主の降誕(夜半)(ルカ2:1-14)

主の降誕、おめでとうございます。今年は、先週の木曜日に夜半のミサの説教が降ってきました。この日は夕方のミサがあり、保育園の園児たちもミサに参加します。園児たちもクリスマス会を終えて、救い主が生まれたベツレヘムでの出来事を考えるのにちょうど良い時でした。

わたしは園児のみんなに呼びかけました。「救い主が生まれた時、その場所でいちばんあたたかいものは何だったでしょうか。」質問が難しかったようですが、わたしはこう答えました。「馬小屋で、いちばんあたたかかったのは、御子イエスさまではないでしょうか。」

今まさに出産しようとしているマリアのために、宿屋も見つかりませんでした。ヨセフは、自分が犠牲になっても、マリアにだけはお産のために部屋を確保したいと努力したことでしょう。それでも願いは叶いませんでした。この時からすでに、あたたかい場所がなかったのです。

どのようにして見つけたのか、ヨセフとマリアは家畜小屋に入り、男の子を出産します。ただそこには、あると助かるような物は無かったのです。その場をあたたかくする暖炉も、お湯も無かったことでしょう。

その、あたたかくするものが何も無い場所に、救い主はお生まれになりました。生まれたての赤ちゃん、そこにあるすべての物の中で、いちばんあたたかい命だったことでしょう。準備の整っていないことを申し訳なく思っているヨセフとマリアにとっても、幼子は希望の光であり、心をあたたかくする存在だったのです。

今年のクリスマス、救い主の誕生を、「あたたかさをもたらすために救い主は生まれた」とまとめたいと思います。人々は皇帝に人口登録を命じられ、有無を言わさず命令の中に置かれていました。家畜の小屋しか場所を見つけることができず、社会の冷たさの中に置かれて、それでも救い主は、ぬくもりを届けるために、この世界にお生まれになったのです。すべての人が、幼子からぬくもりを感じるためにです。

わたしたちは、この夜半のミサを終えると喜びを胸に抱いて帰ります。その喜びは、イエスが届けてくれたものです。イエスが届けてくれたぬくもり、父なる神がお与えくださった最高の贈り物です。一人ひとり、生まれたばかりの赤ちゃんを手に抱いている姿を思い描いてください。布にくるまれ、布を通してでも十分伝わる幼子のぬくもりを想像してください。その幼子特有のぬくもりを、わたしたちは持ち帰るのです。

幼子を抱いている時、周りの人は何と声をかけるでしょうか。きっと、わたしにも赤ちゃんを抱かせてくださいと言うでしょう。わたしたちも、今日お生まれになった幼子を腕に抱いて帰り、出会う多くの人に幼子を抱かせてあげましょう。今日お生まれになった救い主の喜びを、出会う人に伝えることにしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼クリスマス夜半のミサの説教は、先週の木曜日に突然降ってきた。この「突然降ってくる」イメージはとても大切で、その時のイメージはしばしば良いアイディアとなって後押ししてくれる。
▼木曜日は、わたしにとっては気分転換の日でもある。平日に、浜串教会ではなく巡回先の福見教会でミサをするからだ。ふだん顔を付き合わせていない人たちが集まり、子供たちも巡回先の子供たちと触れ合える。さらに保育園の子供たちも集まる日なので、とても癒される。
▼木曜日の夕方の福見教会でのミサ、わたしは園児を前にして正直にこう言った。「クリスマス前なのに、クリスマス会とかで何回もお話をしているうちに、説教のネタがもうなくなりつつあるのよ。困っちゃってね。」園児たちはわたしの気持ちを理解したか知らないが、同情はしてくれた。
▼本当に慌ただしくこの時期は毎日が過ぎていく。どうやったらクリスマスをゆったりと過ごせるのだろうかと不思議になる。クリスマスから正月にかけて、10日間くらいで5本の説教の準備である。ゆっくり過ごせるはずがない。
▼そろそろ、マラソン大会の仕上がりも心配になってきた。練習して、筋肉痛になって次の日は好天なのに練習をサボる。すると翌々日は雨になり、「雨だから練習休もう」と自分に言い訳する。この繰り返しで、ここのところ週3回走ればよいほうである。今回は目標を下げざるを得ないか。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===