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こうじ神父
「今週の説教」
2026/11/1(No.1440)
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諸聖人(マタイ5:1-12a)
あなたがたは幸いである。喜びなさい
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「イエスは群集を見て、山に登られた」(5・1)。真福八端、山上の説教としてよく知られている今日の教えは、イエスが小高い丘にのぼって、神が示す幸いを説くものです。イエスが語った幸いを私たちもここで学びましょう。「幸いな人」と呼ばれる生き方を、福音から読み取ることにいたしましょう。

当時の人々は、山を、神が来られる場所、神と出会う神聖な場所と考えていました。かつてモーセが、シナイ山で神の言葉を受けたことが連想されます(出エジプト記19章)。山に登って行かれるイエス、また弟子たちを見て、人々は神との出会いを予感したでしょう。こうした中で、イエスは口を開かれました。イエスはご自身を「新しいモーセ」として、神からの生き方を示そうとされます。

山上で語られる幸いの根本は何でしょうか。それは、「神が幸いをもたらしてくださる。だから、人は幸いを得る」ということです。人の心をいっときなごませる甘い言葉ではありません。神が必ず与えてくださる幸いです。この約束に生きるようにとイエスは促すのです。

「幸い」と唱えられたことがらのうち、受け身の言い回しで述べられた箇所は大切です。「悲しむ人は……慰められる」「義に飢え渇く人は……満たされる」。「憐れみを受ける」「神の子と呼ばれる」。これは、受け身の言い回しを使って、「神がそうなさる」ということを、おもてに出さずに言い含めたものです。

「慰められる」。慰めてくれるのは、友人知人ではなく、神です。義に飢え渇く人は、正義そのものである神に満たされます。憐れみをかけてくださるのも、当てにならない誰かではなくて、神なのです。

イエスが告げられる幸いは、私たちへの救いの保証と考えることもできます。すべての人を救おうと望まれる神が、すべての人に救いの約束をなさり、救いの恵みを与えてくださるのです。神が約束し、それを果たしてくださる。これ以上確かなことがあるでしょうか。

神の約束、神が保証された幸いに与るのは、群衆であり、現代では私たちです。その中には、すでにこの保証に与っている諸聖人がおられます。諸聖人方が、すでに約束に与っている者だとしたら、私たちは、神の約束を見つめて生きている者と言えるでしょう。約束は確実なものですが、その私たちに期待されていることがあるでしょうか。

私たちの側から、あれこれの功績が必要だとか、聖なる生活が条件だとか、そういったことは言われていません。山上の説教が人間の努力の対価であるとしたら、それは人間臭く、輝きもありません。「心の貧しさ、柔和さ、憐れみ、平和を求めること、義のために苦しむこと」実にこれらは、神の恵みを受けた人がたどり着く生き方なのです。

聖なる生活をしたから神に救われると言っているのではなく、神の恵みによって救われた人が、ついに聖なる生き方へと導かれるのです。誰よりも諸聖人たちが神の恵みに応えて、愛の生活を送るお手本となられました。

いつも、神の恵みが先にあります。あえて何かが私たちに求められているとすれば、イエスは次のようにおっしゃいます。「身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい」(5・11-12a)。理解できない苦しみにあっても自分を失わず、喜ぶ態度。これが、考えられる限りの人間側の用意だと思います。

身に覚えのないことでも、イエスのため、喜びをもって受ける。これだけですが、これがなかなか難しい。私たちは良いものとして与えられたものにも、ひとこと言おうとしますし、相応の責任があって良くないものを与えられても、簡単には受け入れられません。まして自分に責任もないのに良くないものが与えられたら、口をとがらせるでしょう。それなのに大いに喜べと言われると、合点がいかないのです。

すばらしい模範を、突然の病を得た人に見ました。手術が必要な大病を得た人が、一度は「なぜ私が」と考えました。それなのに「ささげんばですたい」と答えました。たしかに悪いことはしていません。必然性もなかったでしょう。その彼を、神は大きな病に置かれました。

病気を与えたから幸いなのではありません。そうではなく、病気という苦しい現実にあっても、神がその人を見捨てず、ともにいてくださる。それが幸いなのです。だから、治療を受ける中で「苦しい」と訴えてもよいのです。「なぜですか」と問いかけてもよいのです。けれども最後には自分を神に委ねる。「ささげんばですたい。」その単純な信仰に、当時の私は心を打たれたのです。

イエスは、すべての人をご自分のもとに引き寄せるために、あらゆる苦労を背負っている人を、幸いな人の中に加えてくださいました。理解してもらえない悲しみの中にも、救いへの希望があるのです。迫害さえも、無駄には終わらないのです。イエスに従って生きることで、周囲から理解されなかったり、不利益を受けたりすることがあります。それでも神への信頼を失わない人は幸いなのです。

今日、私たちは天国で神の家に迎え入れられている諸聖人をお祝いしています。諸聖人の中には、歴史に名を残した人だけでなく、家族のために尽くした人、病気と闘った人、誰にも知られず祈り続けた人、苦しむ人に寄り添った人。そうした名も無い聖人もいるでしょう。このような聖人方に思いを向けるとき、その生きざまは遠い存在ではなくなります。諸聖人の祝日は、私たち自身の将来を祝う日でもあるのです。

聖人たちも、初めから特別に立派な人だったわけではないでしょう。迷い、苦しみ、失敗し、神に助けを求めながら生きたでしょう。ただ、彼らは神の約束を信じ、その恵みに支えられて歩み続けました。そして今、神のもとで、その約束の完成に与っています。
私たちは、まだその完成を見ていません。悲しみもあります。病気もあります。思いどおりにならないことも多々あります。それでもイエスは私たちに「あなたがたは幸いである」と語りかけてくださいます。

諸聖人の祝日は、遠い昔の偉大な人々を称えるだけの日だけではありません。私たちの完成に思いを馳せる日でもあります。神から、聖なる者としていただく日を憧れる一日でもあるのです。諸聖人の取り次ぎを願い、私たちも神の約束を信じ、今日一日を歩みましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第32主日(マタイ25:1-13)
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‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼福江教会は外壁塗装をしているが、ちょうど台風30号が直撃する予報だったので、周囲に迷惑を掛けないように覆っていた緑色のカバーを、いったん足場にすべて巻き付けた。
▼ところがいざ台風が来てみると、予想よりも南のルート、福江島の東を通過していったので大事に至らなかった。ただ、カバーを足場に巻き付ける作業は大変だったに違いない。
▼台風も、以前より進路が複雑で読みづらくなってきたと感じる。この期間に実家に帰ったが、長く会えていなかった三男と再会できて、母は非常に喜んでいた。福江→長崎→大村→鯛ノ浦→長崎→大村→長崎→福江。かなりの旅となった。

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今週の1枚
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第1047回目。緑色のカバーが足場にくくりつけられ、謎の文字がたくさん。

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† 神に感謝 †

年間第30主日(マタイ22:34-40)律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている

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こうじ神父
「今週の説教」
2026/10/25(No.1439)
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年間第30主日(マタイ22:34-40)

律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている
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私が好きなプロ野球、今年のドラフト会議は10月22日に開催されました。それぞれ、指名された選手は交渉権を得た球団でしっかり活躍してほしいと思います。

さて、「野球の中で、もっとも重要なのは何ですか?」と問われたら、どう答えるでしょうか。野球には守備と打撃があり、どちらも必要です。でもどちらか一方だけを大切にすればよいかというと、そうではありません。そのように、どれか一つだけを大切に、といかないのは私たちの生活もそうです。では、神を信じて生きる私たちにとって、何よりも大切なことは何でしょうか。

今週の福音朗読に登場する律法の専門家の問いも、イエスにあえて「最も重要な掟」を答えさせて、「これこれの掟を大切にすべきだ」と言うのを待ち構えています。そうすれば、「イエスは律法全体を大切にしていないのだ」と訴える口実を拾うことができるからです。しかしイエスは、そうした隠れた罠を見事にかいくぐります。

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を、自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」この原則に、律法全体と預言者がぶら下がっているのだから、原則を守って生きることで、すべての掟を大切にする生き方ができると、イエスはおっしゃいます。

さらに、質問した律法の専門家は「律法の中で、どれが」とだけ問いました。彼らにとっては律法を一点一画もおろそかにしないこと、これが何より大切なことでした。しかしイエスは、「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」と答え、律法の専門家のもくろみは失敗します。「律法全体と預言者」とは、神がイスラエルの民に示してこられた御心、その歩み全体を指しています。

イエスは、律法を捨ててよいとおっしゃったのではありません。律法の一つ一つを、神への愛と隣人への愛という根本から理解し、生きるように招いておられるのです。イエスはほかの場面でも、律法が人を苦しめるためではなく、人を生かすためにあると示されました。「安息日は人のためにある」という言葉にも、その姿勢が表れています。律法の本来の精神である「神への愛と隣人への愛に立ち返ること」それが、イエスの示された道なのです。

イエスは、人々を掟を守れるかどうかという不安だけに閉じ込めるのではなく、神を愛し、隣人を愛するという、信仰の根本へと人々を招かれました。律法を忠実に守ろうとすること自体が、間違っているわけではありません。神の言葉を大切にすることは、信仰者にとって大切なことです。しかし、掟を守ることが目的になり、そこに込められた神の愛や隣人への思いやりを見失うならば、律法は人を神に近づけるどころか、人を裁く道具になってしまいます。

これは、当時の律法の専門家たちだけの問題ではありません。私たち自身にも問いかけられていることです。私たちはイエスの生き方、つまり生活と密接に結びついている掟を二つの大原則に沿って生きる人になるか、それとも掟の一つ一つに触れたか触れなかったかをビクビクしながら生きる人になるか。選ぶ必要があります。もちろん私たちが選ぶのはイエスの示された大原則に沿って生きることです。

現在のカトリック教会にも、教会法典という分厚い教会法の書物がありますが、その一つ一つに触れたか触れなかったか、そんな生き方はきっと窮屈でしょう。教会の法律は、神への愛と隣人への愛の具体的な現れです。神が人となって生きてくださった。その姿を見倣うならば、それは必ず、神を心から愛し、隣人を自分のように愛することにつながるはずです。神が人となって近づいてくださった。その神の愛を感じて、私たちは隣人を愛することができるのです。

10月25日、私たち下五島地区では大切なミサがささげられます。「牢屋の窄殉教記念ミサ」です。神が人となって近づいてくださった。殉教者たちはそのことを誰よりも深く理解していたので、迫害者をも隣人として自分のように愛し、命をささげることができました。

殉教者たちの愛は、私たちには簡単にまねのできない崇高な愛に思えるかもしれません。ただ、神を愛し、隣人を愛するという出発点は、私たちの日常から始まります。自分と意見の違う人をすぐに裁かないこと。自分を傷つけた人を憎しみだけで見ないこと。助けを必要としている人に手を差し伸べること。そうした一つ一つの行いの中に、殉教者たちが生きた愛につながる道があります。

牢屋の窄の殉教者たちを記念するこの日、私たちもまた、神からいただいた愛を、身近な人々へと届けることができるように祈りましょう。ぜひこの日は、牢屋の窄での殉教者の取り次ぎによって勇気をいただき、これまで以上に神と隣人を愛することができるように願いましょう。

同じ信仰の先祖が、これほどの愛を示しました。今日、私たちも殉教者に倣う一日としましょう。彼らほど、「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」このことを理解している人たちはいないのですから。

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‥次の説教は‥‥
諸聖人(マタイ5:1-12a)
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ちょっとひとやすみ
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▼牢屋の窄殉教記念ミサ。2年前は(台風だったのかな)おおしけで、地区長の私と、地区評議会の議長、ほかにわずかの人を海上タクシーで運んで浜脇教会でミサを実施した。ミサの説教担当の司祭も海を渡ることが出来ず、説教原稿だけを預かって当時の福江の助任司祭が朗読した。
▼去年は、ミサを始めた途端雨が降り、説教の頃に降り止んだので現地でのミサを止めずに実施した。難しい判断だったが、実施はできた。
▼今年は、台風30号の直撃である。主任司祭(地区長)は前日入りし、宿泊して記念ミサに備える。どう考えても現地牢屋の窄殉教記念聖堂では無理のようだが、何か出来ないか、泊まっているうちに考えてみる。

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今週の1枚
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第1046回目。突きつけられた現実は酷だ。殉教ミサにたどり着ければ良いが。

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† 神に感謝 †

年間第29主日(マタイ22:15-21)これは、だれの肖像と銘か

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こうじ神父
「今週の説教」
2026/10/18(No.1438)
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年間第29主日(マタイ22:15-21)

これは、だれの肖像と銘か
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皆さんそれぞれ、好みの車とか、予算内で買った車をお持ちでしょう。それが「H」だったり「T」だったり、「D」や「S」だったりするわけです。ある先輩は、輪っかが4つ、横並びになっている車でした。このヒントだけで一定の方々は「高級外車だ」とお分かりと思いますが、維持するのは大変だったでしょう。

その、「H」とか「T」とかは、イエス様のおっしゃる「これは、だれの肖像と銘か」(22・20)に通じます。「H」のマークを見れば、「格好良さを重視している持ち主かな」と想像します。全てではないでしょうが、「肖像と銘」は持ち主の考えを推理する手がかりです。

今週の福音朗読に登場するファリサイ派の人々は、皇帝への納税問題を切り口に、イエスを訴える口実を見つけようとします。日常生活で流通していた貨幣はローマのデナリオン銀貨でした。この貨幣にはローマ皇帝の肖像と銘が刻まれていて、当時すでにローマ皇帝は神格化(神様扱い)されはじめていました。

ですからイエスが「納税は律法に適っている」と言えば「神は唯一であるのに、律法を否定している」と訴えることができ、「納税すべきではない」と言えば、すでにローマ帝国の占領下にあったユダヤの国で、「ローマ皇帝に歯向かう者」として訴えることができたからです。

イエスは、ファリサイ派の人々の偽善を見抜いています。問題だったのは、彼らが納税について疑問を持ったそのことではなく、イエスの答えから真理を学ぼうとせず、訴える口実ばかり探していたことです。神への忠実さを議論に上げながら、その問いを自らの回心のためではなく、相手を陥れるために利用していました。そこでイエスは税金に納めるお金を、「これは、だれの肖像と銘か」と問うたのです。

その上で、イエスはファリサイ派の人々の罠を抜け出すだけにとどまらず、もっと大切なことを伝えるための答えを示しました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(22・21)ファリサイ派の人々の質問を打ち破るだけなら、「皇帝のものは皇帝に返しなさい」だけで十分でしたが、さらに加えて「神のものは神に返しなさい」とおっしゃったのです。

では、「神のもの」とは何を指しているのでしょうか。「だれの肖像と銘か」ローマ貨幣には、皇帝の肖像と銘が刻まれています。同じように考えると、「神の肖像と銘」が刻まれているものがあるということになります。皆さんすでに答えが浮かんでいるでしょう。神が創造された人間にも、「肖像と銘」が刻まれているわけです。

旧約聖書、創世記1章に、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」(創1・26)とあります。最初の人間アダムのときから、人には神の肖像と銘が刻まれているのです。そしてそれぞれの生き方を通して、神に自分をお返しすることが期待されているのです。ファリサイ派の人々は皇帝への納税問題は熱心に議論しても、自分自身を生き方で神にお返しせよとイエスに言い返されて、一言も返せませんでした。

ルカ11章でファリサイ派の人々は厳しく咎められています。「ファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。」(11・42)実はこの指摘は、私たちもまた考えるべき点です。本当に神が求めていることを、社会に対して、教会に対してお返ししているだろうか。

たとえば教会の掟には、「それぞれの分に応じて教会維持費を負担すること」とあります。それは教会共同体を支える大切な務めです。しかし、神にお返しするということは、維持費を納めればそれで終わり、あとは役員や地区委員に任せれば良いということではありません。

もちろん教会には、さまざまな事情を抱えながら信仰を生きている人がいます。目に見える奉仕ができる人もいれば、病気や家庭の事情によって、思うように参加できない人もいます。それぞれの置かれた立場で生きている信仰生活を簡単には判断できません。

それでも、一人ひとり自分自身に問いかけることはできます。神からいただいた時間、能力、財産、そして人を愛する心を、私はどのように神と隣人にお返ししているだろうか。教会共同体の中で、できることは何だろうか。今から、できる一歩をぜひ踏み出していただきたい。

さらに掘り下げて考えることもできます。「神の肖像と銘」が刻まれた存在としての使命を、次は置かれた身分で果たしているかどうか。私たちは皆、洗礼を受ける前から、神の似姿として造られています。さらに洗礼でキリストに結ばれ、堅信でその信仰を強められ、司祭は叙階の秘跡で特別な奉仕の務めをいただきました。では、神からいただいた異なる恵みを、私たちはどのように生きているでしょうか。

ときおり私にも、大人になって洗礼を希望する人と巡り合わせてもらうことがあります。その人がなぜ洗礼を受けようと考えたか、その人なりの思いがあるでしょうが、心の中で「神のものは神に返しなさい」という声を聞き、それを果たしにやってきたのかなと思ったりします。

お恥ずかしい話ですが、そうした成人受洗希望者が現れると、こちらもあらためて洗礼のための勉強をすることになり、叙階までいただいた「神の肖像と銘」の使命をあらためて自覚し、「神のものは神に返す」そのきっかけが与えられるのです。本当に感謝しています。

「これは、だれの肖像と銘か」。人は、神がその人をお造りになった時すでに肖像と銘が刻まれました。その中で、ある人は洗礼によって、ある人は堅信によって、ある人は叙階や誓願によって、その肖像と銘がさらにはっきりと刻まれたのです。私たちは生活を通して、どれだけ「神のものを神に」返しているでしょうか。時間やお金だけでなく、思いも含め、神にお返しできているなら幸いです。

イエスが最後に言われた「神のものは神に返しなさい」という答えを、今週一週間、私の心に響かせましょう。私の心の中で響かせたことが、あるいは周りの人の心に響き、より多くの人が「神のものは神に返す生活」を心がけるようになるかも知れません。

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‥次の説教は‥‥
年間第30主日(マタイ22:34-40)
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ちょっとひとやすみ
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▼今年、十数年ぶりに台風が30号に到達したそうだ。まだ海水温が高く、温帯低気圧が台風に発達する要素が残っているのだろう。
▼「モンスーン」が「台風」になったというニュースも目を惹いた。どういう仕組みなのかを知らなかったが、「日付変更線」を超えて西に移動してくると「モンスーン」から「台風」と呼び方を変えるそうだ。今年は台風を避けて釣りに行かなければならず、ちょうど行ける日が少なかった。

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今週の1枚
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第1045回目。体育の日。これらの道具を使って「体育」をして過ごした。
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† 神に感謝 †

年間第28主日(マタイ22:1-14)見かけた者は誰でも婚宴に連れて来なさい

年間第28主日(マタイ22:1-14)見かけた者は誰でも婚宴に連れて来なさい


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こうじ神父
「今週の説教」
2026/10/11(No.1437)
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年間第28主日(マタイ22:1-14)
見かけた者は誰でも婚宴に連れて来なさい
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今週イエスが祭司長や民の長老たちに語ったたとえ話は、王は父なる神、王子はイエスを念頭に置いて語られたと考えて良いでしょう。招いておいた人々を呼ぼうとしましたが、最初は来ようとしません。そこで再び、婚宴がいかに念入りに用意されたものであるかを具体的に述べて、王の心からの願いをもう一度考えさせます。

それなのに、招いておいた人々は、それぞれが身勝手な理由で招待を無視し、もっとひどいことに、王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまいます。「婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。」(22・8)ここで王は、「招いておいた人々」だけが集まる婚宴から、「だれもが招かれる婚宴」へと向かっていきます。

王になぞらえられている父なる神の救いの計画は徐々に明らかになります。先週の朗読を振り返ると、「だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」(同21・43)と言われていました。最初から神の招きはすべての人へ向かっていたのでしょう。ただ、救いの歴史の中で、招きが次第にはっきりと示されていった、と考えられます。

しかし、王の大胆な招きには驚かされます。「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」(22・9)。当然、善人も悪人も集められることになります。王は、婚宴への招きの門を大きく開きました。私に、同じことができるかなぁと考え込んでしまいます。「見かけた人はだれでも」というのは、無謀すぎるのではないでしょうか。

無謀のようにも思えますが、王になぞらえられた父なる神の思いはここにあるのでしょう。招きを受け入れる人であれば、善人でも悪人でも、婚宴の席につくことができるのです。どれだけ集められても、受け入れる席があるのです。十字架上のイエスが、犯罪人の一人にそのことを示しています。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23・42-43)。

私たちは、父なる神の思いを受け入れることができるでしょうか。「見かけた者はだれでも連れて来なさい。」悪名高い人も、その人が招きを受け入れたなら同じ席につくことができる。名だたる悪人でなくても、いつも自分にばかりあたってくる人、やることなすことケチをつける人。私のほうが同席を断りたいと思う人であっても、招かれて応じるなら、席が与えられるのです。その婚宴の席に、私も連なることになる。これを、本当に受け入れられるでしょうか。

この地上では、自分が「招待客」であっても、参列者の中に同席したくない人がいれば、拒むことができるかも知れません。しかし、王子の婚宴の席は、そうはいきません。王が「見かけた人はだれでも婚宴に連れて来なさい」とおっしゃったのですから、見渡して「あっ!あの人がいるから嫌だ」そう思っても、これは身勝手な思いになります。王子になぞらえられているイエス・キリストの宴席に、「あの人がいるなら私は出席しない」は通用しないのです。この、父なる神の思いを、心の底から受け入れることができるでしょうか。

朗読箇所の最後に、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」(22・14)とあります。朗読の中では「礼服」を身に着けていない人が、外の暗闇にほうり出されましたが、これは置き換えると「善人も悪人も招き、応じた人はだれでも席につくことができる」この父なる神の思いに共感できる人かどうか、ということです。

「あの人と同席したくない」という私の心に気づいたとき、思いをそのままにしておくのか。それとも、神の招きにふさわしい心へと変えていただこうとするのか。婚宴の礼服を拒む人になり、外の暗闇に出されても仕方ない状態を自分で作るのか。「選ばれる人は少ない。」これまで私は、父なる神の心の広さを受け入れられない人のままだったかも知れません。

私たちは、自分の心の狭さに気づくたびに、礼服を着せていただく必要があります。招かれる人は多いのですから、何としても父なる神の思いを理解し、生き方を神の思いに合わせる必要があります。そのために、御子イエス・キリストが遣わされ、どのように生きれば父なる神の思いに沿うことができるのかを身をもって示してくださったのです。

「礼服」を着ないで婚宴の席に入ってきた人は、せっかく弁明の機会があったのに弁明しませんでした。同じ場面に私が置かれて弁明しないとすれば、些細な理由だからだと思います。「あの人がいるから、私は同席したくありません。」たったこれだけを直せないで、婚礼の席からつまみ出されるとしたら、何ともったいないことでしょう。そのような些細な理由が、神には「礼服を着ないで入ってきた」と見なされるとしたら、悔やんでも悔やみきれません。

この地上で、ミサに参加するとき、あなたはすでに襟を正す機会を頂いていると考えるべきです。私たちが主の食卓に着くことができるのは、私たちが立派だからではありません。私たち自身もまた、招かれた者だからです。だれかを見下したまま、ミサに参加していないでしょうか。あなたが見渡した中に、嫌な気分にさせる人がいないでしょうか。

その気持ちを乗り越えて、「神の子羊の食卓」に皆が招かれることを幸いと思える人になれますように。主は、「私」も「あの人」も同じ食卓に招いておられます。その事実を、私はどう受け止めるのか問われています。ミサの参加を父なる神の思いをより深く理解する「恵みの場」としましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第29主日(マタイ22:15-21)
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ちょっとひとやすみ
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▼長崎には「おくんち」という一大イベントがある。冬の「ランタンフェスティバル」もあとで作り出されたイベントの中では「大イベント」なのだが、「おくんち」は長い伝統がある。10月7日から9日まで。「9にち」が「おくんち」となったのだろうか。
▼私が初聖体をさせてもらった神父様は、実はこの「おくんち」の最中に神様に呼ばれた。お祭りが好きだったかは知らないが、楽しい神父様だったので、浦上教会から旅立っていくならいちばん賑わう日に、と願ったのだろうか。
▼10月8日はおくんち3日間の中間なので「中日(なかび)」と言う。この日に葬儀ミサを行い、この日の葬儀ミサ説教をお願いされて引き受けた。「山内 豊神父様」にちなんで、「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」(2コリント9・6)をテーマに説教した。いつものごとく、賛否両論。興味のある人は、2026年7月16日に公開したYouTube「こうじ神父・取って食べなさい」をご覧ください。

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今週の1枚
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第1044回目。iPhoneの電源をときどき落とすが、立ち上がらなくなり、焦った
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† 神に感謝 †

年間第27主日(マタイ21:33-43)ぶどう園の豊かさを神からのものと認め、喜んで分け合おう

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こうじ神父
「今週の説教」
2026/10/04(No.1436)
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年間第27主日(マタイ21:33-43)

ぶどう園の豊かさを神からのものと認め、喜んで分け合おう
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最近の車は、小型カメラを取り付けることで、記録が残るようになりました。それ以前は、記録がないことを理由に、事故の責任逃れをすることもありました。記録が残されていない場面で、相手の言い逃れを防ぐためには、どのような方法があるでしょうか。それは、相手に真実を言わせることです。

ぶどう園の主人はぶどうの収穫に必要なすべてを整えて農夫に貸して旅に出ました。その後収穫が近づいたので僕(しもべ)たちを農夫に送りますが僕たちは応じてくれません。応じてくれないだけでなく、僕たちをひどい目に遭わせました。そこで最後に、自分の息子を収穫の受取に送りましたが、これまで以上のひどい目に遭わせ、ぶどう園の外にほうり出して殺しました。あらゆる努力を試みて収穫を受け取ろうとしたのですが、農夫たちは決して応じてくれませんでした。

そこで、皆さんと確認したように、言い逃れを防ぎ、責任を明らかにするため、相手である祭司長や民の長老たち、つまり当時の宗教指導者たちに真実を言わせるために問いかけるのです。「さて、ぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか。」(21・40)彼らは本当に言い逃れができなかったので、真実を述べます。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すに違いない。」(21・41)

私はこの宗教指導者たちの答え方の中に、ルカ福音書の10章「善いサマリア人」の物語を思い出しました。律法の専門家がイエスに答えるとき、「その人を助けた人です。」(同37)と言います。これは、口にすることさえ嫌いな「サマリア人です」という言葉を避けたのだと思われます。

今週登場する宗教指導者たちも、「その悪人どもをひどい目に遭わせて・・・」と言うのですが、実は自分たち宗教指導者たちに当てつけられているので、口に出して言えずに、「その悪人ども」と言ったものと思われます。真実は述べますが、農夫として送り込まれた預言者をことごとく排斥し、父なる神の御子であるイエスさえエルサレム城外で殺し、神の求めに応じなかったのです。

「だから言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」先に送られた預言者たち、最後に送られた御子イエス・キリスト。人間は神から託されたものを、つい自分のものだと思いこんで使わされた者たちを排斥してしまいます。しかし、神はそのような人間をも見捨てず、皆で豊かにするきっかけとしてくださいます。事実救いの計画は今後全民族に、全世界に広げられました。また弱さを持った人間を見捨てずに、「隅の親石」であるイエスに連ならせることさえ計画してくださいました。

宗教指導者たちがイエスを捨てたことは、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」(21・42)ここでも明からです。これは詩編118の112節からの引用と思われますが、そこに繋がる体験を中田神父は経て、主任司祭として、地区長として、大切な役割を頂いております。その体験は、中学1年生のときでした。

私は中学1年生で司祭養成の最初の場である「小神学校」に入学しました。一学期を終え、夏休みに帰省して最初の日曜日のミサに行ったとき、正面玄関から入ろうとしたら入口で地元の若手のお父さんたちがこんな会話をしていました。「輝(てる)あんち(私の父の愛称)の息子が神学校に行ったらしいな」「そうみたいだな」「うそだろう?輝あんちの息子だぞ。神父様になれるはずがなかろう。あの輝あんちの息子だぞ?」

私が目の前を通過しているのも知らず、お父さんたちは盛り上がっていました。私は恥ずかしさと悔しさで顔を真っ赤にして聖堂に入ったのです。そして固く誓いました。「見てろよ。必ず司祭になって、見返してやる。」今は見返す気持ちは消えて、当時のことを感謝しています。教会を成り立たせるお父さんたちに捨てられた息子が、隅の親石イエスの働きに連なったのですから。

当時のお父さんたち、今はどうしているのでしょうか。神様は憐れみ深いので、神の国を彼らからとり上げたりはしないと思いますが、私が司祭になった当時は、あまりの不思議さに腰を抜かしたことと思います。

ぶどう園は、本当に豊かな場所です。この豊かな場所を僅かな人で占拠したり、収穫を分け合うことを拒んだりした過去はないでしょうか。私たちの利己心が、神のぶどう園である教会の豊かさを意味のないものにしてしまいます。

教会に集まるたびに、「私たちは、教会を自分たちだけのものにしていないだろうか」「新しく教会に来た人を、喜んで迎えているだろうか」「神様から与えられた賜物を、他の人々のために活かしているだろうか」。こうした問いを繰り返しながら、神様から託されたぶどう園を、皆で豊かにしていきましょう。

まだまだ、教会は豊かになる余地が残されています。あとは、神が準備して与えてくださった収穫を、本当に神様からのものと認めることができるか、そしてどれだけ喜んで分け合えるかにかかっています。

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‥次の説教は‥‥
年間第28主日(マタイ22:1-14)
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ちょっとひとやすみ
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▼司祭ソフトボールは前評判ではいつも長崎チームが強いことになっている。何せ三地区の選りすぐりがやって来るわけだから、強くて当然だろう。
▼しかし勝負はいつも時の運。去年の五島チームの優勝、その前の佐世保・平戸地区の優勝。蓋を開けてみなければ分からない。今年は何と、ホスト地区である五島のチームが二連覇してしまった。

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今週の1枚
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† 神に感謝 †

年間第26主日(マタイ21:28-32)招きは兄にも弟にも父の思いを考えさせる

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こうじ神父
「今週の説教」
2026/9/27(No.1435)
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年間第26主日(マタイ21:28-32)

招きは兄にも弟にも父の思いを考えさせる
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先週も、ぶどう園に労働者を送るたとえ話でした。今週は、自分の息子をぶどう園に送ろうとします。自分の息子がいないと仕事が回らないわけではありません。何かを学ばせ、伝えようとしているのかもしれません。父親の思いは何でしょうか。

先週のたとえ話と関連付けると、ぶどう園は、どんな人でも、たとえ1時間しか働かない人でも、一日の賃金を与えられる場所でした。一日の賃金と言いましたが、その日一日を暮らせる恵みが与えられる場所と言っても良いでしょう。

今週のぶどう園も、そのような場所かもしれません。ぶどう園に行く人は、例外なく、一日を暮らせる恵みが与えられる。その様子を、息子たちにも見せたい。そう考えたことは予想できます。将来、どちらかがぶどう園を受け継ぐでしょうから、見せておくのは大切でしょう。

兄は、父の勧めをいったん断ります。しかし兄は、あとで考え直して、出かけました。一方弟は、返事は良かったのですが、行きませんでした。ぶどう園は兄弟の手伝いがどうしても必要だったわけではなく、父の思いを学ばせるために行かせたでしょうから、兄、弟、どちらも自分でどう行動することにしたか、その決断で差が付きました。

私なりに想像を膨らませて考えますが、兄はきっと、ぶどう園で重労働は回ってこなかったと思います。彼はぶどう園の主人のご子息です。ただ、父がぶどう園で見せたかったものを見ることはできて、それを目に焼き付けたのではないでしょうか。

そうです。ぶどう園、つまり神の国がそこに表されているそのぶどう園は、どんな人でも喜びを味わい、そこに置いてもらうことを感謝できる場所なのです。兄は、それを学んで帰るだけで十分でした。

弟はどうでしょうか。兄が体験したすべての機会を失いました。行こうとしなかったので、貴重な機会を台無しにしたのです。ぶどう園は、父の思いを知る大切な場所でしたが、そこに行ってくるのと、行かないのとでは、完全に違う結果になるのです。

イエス・キリストが招いてくださるこのミサも、言ってみれば三位一体の神が用意してくださった「ぶどう園」なのではないでしょうか。このぶどう園に来た人は、主人が、一人ひとりに必要なものを惜しみなく与えてくださいます。最初「いやです」と心の中で思ったけれども、考え直して出かけてきた人もいるでしょう。それでもこの場所にしかない恵みに満たされて帰ることができるのです。

「子よ、ぶどう園へ行きなさい」と言われて「はい」と答えたつもりでも、実際には父の勧めに応えていないことが、私たちにもあるのではないでしょうか。これでは信仰体験の分かちあいは生まれません。教会のミサでなければ体験できない喜び、すべての人を例外なく満たす恵みの体験は、他のどこでも得られないのですから、私への個人的な招きは大切にしましょう。

主任司祭の私が幼い頃、遠洋漁業に従事していた父は教会のミサに行くことを渋っていました。しかし母は非常に機転が利く人で、前日から母方の祖母を家に泊まらせ、祖母から父親に「車を出して、ミサに連れて行っておくれ」とねだっていました。父は渋々、日産の大衆車を動かして、母と祖母を連れていき、本人もミサにあずかっていたのでした。今になって振り返ると、父は今日の福音に出てくる兄の姿が透けて見えます。

子供である私たちもミサに行きはしていました。あの頃の私は、ミサに来ることが恵みだとは理解できていませんでした。父も、母も、祖母も、それぞれ違う思いでミサに来ていたのでしょう。郷里の教会にも、確かに神様のぶどう園があったのだと思います。

私たちは、今日も主であるイエスから「子よ、ぶどう園へおいでなさい」と招かれています。あなたは来てくれさえすれば、計り知れない恵みに満たされます。三位一体の神しか与えることのできない恵みが、ミサという「主のぶどう園」にはあるのです。

後で考え直してからでも良いです。たとえ「いやです」という期間が長くても、「あとで考え直して」来てくれたら、分け隔てなく恵みをお与えくださいます。神は、どんなに長くかかっても、ご自身の思いに触れさせるために、「わたしのぶどう園においでなさい」と呼びかけ続ける神です。

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年間第27主日(マタイ21:33-43)
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ちょっとひとやすみ
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▼奇数の月は大相撲。毎場所、目に留まる力士がいる。今場所は、関脇に初めて昇進した力士だ。小さいながら、相撲をよく知っていて、大関も思わぬ苦杯をなめさせられている。
▼相撲は父の大好きな競技だった。自分自身が相撲を取ったことがあって、かつての「佐田の山晋松」に勝ったことがあるというのが自慢だった。もちろん大相撲の世界に入ってからではなく、中学時代の自慢話である。

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今週の1枚
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† 神に感謝 †

年間第25主日(マタイ20:1-16)最後の一時間、最後の一人まで機会を与えたい

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こうじ神父
「今週の説教」
2026/9/20(No.1434)
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年間第25主日(マタイ20:1-16)

最後の一時間、最後の一人まで機会を与えたい
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今週、私たちの小教区では敬老者の祝があります。対象者の皆様、お元気でミサに参加しておられること、本当に喜ばしいことです。心から神に感謝いたしましょう。そして、今日からまた、命を見守り続けてくださる神に信頼を置いて生きるとあらためて誓いましょう。

今回、巡回教会で主任司祭はミサをささげておりますが、本教会では敬老者のお祝いとともに、結婚五十周年を迎えた夫婦をお招きしてお祝いすることになっています。こちらの教会も含め、五十年の長きに渡り、結婚生活を完成させる歩みを続けてこられたことに、敬意を表したいと思います。

さて、福音朗読ですが、マタイ福音書の20章が選ばれました。「ぶどう園の労働者」のたとえで、あらすじはよくご存知でしょう。ぶどう園の主人は、職を求めて人が集まる場所に、夜明けから時間を変えて出かけ、それぞれの労働者に一日一デナリオンの約束で労働者をぶどう園に送りました。このぶどう園の主人はもちろん父なる神がモデルなのだと思います。

この主人は実に寛大でした。どの時間に雇った人にも、一日一デナリオンの約束でぶどう園に送ってくれたのです。「神の寛大さ」「慈しみ深さ」がそこに現れていると考えて良いでしょう。神は、どの人にも分け隔てなく、神のものさしで、「寛大さ」と「慈しみ」を人間に示すのです。

神の寛大さは、人間には到底理解できません。なぜなら「神の思い」は人間を超えているからです。どんなに遅れてぶどう園に雇われても、その人も一日分の賃金を受け取ることができます。それが「神の思い」です。ただ、それを人間は時として理解できず、批判し、非難するのです。その代表となったのが、いちばんはじめに雇われた労働者、夜明け頃に雇われ、「まる一日、暑い中を辛抱して働いた」(20・12)人たちでした。

この人たちの言い分は、「人の思い」ではありますが、朝から働いた人からすれば、「どうして自分と最後の一時間の人が同じなのか」と思うのは当然です。一デナリオンは一日の日当だったと言われています。現在の日当を想像するとうまく当てはまらないので、まぁ5000円くらいだったとしましょう。

「人の思い」で考えると、「神の思い」はいくら考えても理解できるものではありません。11時間働いても、1時間働いても同じ賃金ですから、憤慨するのは当然です。しかし先に述べたように、「神の思い」は「人の思い」では測れないのです。人間社会でも、「神の思い」に少し触れる機会はあります。たとえ自分にとって好ましくない人であっても、その人の命を軽く扱ってよい理由にはならないはずですが、扱いに差が出ることも実際には起こります。

少し、体験する機会はあったとしても、それでも「神の思い」は「人の思い」をはるかに超え、理解し難い。だから神はイエス・キリストを遣わして神の思いの一端に触れさせてくださった。そんな中で、私たちにできることがあるとしたら、「神の思い」を教会で深呼吸して帰ることくらいではないでしょうか。

ミサの中で、ミサ前のゆるしの秘跡の中で、ミサ中予定している敬老者の祝福式の中で、「私たちは人の思いに立つよりも、『神の思い』に立って物事を考えるようになりたいです」と、あらためて決意することではないでしょうか。

ぶどう園の主人は、最後の一時間まで、労働者を探しに行って、ぶどう園に送りました。最後の一時間、最後の一人まで、「神の思い」に触れさせようと必死に探し回っています。私たちも、「神の思い」に触れるために、今日こうして聖堂に招かれたのです。神の思いに触れさせようとして招かれた神の息吹を深呼吸して、また生活に戻りましょう。

実生活は「人の思い」で判断し、時には厳しい態度を取ることもあるでしょう。そうした社会に、「神の思いを深呼吸した私たち」は、今度は神の息を「吐く」ために派遣されます。ほんの僅かでも、「神の思い」に人々が触れることができるよう、いただいた神の息を吐く。神の思いに寄り添った態度を人々に示していきましょう。

今日、私たちはこの聖堂で、神のみこころを深呼吸しました。教会生活が長い人も、短い人も、同じ一デナリオンの神の息を深呼吸しました。「神の思い」言い換えれば「みこころ」が天に行われるとおり地にも行われますように。現代にも「神の思い」は社会に変革を与える力があることを、私たちが示すことができますように。

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ちょっとひとやすみ
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▼所属する教会では、「敬老者の祝い」の対象者は75歳になっている。私が幼い頃、60歳と言えばかなりの高齢で、そもそも80歳も90歳も生きている人なんて見たことがなかった。だから、たぶん60歳で「敬老会」の対象者だったと思う。
▼人生長くなったものだ。その中で何を大切に生きるか、金曜日に腹が決まった。それは「誤解されても言いたいことは言う」。理解してくれる人、本心が分かっている人は一人いれば十分。そして何より、イエスが私のすべてを知っておられる。RCサクセションの「君が僕を知ってる」の歌詞の通りだ。

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第1041回目。助任からのプレゼント。めっちゃ面白い。
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† 神に感謝 †