年間第28主日(マルコ10:17-30)

「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」(10・17)イエスに走り寄ってきた人の問いは、誰にとっても答えを知りたい問いかけでしょう。ただ、よく考えると、答えを知っているかもしれません。ひょっとしたら答えを避けているかもしれません。

長崎市伊王島の馬込教会時代、5年間賄いをしてくれた人を久しぶりに見舞いました。黒崎教会から山奥に入った介護老人保健施設に入所していました。あれから9年経って、ずいぶん弱ってきているということで見舞いに行ったのでした。

この賄いさんは私と5年間、漫才の相方のようなやりとりを司祭館でしていました。食事の時テレビで「住宅に落雷被害」というニュースが流れると、「雷に当たると痛いんだよ。ビリビリッと来てね。」「え?当たったことがあるんですか?」「ないね〜」

またある時は「お、深堀さんがテレビに映ってる。元気だったんだ〜」「え?その深堀さんは知り合いですか?」「知らんね〜」そのうちに私が何か言うと警戒するようになるので、一ヶ月は黙っているのですが、もうそろそろ大丈夫と思うとまたからかうのです。

ある時ネット通販で荷物が届きました。箱を開けずにいると中身が気になるのか、「箱を開けなくて大丈夫ですか?」と聞いてきます。私は手かざしをして、「私は神様の次に能力を与えられているから、手をかざすと中身がすぐに分かる」「本当ですか?」「あー、これは『キリスト教神学事典』だ。」

箱を開けると当然注文したものが入っています。それをこの賄いさんは手品を見たような顔をして驚くわけです。それに類することを5年間さんざんしました。そんな日々を過ごしたので、いよいよ弱ってきたと子供夫婦から連絡を受け、これは見舞いに行かねばと思ったのです。

見舞いに行った時間は、たまたま、ホールに集められてそれぞれが活動をする時間でした。車椅子に乗っていました。わたしが目にとまり、よほど嬉しかったのかこう切り出しました。「あ〜中田神父様。本当に中田神父様ですよね。夢のようです。これでもう死んでもかまいません。」

それに対し、例えるなら漫才の相方に話すように、私は返しました。「じゃあ財産を遺贈する旨の遺言をちゃんと残してね。なくなったあとミサをするから。」周囲にいた人はギョッとしたことでしょう。けれども、「死んでもいい」というのが本心なら、「遺言を書いて旅立ってね」と言われても驚かないはずです。人は核心を突くような言葉を言われたときに、自分の心構えを問われるのです。

さて福音朗読ですが、イエスから「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」(10・19)と言われた人は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」(10・20)と言ってのけました。イエスはまだ彼の心構えを試す核心に触れていませんでした。

いよいよイエスは、彼の核心に触れる言葉を放ちます。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(10・21)彼が手放したくないものを手放さなければ、永遠の命を受け継ぐことはできないのです。

朗読箇所に出てきた人は「たくさんの財産を持っていた」人で、その財産を手放すことができませんでした。私たちが学びを得るためには、自分にとっての「手放すことができないもの」「手放したくなくて、目を背けているもの」が何なのかを見極め、向き合う必要があります。

では自分にとって「手放すことができないもの」「手放したくなくて、目を背けているもの」は何でしょうか。見つける方法を私は知っています。それを失うくらいなら、他のどんな苦労を背負ってもかまわないと感じるもの。それが「手放すことができないもの」です。

ある時私は、「そこまでして目を背けるか?」と驚いたことがあります。いちばん簡単な方法を提示したのに、それを避けて、地球を一周して別の方法を選ぶような人を見たのです。きっとその人にも、手放せないものがあるのでしょう。手放すくらいなら、地球を一周回ってでも別の方法を選ぶと態度で表明したわけです。

なぜ、人に手放せないものがあるのでしょうか。その人が手放せないと思っているものを手放さないと、イエスの声に聞き従うことは叶わない。それなのに、手放すくらいなら世界一周してでも別の方法を探ろうとするのです。その努力たるや、ある意味尊敬に値します。

たくさんの財産を手放せないという人がいます。イエスは別のところでこう言います。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」(ルカ12・20)財産以上に手放してはいけないものを見落としてはいないでしょうか。

二重の生活をしている人がいます。表向きの生活と、裏の顔がある人です。なぜ、一方を手放せないのでしょうか。イエスの照らし、導きによって与えられた生活に背を向けて、地球一周をして二重の生活を諦めない方を選ぶのでしょうか。なんと回りくどい人生でしょうか。

時に、まるでイエスが派遣してくださったかのように、手放せずにいる姿をズバリ言い当てる人と巡り会うことがあります。先週金曜日のことです。その日は初金曜日と葬式とが重なってしまいました。説教でもそのことに触れました。

その日の夕食、家族が用意した食事の席に呼ばれたのですが、一人の人が隣に座り、こう話しかけてきました。「神父さん。葬式の説教では『初金の病人周りを朝早くからこなしつつ、葬儀のミサと説教、大変やった〜』みたいなアピールをすごく強調しましたね。あの掴みの部分は、必要ですか?必要ないでしょ?」

テーブルを囲んでいた人たちが凍りついたのを感じました。私に気を遣ってのことでしょう。ただ私は、「この人は非常に面白い!」と思ったのです。誰もそんな直球で私の説教の組み立てに意見する人はいませんから、「あんなこと言って」と肝を潰す思いだったのでしょう。

「神父さんが言いたかった本当のことは何ですか?」私も言いたかったことはこうだと手短に言いましたが、「伝わらなかったですね。最初のアピールが引っかかって。」ますます面白いと思い、名前を控えました。「どんだけ俺に食いついてるんですか?」と言われましたが、「おまえが面白いからだよ」そう言っているうちに食事は散会となりました。

「無礼者!」と切り捨てていたら、この人を記憶することはなかったでしょう。けれども私は自分の持っているものを捨てて、この人を手に入れたいと思ったのです。その場で説教して、押さえつけることもできたでしょう。けれども私は、私を捨ててその人を得たことを今も喜んでいます。

皆さんはどうでしょうか?永遠の命を得ることに比べたら、捨てられないものなんて何もありません。永遠の命、すなわちイエス・キリストを得るために、今日もミサにあずかりましょう。悲しみながら去って行くのではなく、昨日までの自分に死んででも、イエス・キリストを選び取ることにしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼忙しくなると仕事が片付かない理由をあれこれ考えてしまう。「手が四本あったらなぁ」とか「24時間秘書がいたらなぁ」とか。イエス様だって二本の手で働いたし、秘書も持たずに働いた。しかも電気のない時代にだ。贅沢言わない。言い訳しない。
▼葉書を2通出そうとしている。一人は田平教会出身で今年叙階50周年の神父様。「いよいよ近づきました、心よりお待ち申し上げております」という案内だ。もう一人はミサをお願いしてきた人だが、通常の「ごミサ預かりました。○○日におささげいたします」ではなく、もう少し何か書いてから出そうと思っている。
▼出会う人は歳を重ねるうちに手が回らないほど増えていくのに、一人ひとりへの気配りは行き届かない。クローンがいればどんなに人生楽しいだろうか。クローンもクローンが欲しくなるだろうか。
▼体の変化や、会話の変化、この人が人生のどのあたりにいるのだろうかと考えることがある。私の父が晩年たどった様子を思い出すことがある。こうなってああなって・・・私に思い当たることがある。できれば父の年齢までは健康でいたいが。

† 神に感謝 †