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こうじ神父
「今週の説教」
2026/11/1(No.1440)
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諸聖人(マタイ5:1-12a)
あなたがたは幸いである。喜びなさい
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「イエスは群集を見て、山に登られた」(5・1)。真福八端、山上の説教としてよく知られている今日の教えは、イエスが小高い丘にのぼって、神が示す幸いを説くものです。イエスが語った幸いを私たちもここで学びましょう。「幸いな人」と呼ばれる生き方を、福音から読み取ることにいたしましょう。
当時の人々は、山を、神が来られる場所、神と出会う神聖な場所と考えていました。かつてモーセが、シナイ山で神の言葉を受けたことが連想されます(出エジプト記19章)。山に登って行かれるイエス、また弟子たちを見て、人々は神との出会いを予感したでしょう。こうした中で、イエスは口を開かれました。イエスはご自身を「新しいモーセ」として、神からの生き方を示そうとされます。
山上で語られる幸いの根本は何でしょうか。それは、「神が幸いをもたらしてくださる。だから、人は幸いを得る」ということです。人の心をいっときなごませる甘い言葉ではありません。神が必ず与えてくださる幸いです。この約束に生きるようにとイエスは促すのです。
「幸い」と唱えられたことがらのうち、受け身の言い回しで述べられた箇所は大切です。「悲しむ人は……慰められる」「義に飢え渇く人は……満たされる」。「憐れみを受ける」「神の子と呼ばれる」。これは、受け身の言い回しを使って、「神がそうなさる」ということを、おもてに出さずに言い含めたものです。
「慰められる」。慰めてくれるのは、友人知人ではなく、神です。義に飢え渇く人は、正義そのものである神に満たされます。憐れみをかけてくださるのも、当てにならない誰かではなくて、神なのです。
イエスが告げられる幸いは、私たちへの救いの保証と考えることもできます。すべての人を救おうと望まれる神が、すべての人に救いの約束をなさり、救いの恵みを与えてくださるのです。神が約束し、それを果たしてくださる。これ以上確かなことがあるでしょうか。
神の約束、神が保証された幸いに与るのは、群衆であり、現代では私たちです。その中には、すでにこの保証に与っている諸聖人がおられます。諸聖人方が、すでに約束に与っている者だとしたら、私たちは、神の約束を見つめて生きている者と言えるでしょう。約束は確実なものですが、その私たちに期待されていることがあるでしょうか。
私たちの側から、あれこれの功績が必要だとか、聖なる生活が条件だとか、そういったことは言われていません。山上の説教が人間の努力の対価であるとしたら、それは人間臭く、輝きもありません。「心の貧しさ、柔和さ、憐れみ、平和を求めること、義のために苦しむこと」実にこれらは、神の恵みを受けた人がたどり着く生き方なのです。
聖なる生活をしたから神に救われると言っているのではなく、神の恵みによって救われた人が、ついに聖なる生き方へと導かれるのです。誰よりも諸聖人たちが神の恵みに応えて、愛の生活を送るお手本となられました。
いつも、神の恵みが先にあります。あえて何かが私たちに求められているとすれば、イエスは次のようにおっしゃいます。「身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい」(5・11-12a)。理解できない苦しみにあっても自分を失わず、喜ぶ態度。これが、考えられる限りの人間側の用意だと思います。
身に覚えのないことでも、イエスのため、喜びをもって受ける。これだけですが、これがなかなか難しい。私たちは良いものとして与えられたものにも、ひとこと言おうとしますし、相応の責任があって良くないものを与えられても、簡単には受け入れられません。まして自分に責任もないのに良くないものが与えられたら、口をとがらせるでしょう。それなのに大いに喜べと言われると、合点がいかないのです。
すばらしい模範を、突然の病を得た人に見ました。手術が必要な大病を得た人が、一度は「なぜ私が」と考えました。それなのに「ささげんばですたい」と答えました。たしかに悪いことはしていません。必然性もなかったでしょう。その彼を、神は大きな病に置かれました。
病気を与えたから幸いなのではありません。そうではなく、病気という苦しい現実にあっても、神がその人を見捨てず、ともにいてくださる。それが幸いなのです。だから、治療を受ける中で「苦しい」と訴えてもよいのです。「なぜですか」と問いかけてもよいのです。けれども最後には自分を神に委ねる。「ささげんばですたい。」その単純な信仰に、当時の私は心を打たれたのです。
イエスは、すべての人をご自分のもとに引き寄せるために、あらゆる苦労を背負っている人を、幸いな人の中に加えてくださいました。理解してもらえない悲しみの中にも、救いへの希望があるのです。迫害さえも、無駄には終わらないのです。イエスに従って生きることで、周囲から理解されなかったり、不利益を受けたりすることがあります。それでも神への信頼を失わない人は幸いなのです。
今日、私たちは天国で神の家に迎え入れられている諸聖人をお祝いしています。諸聖人の中には、歴史に名を残した人だけでなく、家族のために尽くした人、病気と闘った人、誰にも知られず祈り続けた人、苦しむ人に寄り添った人。そうした名も無い聖人もいるでしょう。このような聖人方に思いを向けるとき、その生きざまは遠い存在ではなくなります。諸聖人の祝日は、私たち自身の将来を祝う日でもあるのです。
聖人たちも、初めから特別に立派な人だったわけではないでしょう。迷い、苦しみ、失敗し、神に助けを求めながら生きたでしょう。ただ、彼らは神の約束を信じ、その恵みに支えられて歩み続けました。そして今、神のもとで、その約束の完成に与っています。
私たちは、まだその完成を見ていません。悲しみもあります。病気もあります。思いどおりにならないことも多々あります。それでもイエスは私たちに「あなたがたは幸いである」と語りかけてくださいます。
諸聖人の祝日は、遠い昔の偉大な人々を称えるだけの日だけではありません。私たちの完成に思いを馳せる日でもあります。神から、聖なる者としていただく日を憧れる一日でもあるのです。諸聖人の取り次ぎを願い、私たちも神の約束を信じ、今日一日を歩みましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第32主日(マタイ25:1-13)
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ちょっとひとやすみ
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▼福江教会は外壁塗装をしているが、ちょうど台風30号が直撃する予報だったので、周囲に迷惑を掛けないように覆っていた緑色のカバーを、いったん足場にすべて巻き付けた。
▼ところがいざ台風が来てみると、予想よりも南のルート、福江島の東を通過していったので大事に至らなかった。ただ、カバーを足場に巻き付ける作業は大変だったに違いない。
▼台風も、以前より進路が複雑で読みづらくなってきたと感じる。この期間に実家に帰ったが、長く会えていなかった三男と再会できて、母は非常に喜んでいた。福江→長崎→大村→鯛ノ浦→長崎→大村→長崎→福江。かなりの旅となった。
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今週の1枚
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第1047回目。緑色のカバーが足場にくくりつけられ、謎の文字がたくさん。
http://ss104313.stars.ne.jp/261101.jpg
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† 神に感謝 †