年間第27主日(マタイ21:33-43)ぶどう園の豊かさを神からのものと認め、喜んで分け合おう

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こうじ神父
「今週の説教」
2026/10/04(No.1436)
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年間第27主日(マタイ21:33-43)

ぶどう園の豊かさを神からのものと認め、喜んで分け合おう
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最近の車は、小型カメラを取り付けることで、記録が残るようになりました。それ以前は、記録がないことを理由に、事故の責任逃れをすることもありました。記録が残されていない場面で、相手の言い逃れを防ぐためには、どのような方法があるでしょうか。それは、相手に真実を言わせることです。

ぶどう園の主人はぶどうの収穫に必要なすべてを整えて農夫に貸して旅に出ました。その後収穫が近づいたので僕(しもべ)たちを農夫に送りますが僕たちは応じてくれません。応じてくれないだけでなく、僕たちをひどい目に遭わせました。そこで最後に、自分の息子を収穫の受取に送りましたが、これまで以上のひどい目に遭わせ、ぶどう園の外にほうり出して殺しました。あらゆる努力を試みて収穫を受け取ろうとしたのですが、農夫たちは決して応じてくれませんでした。

そこで、皆さんと確認したように、言い逃れを防ぎ、責任を明らかにするため、相手である祭司長や民の長老たち、つまり当時の宗教指導者たちに真実を言わせるために問いかけるのです。「さて、ぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか。」(21・40)彼らは本当に言い逃れができなかったので、真実を述べます。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すに違いない。」(21・41)

私はこの宗教指導者たちの答え方の中に、ルカ福音書の10章「善いサマリア人」の物語を思い出しました。律法の専門家がイエスに答えるとき、「その人を助けた人です。」(同37)と言います。これは、口にすることさえ嫌いな「サマリア人です」という言葉を避けたのだと思われます。

今週登場する宗教指導者たちも、「その悪人どもをひどい目に遭わせて・・・」と言うのですが、実は自分たち宗教指導者たちに当てつけられているので、口に出して言えずに、「その悪人ども」と言ったものと思われます。真実は述べますが、農夫として送り込まれた預言者をことごとく排斥し、父なる神の御子であるイエスさえエルサレム城外で殺し、神の求めに応じなかったのです。

「だから言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」先に送られた預言者たち、最後に送られた御子イエス・キリスト。人間は神から託されたものを、つい自分のものだと思いこんで使わされた者たちを排斥してしまいます。しかし、神はそのような人間をも見捨てず、皆で豊かにするきっかけとしてくださいます。事実救いの計画は今後全民族に、全世界に広げられました。また弱さを持った人間を見捨てずに、「隅の親石」であるイエスに連ならせることさえ計画してくださいました。

宗教指導者たちがイエスを捨てたことは、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」(21・42)ここでも明からです。これは詩編118の112節からの引用と思われますが、そこに繋がる体験を中田神父は経て、主任司祭として、地区長として、大切な役割を頂いております。その体験は、中学1年生のときでした。

私は中学1年生で司祭養成の最初の場である「小神学校」に入学しました。一学期を終え、夏休みに帰省して最初の日曜日のミサに行ったとき、正面玄関から入ろうとしたら入口で地元の若手のお父さんたちがこんな会話をしていました。「輝(てる)あんち(私の父の愛称)の息子が神学校に行ったらしいな」「そうみたいだな」「うそだろう?輝あんちの息子だぞ。神父様になれるはずがなかろう。あの輝あんちの息子だぞ?」

私が目の前を通過しているのも知らず、お父さんたちは盛り上がっていました。私は恥ずかしさと悔しさで顔を真っ赤にして聖堂に入ったのです。そして固く誓いました。「見てろよ。必ず司祭になって、見返してやる。」今は見返す気持ちは消えて、当時のことを感謝しています。教会を成り立たせるお父さんたちに捨てられた息子が、隅の親石イエスの働きに連なったのですから。

当時のお父さんたち、今はどうしているのでしょうか。神様は憐れみ深いので、神の国を彼らからとり上げたりはしないと思いますが、私が司祭になった当時は、あまりの不思議さに腰を抜かしたことと思います。

ぶどう園は、本当に豊かな場所です。この豊かな場所を僅かな人で占拠したり、収穫を分け合うことを拒んだりした過去はないでしょうか。私たちの利己心が、神のぶどう園である教会の豊かさを意味のないものにしてしまいます。

教会に集まるたびに、「私たちは、教会を自分たちだけのものにしていないだろうか」「新しく教会に来た人を、喜んで迎えているだろうか」「神様から与えられた賜物を、他の人々のために活かしているだろうか」。こうした問いを繰り返しながら、神様から託されたぶどう園を、皆で豊かにしていきましょう。

まだまだ、教会は豊かになる余地が残されています。あとは、神が準備して与えてくださった収穫を、本当に神様からのものと認めることができるか、そしてどれだけ喜んで分け合えるかにかかっています。

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‥次の説教は‥‥
年間第28主日(マタイ22:1-14)
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ちょっとひとやすみ
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▼司祭ソフトボールは前評判ではいつも長崎チームが強いことになっている。何せ三地区の選りすぐりがやって来るわけだから、強くて当然だろう。
▼しかし勝負はいつも時の運。去年の五島チームの優勝、その前の佐世保・平戸地区の優勝。蓋を開けてみなければ分からない。今年は何と、ホスト地区である五島のチームが二連覇してしまった。

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今週の1枚
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第1042回目。写真を元に、イラスト風に加工。プライバシーもこれで守れる。
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† 神に感謝 †

年間第26主日(マタイ21:28-32)招きは兄にも弟にも父の思いを考えさせる

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こうじ神父
「今週の説教」
2026/9/27(No.1435)
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年間第26主日(マタイ21:28-32)

招きは兄にも弟にも父の思いを考えさせる
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先週も、ぶどう園に労働者を送るたとえ話でした。今週は、自分の息子をぶどう園に送ろうとします。自分の息子がいないと仕事が回らないわけではありません。何かを学ばせ、伝えようとしているのかもしれません。父親の思いは何でしょうか。

先週のたとえ話と関連付けると、ぶどう園は、どんな人でも、たとえ1時間しか働かない人でも、一日の賃金を与えられる場所でした。一日の賃金と言いましたが、その日一日を暮らせる恵みが与えられる場所と言っても良いでしょう。

今週のぶどう園も、そのような場所かもしれません。ぶどう園に行く人は、例外なく、一日を暮らせる恵みが与えられる。その様子を、息子たちにも見せたい。そう考えたことは予想できます。将来、どちらかがぶどう園を受け継ぐでしょうから、見せておくのは大切でしょう。

兄は、父の勧めをいったん断ります。しかし兄は、あとで考え直して、出かけました。一方弟は、返事は良かったのですが、行きませんでした。ぶどう園は兄弟の手伝いがどうしても必要だったわけではなく、父の思いを学ばせるために行かせたでしょうから、兄、弟、どちらも自分でどう行動することにしたか、その決断で差が付きました。

私なりに想像を膨らませて考えますが、兄はきっと、ぶどう園で重労働は回ってこなかったと思います。彼はぶどう園の主人のご子息です。ただ、父がぶどう園で見せたかったものを見ることはできて、それを目に焼き付けたのではないでしょうか。

そうです。ぶどう園、つまり神の国がそこに表されているそのぶどう園は、どんな人でも喜びを味わい、そこに置いてもらうことを感謝できる場所なのです。兄は、それを学んで帰るだけで十分でした。

弟はどうでしょうか。兄が体験したすべての機会を失いました。行こうとしなかったので、貴重な機会を台無しにしたのです。ぶどう園は、父の思いを知る大切な場所でしたが、そこに行ってくるのと、行かないのとでは、完全に違う結果になるのです。

イエス・キリストが招いてくださるこのミサも、言ってみれば三位一体の神が用意してくださった「ぶどう園」なのではないでしょうか。このぶどう園に来た人は、主人が、一人ひとりに必要なものを惜しみなく与えてくださいます。最初「いやです」と心の中で思ったけれども、考え直して出かけてきた人もいるでしょう。それでもこの場所にしかない恵みに満たされて帰ることができるのです。

「子よ、ぶどう園へ行きなさい」と言われて「はい」と答えたつもりでも、実際には父の勧めに応えていないことが、私たちにもあるのではないでしょうか。これでは信仰体験の分かちあいは生まれません。教会のミサでなければ体験できない喜び、すべての人を例外なく満たす恵みの体験は、他のどこでも得られないのですから、私への個人的な招きは大切にしましょう。

主任司祭の私が幼い頃、遠洋漁業に従事していた父は教会のミサに行くことを渋っていました。しかし母は非常に機転が利く人で、前日から母方の祖母を家に泊まらせ、祖母から父親に「車を出して、ミサに連れて行っておくれ」とねだっていました。父は渋々、日産の大衆車を動かして、母と祖母を連れていき、本人もミサにあずかっていたのでした。今になって振り返ると、父は今日の福音に出てくる兄の姿が透けて見えます。

子供である私たちもミサに行きはしていました。あの頃の私は、ミサに来ることが恵みだとは理解できていませんでした。父も、母も、祖母も、それぞれ違う思いでミサに来ていたのでしょう。郷里の教会にも、確かに神様のぶどう園があったのだと思います。

私たちは、今日も主であるイエスから「子よ、ぶどう園へおいでなさい」と招かれています。あなたは来てくれさえすれば、計り知れない恵みに満たされます。三位一体の神しか与えることのできない恵みが、ミサという「主のぶどう園」にはあるのです。

後で考え直してからでも良いです。たとえ「いやです」という期間が長くても、「あとで考え直して」来てくれたら、分け隔てなく恵みをお与えくださいます。神は、どんなに長くかかっても、ご自身の思いに触れさせるために、「わたしのぶどう園においでなさい」と呼びかけ続ける神です。

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‥次の説教は‥‥
年間第27主日(マタイ21:33-43)
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ちょっとひとやすみ
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▼奇数の月は大相撲。毎場所、目に留まる力士がいる。今場所は、関脇に初めて昇進した力士だ。小さいながら、相撲をよく知っていて、大関も思わぬ苦杯をなめさせられている。
▼相撲は父の大好きな競技だった。自分自身が相撲を取ったことがあって、かつての「佐田の山晋松」に勝ったことがあるというのが自慢だった。もちろん大相撲の世界に入ってからではなく、中学時代の自慢話である。

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今週の1枚
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第1042回目。バンクシーという謎の芸術家がいる。謎のペイントに見える。
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† 神に感謝 †

年間第25主日(マタイ20:1-16)最後の一時間、最後の一人まで機会を与えたい

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こうじ神父
「今週の説教」
2026/9/20(No.1434)
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年間第25主日(マタイ20:1-16)

最後の一時間、最後の一人まで機会を与えたい
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今週、私たちの小教区では敬老者の祝があります。対象者の皆様、お元気でミサに参加しておられること、本当に喜ばしいことです。心から神に感謝いたしましょう。そして、今日からまた、命を見守り続けてくださる神に信頼を置いて生きるとあらためて誓いましょう。

今回、巡回教会で主任司祭はミサをささげておりますが、本教会では敬老者のお祝いとともに、結婚五十周年を迎えた夫婦をお招きしてお祝いすることになっています。こちらの教会も含め、五十年の長きに渡り、結婚生活を完成させる歩みを続けてこられたことに、敬意を表したいと思います。

さて、福音朗読ですが、マタイ福音書の20章が選ばれました。「ぶどう園の労働者」のたとえで、あらすじはよくご存知でしょう。ぶどう園の主人は、職を求めて人が集まる場所に、夜明けから時間を変えて出かけ、それぞれの労働者に一日一デナリオンの約束で労働者をぶどう園に送りました。このぶどう園の主人はもちろん父なる神がモデルなのだと思います。

この主人は実に寛大でした。どの時間に雇った人にも、一日一デナリオンの約束でぶどう園に送ってくれたのです。「神の寛大さ」「慈しみ深さ」がそこに現れていると考えて良いでしょう。神は、どの人にも分け隔てなく、神のものさしで、「寛大さ」と「慈しみ」を人間に示すのです。

神の寛大さは、人間には到底理解できません。なぜなら「神の思い」は人間を超えているからです。どんなに遅れてぶどう園に雇われても、その人も一日分の賃金を受け取ることができます。それが「神の思い」です。ただ、それを人間は時として理解できず、批判し、非難するのです。その代表となったのが、いちばんはじめに雇われた労働者、夜明け頃に雇われ、「まる一日、暑い中を辛抱して働いた」(20・12)人たちでした。

この人たちの言い分は、「人の思い」ではありますが、朝から働いた人からすれば、「どうして自分と最後の一時間の人が同じなのか」と思うのは当然です。一デナリオンは一日の日当だったと言われています。現在の日当を想像するとうまく当てはまらないので、まぁ5000円くらいだったとしましょう。

「人の思い」で考えると、「神の思い」はいくら考えても理解できるものではありません。11時間働いても、1時間働いても同じ賃金ですから、憤慨するのは当然です。しかし先に述べたように、「神の思い」は「人の思い」では測れないのです。人間社会でも、「神の思い」に少し触れる機会はあります。たとえ自分にとって好ましくない人であっても、その人の命を軽く扱ってよい理由にはならないはずですが、扱いに差が出ることも実際には起こります。

少し、体験する機会はあったとしても、それでも「神の思い」は「人の思い」をはるかに超え、理解し難い。だから神はイエス・キリストを遣わして神の思いの一端に触れさせてくださった。そんな中で、私たちにできることがあるとしたら、「神の思い」を教会で深呼吸して帰ることくらいではないでしょうか。

ミサの中で、ミサ前のゆるしの秘跡の中で、ミサ中予定している敬老者の祝福式の中で、「私たちは人の思いに立つよりも、『神の思い』に立って物事を考えるようになりたいです」と、あらためて決意することではないでしょうか。

ぶどう園の主人は、最後の一時間まで、労働者を探しに行って、ぶどう園に送りました。最後の一時間、最後の一人まで、「神の思い」に触れさせようと必死に探し回っています。私たちも、「神の思い」に触れるために、今日こうして聖堂に招かれたのです。神の思いに触れさせようとして招かれた神の息吹を深呼吸して、また生活に戻りましょう。

実生活は「人の思い」で判断し、時には厳しい態度を取ることもあるでしょう。そうした社会に、「神の思いを深呼吸した私たち」は、今度は神の息を「吐く」ために派遣されます。ほんの僅かでも、「神の思い」に人々が触れることができるよう、いただいた神の息を吐く。神の思いに寄り添った態度を人々に示していきましょう。

今日、私たちはこの聖堂で、神のみこころを深呼吸しました。教会生活が長い人も、短い人も、同じ一デナリオンの神の息を深呼吸しました。「神の思い」言い換えれば「みこころ」が天に行われるとおり地にも行われますように。現代にも「神の思い」は社会に変革を与える力があることを、私たちが示すことができますように。

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‥次の説教は‥‥
年間第26主日(マタイ21:28-32)
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ちょっとひとやすみ
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▼所属する教会では、「敬老者の祝い」の対象者は75歳になっている。私が幼い頃、60歳と言えばかなりの高齢で、そもそも80歳も90歳も生きている人なんて見たことがなかった。だから、たぶん60歳で「敬老会」の対象者だったと思う。
▼人生長くなったものだ。その中で何を大切に生きるか、金曜日に腹が決まった。それは「誤解されても言いたいことは言う」。理解してくれる人、本心が分かっている人は一人いれば十分。そして何より、イエスが私のすべてを知っておられる。RCサクセションの「君が僕を知ってる」の歌詞の通りだ。

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第1041回目。助任からのプレゼント。めっちゃ面白い。
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† 神に感謝 †

年間第24主日(マタイ18:21-35)先に赦された主人の家来が忘れてはいけなかったこと

年間第24主日(マタイ18:21-35)先に赦された主人の家来が忘れてはいけなかったこと

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こうじ神父
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2026/9/13(No.1433)
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年間第24主日(マタイ18:21-35)
先に赦された主人の家来が忘れてはいけなかったこと
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今日の福音で、ペトロはイエスに尋ねます。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」(18・21)当時、兄弟を赦すのは三回まで、と考えられていました。ですから、ペトロが「七回までですか」と尋ねたのは、かなり寛大なつもりだったのでしょう。

ところがイエスは、「七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい」(同22)と言われます。イエスが言われるのは、赦す回数を数えることをやめなさい、ということです。なぜでしょうか。それは、兄弟を赦すことが、単なる我慢や義務ではないからです。赦すということは、失われかけた絆をもう一度取り戻すことです。その絆の土台に神と私たちとの絆があります。

私たちは、神から赦されている。しかも、神の赦しには限度がありません。だからこそ、私たちも兄弟姉妹に対して、憐れみ深くあるようにと、イエスは求めておられるのです。今日のたとえ話には、そのことが、とても印象深く描かれています。

一人の家来が、一万タラントンという、とても返すことのできない借金を抱えていました。ところが主君は、その家来を憐れに思いました。私が特に心に留めたい言葉があります。主君が、ただ借金を帳消しにしただけではなく、「彼を赦した」点です。

主君にとって大切だったのは、借金のことよりも、この家来との絆を回復することでした。一万タラントンという、途方もない借金を帳消しにするほど、主君はこの家来との絆を大切にしたのです。「この家来との絆を失いたくない。」だからこそ、赦したのです。

ところが、その家来は主君の前を出ると、自分に百デナリオンの借金がある仲間に出会います。そして、その仲間を赦すことができませんでした。仲間が、「もう少し待ってくれ」と願っても、聞き入れません。ここでこの家来は忘れていたのです。それは、自分が先に赦されたばかりだったということです。どれほど大きな赦しを受け、どれほど深い憐れみを受けたのか。そして、その赦しによって、主君との絆を保っていただいたこと。それを、この家来は忘れてしまっていたのです。

だから主君は言います。「不届きな家来だ。(中略)わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」(同33)この家来に決定的に足りなかったのは、単に「仲間の借金を赦さなかった」ということだけではありません。自分が先に赦されたことを忘れてしまったことです。そして、主君が何を大切にしているのかを理解しなかったことです。主君が大切にしていたのは、借金よりも人との絆でした。

ところがこの家来は、主君から赦された後も、借金にこだわりました。だから、仲間との絆を切ってしまったのです。これは、私たちにも無関係な話ではありません。私たちはミサの中で、「兄弟姉妹」という言葉を使います。新しくなったミサの式文では、「兄弟」となっていたところが、「兄弟姉妹」となりました。

なぜ私たちは兄弟姉妹なのでしょうか。それは、私たち一人ひとりが、先に神から赦されている者だからです。自分では背負いきれない罪という負債を、神が憐れんでくださった。神が先に、私たちを赦してくださった。その赦しによって、神と私たちとの絆を保ってくださっている。だから、私たちは兄弟姉妹なのです。

ペトロの「何回赦すべきでしょうか」という問いに、私たちにも答えが出ました。何回まで赦すべきか、ではありません。何回でも赦そうとすること。そして、何回でも憐れみを示そうとすることです。もちろん、私たちは弱い人間です。頭では分かっていても、心がついていかないことがあります。仕返しをしたくなる。相手を無視したくなる。「もう二度と関わりたくない」と思うこともあります。何年も前の出来事なのに、いまだに赦せないこともあります。人間は弱いからです。

こんなとき、ゆるしの秘跡は大いに役立ちます。ゆるしの秘跡で、私たちは自分の罪を神の前に差し出します。神は、司祭を通して赦しを与えてくださいます。私はゆるしの秘跡で勧めを与えるとき、意識していることがあります。「神様は、今日こそあなたが帰って来るのではないかと、ずっと待っておられたのですよ」ということ。放蕩息子の父親が、息子を待ち続けていたように、神様は今日まで、私たちを待っておられたということです。「神様は、赦すために今日まであなたを待っておられました。」そのことが伝わるようにと、勧めを与えています。

そして、勧めを与える私自身も、神の赦しを体験します。赦していただいた方と共に、その喜びを感じています。ミサを通して、あるいはミサの前にゆるしの秘跡を受けて、私たちは今日も、一万タラントンの負債を憐れみ、赦し、帳消しになさる神に出会うことができます。神の赦しに触れることができます。

今日、ここに、赦せない出来事を抱えている人がいるかもしれません。何年も前の出来事を、今も赦すことができない人がいるかもしれません。その傷を、「無かったこと」にしてとは言いません。赦すということは、悪かったことを「悪くなかった」と言うことではありません。傷つけられたことを無かったことにするのでもありません。

ただ、その裁きを自分の手に握り続けるのではなく、主に委ねていく。そして、もう一度、神との絆の中に自分自身を置いていく。その一歩を、今日踏み出すことなのだと思います。「神が先に私を赦してくださった。」このことがキリスト者にとってのただ一つの基準です。

神が先に私を赦してくださったから、神と私との絆が保たれています。その絆を土台にして、今日、私も出会う兄弟姉妹を憐れんでいく。今すぐは難しいのなら、「主よ、赦せるようにしてください」と祈る。それでもいいです。私たちが何回赦せるかを、神は見ておられません。私たちが、何度倒れても、それでも赦す方へ向かおうとしているか。そこに神は目を向けてくださいます。

最後に、裁きは主に委ねましょう。私たちがすることは、すべてを自分で解決することではありません。ただ、私たち自身が赦された者として生きることです。今日も一万タラントンを憐れみ、赦してくださる神がおられる。その神の憐れみを、私たちが兄弟姉妹を赦すことによって、この世界に示していくのです。

私たちは皆、先に赦された者です。そして、主イエスが限度をつけずに赦してくださる、憐れみ深い主人であることを知る兄弟姉妹です。私たちが互いに赦し合う力の源は、「神から先に赦されている」ということです。これが出発点です。今日も、神との絆を大切にしながら、兄弟姉妹との絆をもう一度、少しずつでも取り戻していくことができますように。

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‥次の説教は‥‥
年間第25主日(マタイ20:1-16)
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ちょっとひとやすみ
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▼私は第一子長男で、ずいぶん他の兄弟よりも優遇されて育てられた自覚がある。昔の育て方と言えばそれまでだが、弟たちは兄のせいでかなり「我慢しなさい」と言われたのだろうと想像している。そのことをまず謝りたい。
▼それと、私自身が短気だったので、弟たちをかなり泣かせてしまった。弟のいたずらに高校生の私がかっとなったこともあった。それはひらに謝りたい。また会うこともあるだろうから、その時は正直に詫びたいと思う。

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今週の1枚
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第1040回目。いよいよ聖堂の周りは囲いができて、むしろ目立つ建物になった
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† 神に感謝 †

年間第23主日(マタイ18:15-20)イエスがその中におられる友が「真の友」

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こうじ神父
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2026/9/6(No.1432)
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年間第23主日(マタイ18:15-20)

イエスがその中におられる友が「真の友」
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マザーテレサの映画をご覧になったことがあるでしょうか。「神の愛の宣教者会」という修道会を創立したことでもちろん知られています。列聖もされました。私は映画館で見るチャンスがあったのですが、映画館に行きそびれて、DVDを購入して視聴しました。彼女に起こった特別な体験はもちろん素晴らしいと感じましたが、私は今回別の点を取り上げたいと思います。

彼女は、「神の愛の宣教者会」を創立したことで、志願してくる多くの志願者を選別する務めを果たさなければなりませんでした。つまり、「この修道会に向いているか、向いていないか」をふるいにかけなければならなかったのです。神学院とか、志願院で働いたことのある方々が避けては通れない務めです。

マザーテレサは冷静に、もちろんよく考えた上で、ある人を志願院から実家に帰るよう促します。志願者は、理由を告げられる人もいるでしょうし、時には理由を告げられずに実家に返されることもあります。すべてマザーテレサの中には毅然とした理由がありました。

しかし、実家に帰したかつての志願者たちを、彼女は決して忘れていませんでした。ある時神の愛の宣教者会にスキャンダルと言いますか、悩ましい問題が生じます。その荒波を乗り越えるために、たくさんの祈りが必要でした。当然修道会全体が、心を一つにして祈るのですが、マザーテレサはその他に、世界中から志願してきたけれども帰された一人ひとりに、「〇〇さん、今あなたの祈りが必要なの。祈ってちょうだい」と電話をかけます。

電話を受けた、もと志願者はどうしていたでしょうか。映画の中では、時差のある国に住んでいるもと志願者に電話がかかり、「祈ってちょうだい」とお願いされると、二つ返事で「はい分かりました」と答えるのです。今週のイエス様の言葉が響きます。「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」(18・19)

時差も違い、志願者の頃とは全く違う生活をしていたのに、その人はマザーテレサの電話に即座に答えました。きっと、「いつかお願いされたら、すぐに応えよう」と常に心の準備をしていたから、対応できたのだと思います。私はそのシーンを見て、マザーテレサには、常に、心を一つにして祈り求めてくれる友人が地上にいる。それが映画の中で私の心を打ちました。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(18・20)あなたには、「わたしと一緒に祈ってくれる?」とお願いして、「ほいきた」と二つ返事で祈ってくれる人がいるでしょうか。そんな心強い友が、二人また三人いるでしょうか。残念ながら中田神父にはいま頭にそういう人が浮かびません。

「祈っておくよ」と返事してくれる人はいます。しかし「今、このときに祈ってほしい」とお願いして「分かった。君の願いだからすぐ祈るよ」と言ってくれる人を二人また三人思いつきません。人間関係が壊れそうなときにも、互いに向き合い、赦し、そしてキリストの名によって一つになれる。あなたには、そんな心強い友がいるでしょうか。その友は、どんな金銀よりも、どんな宝石よりも、大切な宝だと思います。

あるいは、イエスご自身が、映画のマザーテレサのように、「今、このときに」祈りを共にしてほしいと願っているかもしれません。私は、その願いに「今すぐに」答えられる状態を保っているでしょうか。「ちょっと待ってくださいね」と言って、それから答えるでしょうか。

あなたが、今すぐに一緒に祈ってくれる人を見つけたらその人を決して失ってはいけないと思います。その人こそが、生涯あなたを助けてくれる真の友だからです。そしてその友との中に、イエスはいつもともにいてくださいます。イエスがその中におられる友こそ、「真の友」なのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第24主日(マタイ18:21-35)
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ちょっとひとやすみ
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▼病人訪問で楽しいひとときを過ごしてきた。祈りを唱えて聖体拝領を受けるのだが、「耳が遠いかも」と思って大きめの声でゆっくり唱えて式を進めた。
▼すると、そのスピードについて行けるものだから、司祭が唱える部分を聖体を受ける人がつい唱えてしまう。「世の罪を取り除く神の小羊。神の小羊の食卓に招かれた人は幸い。」
▼最後は祝福の祈り。「全能永遠の父である神よ。いのちの糧で養われたこのキリスト信者を顧み、心もからだも強めてください。わたしたちの主イエス・キリストによって。」私が「アーメン」と答えた。

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今週の1枚
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第1039回目。足場でとうとう囲われてしまった。これをネットで覆うと真っ暗
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† 神に感謝 †

年間第22主日(マタイ16:21-27)十字架を担う時から、復活の命が始まっている

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こうじ神父
「今週の説教」
2026/8/30(No.1431)
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年間第22主日(マタイ16:21-27)

十字架を担う時から、復活の命が始まっている
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8月29日、8月30日まで当然夏休みだと思っていた中田神父のような年代には、24日月曜日からさっそく学校に通っている小学生中学生は、本当に偉いです。ではさっそく福音朗読に取りかかりましょう。

イエスは、これから起こる重大な出来事を、ご自分と寝食を共にしてきた弟子たちだけに打ち明けました。彼らなら、理解してくれるかもしれない。そういう期待があるからですよね。ペトロがすぐに反応しました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」(16・22)慈しみ深い父なる神が、そんなことはなさらないはず。祈るような気持ちだったでしょう。ペトロはイエスを愛していたからこそ、イエスの十字架を受け入れられなかったのです。

皆さんだったら、イエスが打ち明けた重大な話に、どのように反応しますか。「イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」(16・21)ペトロと同じような反応をしますか。それとも、あまりの恐ろしさに、言葉も出なくなりますか。

それは、ご家族の一人から、「調子悪いなぁと思って健康診断を受けたら、精密検査に回され、なんと、余命半年と言われたよ。こんなことになってごめんね」と打ち明けられた。そんな感じでしょうか。皆さんが家族の一人だったら、どう反応しますか。あまりの恐ろしさに、言葉も出なくなりますか。

あなたが余命半年の診断を受けた人のパートナーだったら、「何てこと言っているの。そんなことあるはずないじゃない」と言わないでしょうか。たとえ事実でも認めたくないし、これまで積み上げてきた人生を考えると、愛するパートナーに言わないでは居られないでしょう。

ペトロの反応も、ごく自然な反応だったと言えます。常に自分たちの尊敬する姿で前を歩いてくださった方なので、宗教指導者から多くの苦しみを受けて殺されるなど、想像すら出来なかったのです。

「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(16・23)ペトロはイエスを思って言ったのです。しかし、その愛情の中にさえ、神の思いではなく、人間の思いが入り込んでいました。だからイエスは、ペトロの言葉そのものではなく、その背後にあるものを退けます。今回は、みごとな信仰を表明した先週のペトロのように「神の思い」に沿うことができず、「人間的な思い」から逃れられませんでした。

何事も、先頭を行く者が決断をし、あとからついて来る人たちはそれに従うものです。未知の場所への探検で、先頭を行く者が「右だ」と言っているのに、あとをついて来る者たちが「いや左だ」と言えるはずがありません。イエスはご自身先頭を行く者としての自覚をもって、自分が十字架を担うのだから、あとについて来る者も十字架を背負うのだと戒めます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(16・24)

十字架刑は、当時の刑罰の中でも「極刑」です。十字架を背負う人は、当然その十字架に磔にされるわけで、すべてをはぎ取られることになります。イエスは上着も下着もはぎ取られ、裸にされましたが、それは着物をはぎ取られただけのことでしょうか。あるべき姿、尊厳も名誉もはぎ取られた、ということではないでしょうか。

そうであれば、イエスのあとを行く弟子たち、そしてそれに続く私たちも「十字架を担う」ことで、人から認められたい欲求やこれまで積み上げた経歴もはぎ取られた上に十字架を担うことになる。その覚悟が求められます。人からどのように見られるかを身にまとっていては、イエスが求める「自分の十字架」を背負うことができないのです。

イエスが背負う十字架の中心にあるのは「苦しみ」ではなく、父なる神への従順と、人間を愛し抜く愛です。誰も十字架は選べません。しかし、十字架をどう担うかは自分に問うことができます。いかにも苦しそうに担うのか。自分の力に頼って担うのか。

もしあなたが、先に十字架を担われたのはイエスだと気付くなら、担うための力もイエスが与えてくれると知るでしょう。なぜならイエスは受難の予告を三度もなされ、常に先頭にいて十字架を担い、永遠の命を得る道を進んでくださるからです。力は、先頭に立っていっさいの十字架を担ってくださるイエスが与えてくださいます。

決して華々しい道ではありませんが、この道は確実に、「まことの命」への架け橋なのです。イエスは今も弟子たちすべてに、信頼を寄せているからこそ、自分の十字架を背負ってあとに続くように求めます。

「まことの命」「栄光に輝く命」。十字架を担うことがその架け橋になるのであれば、自分の十字架を背負っている時点ですでに「まことの命」「栄光に輝く命」は、始まっているのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第23主日(マタイ18:15-20)
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ちょっとひとやすみ
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▼ChatGPTなんて還暦のおじさんには何にも関係ない、と思っていたが、いやいや使ってみて「恐るべし」と感じた。今週の説教を「あなたが読んで、コメントを聞かせてほしい」と書いてから説教案を流したら、3秒で「拝読しました」と返ってきた。
▼コメントもびっしり書かれていて、「これが3秒で返してくる答えか?」と目を疑った。長崎教区はこれから数年、新司祭は誕生しないが、次に現れる新司祭はChatGPTを駆使する司祭かもしれない。向き合うべきものが、新たに増えた。

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今週の1枚
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第1038回目。いつだったか、浜脇教会に行くとき持たされた弁当。豪華の一言
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† 神に感謝 †

年間第21主日(マタイ16:13-20)わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる

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こうじ神父
「今週の説教」
2026/8/23(No.1430)
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年間第21主日(マタイ16:13-20)

わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる
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「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」(16・18)ペトロのイエス様理解は、非常に的確でした。私たちがその場に居て、これだけの言葉を発することができるだろうかと考えると、いかにすぐれた答えをしたかが分かります。たぶんこれだけの答えを、私たちは返すことはできないからです。

そのペトロに、大きな使命が託されます。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天井でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天井でも解かれる。」(16・19)この「鍵」について、今週はこだわってみたいと思います。

「鍵」について、イエス様は他の場面でも使いました。その中で関係ありそうだなと思われるのはルカ11章での使い方です。イエス様は律法の専門家に厳しい言葉を投げかけます。「あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ。」(ルカ11・52)本来なら「知識の鍵」を授けられて、人々を天の国へと導く指導的立場にあったのに、彼らはそのチャンスを放棄してしまいました。

天の国は、天の国の知識を持つ人々に開放されます。当時のことを考えると、家には門があり、門には鍵が掛けられていました。天の国の知識を持つ人々は、鍵を開けてもらってその門を通り、天の国に招かれるはずです。本来、律法の専門家に鍵の開け閉めが任せられるはずだったのに、イエス様を信頼できなかった彼らは、天の国の知識の鍵を使いこなせませんでした。

おそらく、ペトロに授けられた鍵は、この律法の専門家とのやり取りと対比させられているのでしょう。ペトロは、イエス様に全面的に信頼を寄せていたので、天の父が的確な答えを与えてくださり、さらにイエス様から「天の国の鍵」を授けてもらったのです。自分の学識知識により頼む律法の専門家ではなく、すべてを捨ててイエスについてきた、一介の漁師に過ぎないペトロこそ、「天の国の鍵」を授けるにふさわしい人物だったのです。

一つ疑問が残るのですが、「鍵」は物理的な鍵だったのでしょうか。律法の専門家とのやり取りの中でも「知識の鍵」という言い方でした。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。」この鍵はどんな鍵だったのでしょうか。今や車の鍵でさえも、物理的な鍵ではなくなってきましたね。いったいどんな鍵だったのでしょうか。

こう考えてはいかがでしょうか。イエス様は復活して弟子たちに現れたときにこう言いました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネ20・22-23)つまりペトロとその後継者たちに与えられる聖霊こそが、天の国の鍵だったのではないでしょうか。

ペトロの時代にも、建てられたばかりの教会組織の運営にはさまざまな問題が生じました。その後の教会でも、正しく信仰を受け継ぐ中で、都合良く信仰をゆがめたり、信仰に反する生き方を安易に選んだりして、さまざまな問題が生じました。それらの問題解決の「鍵」となったのが、「聖霊の導き、照らし」だったわけです。

今も教会は、さまざまな問題に直面しています。社会の法律は、どんどん変更され、今を生きる人にある面では都合を優先して法が整備されます。そんな中で、「天の国の鍵」を授けられたペトロの後継者たちは、難しい舵取りをしていると言えるでしょう。難しい舵取りが可能なのは、まさに「聖霊の導き、照らし」のおかげです。

「天の国の鍵」は、人間が勝手に設けたものではなく、イエス様から直接手渡されました。この鍵を扱うペトロの後継者の方々のために、暑さが極みまで来ているこの時期ですが、お祈りしたいと思います。

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‥次の説教は‥‥
年間第22主日(マタイ16:21-27)
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ちょっとひとやすみ
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▼夏バテなのか、冷房病なのか、元気がない。お腹の調子も悪い。夜寝ても頻繁に起きる。この前、初めて眼科を受診し、「左目の中に黒い点がいくつも見えます」と相談したら、「年齢相応ですね」とあしらわれた。
▼先生も、数限りなく症例を見てきて、「歳ですよ」と診断するのも仕方が無いが、言われた方は「何か病名を付けてほしかったな」と思ったりする。他にも、郵便局でパンフレットを見せられ、「ゆうちょアプリをご利用しませんか?とても便利ですよ」と言われた。「これですか」とスマホを見せたら、「ご利用でしたか。失礼しました」というオチだった。還暦を迎えると、こんな扱いも覚悟しなければならないのだろうか。

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今週の1枚
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第1037回目。教会の外壁工事を前に、足場が組まれた。マリア様、辛抱してね
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† 神に感謝 †