでにすばらしい」ということを表しているのだと思います。

また、イエスの十字架上での場面、イエスの右と左には犯罪人が十字架に磔にされていました。犯罪人の一人が「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23・42)と言いました。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(同23・43)と言われます。犯罪人はイエスのみじめな姿しか見ていないのに、イエスの隣りにいることを「すばらしいこと」と理解していたのです。

シメオンも、犯罪人の一人も、イエスの華々しさを見たわけではありません。あっとおどろく奇跡を見たわけでもありません。むしろ、無力なイエスしか見ていませんが、彼らはそのイエスの側にいることを「すばらしいこと」と捉えることができたのです。

もちろん、イエスの華々しい場面も、示すことができます。イエスは親戚のラザロが死んだとき、もう埋葬されて四日も経っているラザロをよみがえらせました。「ラザロ、出て来なさい」(ヨハネ11・43)と大声でラザロを呼び、墓から出てくる場面は、今週のイエスが変容する場面と変わらないくらい、神々しい場面、華やかな場面だと思います。

華々しい場面、神々しい場面で「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」と声を出すのは何も難しいことではありません。けれども、イエスと一緒にいるどんな場面でも、「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」と声を上げることが、イエスの期待していることではないでしょうか。

今週の福音朗読の結びで、「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない』と弟子たちに命じられた。」(9・9)とあります。今日はイエスの神々しい場面を見たかもしれません。けれども明日は、イエスのみじめな場面、避けて通りたいような場面を見せられるかもしれません。それでも、「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」と声を上げる。弟子たちの信仰がそこまでたどり着くのを、イエスは待っているわけです。

わたしたちにも、イエスは同じ期待を持っているのだと思います。今日3人のお子さんが福見教会で初聖体を受け、そのご家族、そしてここに集まった福見教会信徒の皆さんが、喜びで一杯になっていると思います。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」と、素直に喜びを表現できるはずです。

この喜びを知ったのでしたら、さらに一歩踏み込んで、どんなときでも、イエスと一緒にいることはすばらしいことですと、信仰を表明していただきたいのです。華々しい場面だけでなく、信仰に疑問を持ったり、カトリックの信仰のために冷たい視線を浴びたりする、そんな時でも、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」と言える。そんなイエス理解を、もって欲しいと思います。

誰にとっても喜ばしい場面があります。今年2月26日の司祭助祭叙階式がそうでした。今日の初聖体式がそうです。また堅信式、結婚式なども、イエスと一緒にいることを素直に喜べることでしょう。

その喜びを、生活全体に結び付けて欲しいのです。イエスと一緒にいることは、いつも、どんなときも、すばらしいこと。その理解を、長い時間かかってもよいから、体に覚えさせて欲しいのです。

生活の中では、簡単に喜べない場面も多いかもしれません。その一つひとつに、イエスはそばにいてくださいます。簡単に喜べない場面を、「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」とひとまず言ってみること。イエスがそばにいてくれるのだから、どんな場面でも本当はすばらしいのだ。心からそう言える人に、育っていきたいのです。

今日、初聖体を受けるお子さんたちは、イエスさまをお迎えする家のようです。「仮小屋を三つ建てましょう」とペトロが言った、イエスを一緒にお泊めする住まいです。どうかこれからも、イエスが一緒にいてくださることはとてもすばらしいことだと、保護者の皆さん言い聞かせてあげてください。これからの生活のいろんな場面、朝起きたとき、ご飯を食べるとき、何かを願うとき、何かをがまんするとき、お祈りを通して神さまと一緒にいることはとてもすばらしいと、教え続けて欲しいと思います。

この教会に集まることを出発にして、「わたしたちが神さまと一緒にいることは、いつもすばらしい」そんな言葉を、子どもたちが覚えてくれるように、導いてあげてください。わたしも一緒に、お手伝いしたいと思います。

それでは、説教を終わって、初聖体の準備がふさわしくできているか、子どもたちに尋ねたいと思います。

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ちょっとひとやすみ
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▼いつも使っているわたしのパソコンは、電源スイッチを押すとOSが立ち上がり、通常の仕事が始まる。パソコンを終了するときは電源スイッチではなく、OSの「シャットダウン」という操作で作業を終わる。
▼電源スイッチで始まったのだから、電源スイッチを押して終わってもよさそうなものだが、そういう「不統一」が、ご年配の人にパソコンを難しくしている小さな原因の1つなのかもしれない。小さな原因も、積もり積もれば膨大なものになる。
▼「シャットダウン」は、OSの作業だけではない。あるパソコンソフトは、作業を終了するときに同時に何をするか、選べるものもある。つまり、そのパソコンソフトにさせている作業を終わったら、「シャットダウンするか、スリープするか、何もしないか」が選べるものもある。
▼映像の変換という、ちょっとややこしい作業を深夜におこなっていた。作業が完了するまで時間30分と表示されて、「これが終わるまで待たないといけないの?もう眠くてしかたがない」そう思ったときに、「あー、作業終了時に、シャットダウンするようにセットしておけばよいのか。その手があったな」と思い、シャットダウンすることを選択した。とんでもなく眠い中、這うようにしてベッドに潜り込んだ。
▼朝、3時間しか眠っていない中で目覚ましが鳴る。つらいのをこらえて起き、執務室に行ってみると、何とパソコンの電源は切れていないではないか。「シャットダウン中です」というメッセージのまま、フリーズしてしまったらしい。こんなに信用できないものなのかとガッカリしたが、しかたなく電源スイッチを長押しして、強制的に電源を切った。やはり人間のほうが、コンピューターより賢いらしい。
▼シャットダウンと言えば、パソコンには1日何回もシャットダウンさせているくせに、自分に対してシャットダウンを命じられたら、相当頭にくるだろうと思った。あともう少しで作業が終わるのに、来客がある。食事だから降りてこいと言われる。電話が鳴る。どれも決して相手に責任はないのだけれども、シャットダウンさせられたことは相当つらいと感じてしまう。頭ではパソコンから離れるべきだと思っても、体が理解していない。
▼転勤にしてもそうだろう。ちなみに転勤の時期だからこの話題を取り上げているだけで、ほかに意味は無い。これまで継続していた司牧上の展望を手放し、シャットダウンさせられる。新しい任地での新しい出会いはあるが、やはりいったん手がけたことから離れるのはかなりエネルギーが必要だろう。
▼シャットダウンできずにフリーズしているパソコンの電源スイッチを長押しするとき、パソコンが少し傷つくのかもしれないなぁ、そう思いながら電源スイッチを押した。人間であればなおさらである。簡単に電源のオンオフみたいな割り切りはできないから、本当にその人の立場をよく汲み取ってあげて、と遠くから申し上げたい。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===