神の母聖マリア(ルカ2:16-21)

新年あけましておめでとうございます。夜中のミサに参加してこのミサにも参加している方は、同じことを二度も聞かされておめでとうございます。初日の出も2回拝めたと思うので、おめでとうございます。

神の母聖マリアの守るべき大祝日から2018年を始めます。マリアは毎年わたしたちに模範を示してくれる方です。福音朗読と、福音書でマリアが登場するほかの場所にも触れながら、今年一年の大枠を見つけることにしましょう。

わたしの書棚には、たまにしか出番のない書物があります。ふだんは置いてあるだけですが、考えていることを確かめるために必要な書物です。その中の一冊が、「四福音書対観表」という本です。英語で”Synopsis”と呼ばれる種類の本です。2万円もしました。

簡単に言うと、四つの福音書を読み比べる本です。福音書に収められているイエスの言葉、たとえ話などを、マタイではどう書かれているか、マルコではどのようになっているか、ルカではどうか、ヨハネにも採用されているのかと、読み比べる本です。

たいていの人は、「そんな読み比べが何の役に立つのか」と思っているでしょう。わたしもそう思いますが、たまに読み比べてわかることがあるのです。イエスの誕生にまつわる話はマタイ福音書とルカ福音書の2福音書が書き残していますが、その中で羊飼いたちが登場するのは本日の朗読に選ばれているルカ福音書だけです。一方、占星術の学者たちが登場するのはマタイ福音書だけです。

登場人物の違いは、イエスの誕生のどこを強調したいかの違いです。ルカ福音書は、野宿して暮らすしかない羊飼いにもイエスは現れてくださったと強調していますし、マタイ福音書は諸外国にもイエスは礼拝されるお方であると強調しているわけです。両方読み比べることで、イエスの誕生の意味を重層的に読み解くことができます。

今の例でこの本の価値が分からなければ致し方ありません。先に進みます。本日の福音朗読で登場する羊飼いたちが最初に出会った尊いお方は誰でしょうか。それはイエス・キリストです。主の天使が「救い主」「主メシア」と呼ぶ尊いお方に、生まれて初めて会ったのです。

彼ら羊飼いは、羊を養いながら住まいを転々としていく人々でした。動物を飼育するという仕事は、当時は低く見られていた仕事だったでしょう。するとこの人たちが高貴な人に直接会うなどということは考えられなかったわけです。尊いお方に会うことなど想像すらしていなかった人生でしたが、思いがけずその機会を与えられました。

さらに羊飼いたちは、この素晴らしいチャンスを自分だけのものにしなかったのです。羊飼いたちは自分たちが見たことを人々に知らせました。ここでちょっと余談ですが、羊飼いたちが知らせた人々はどんな人たちだったでしょうか。

わたしの想像ですが、同じ羊飼い仲間とか、羊をやり取りする商売相手とか、飼っている間に羊にも水を飲ませるでしょうから、水汲み場で出会う女性たちだったのではないでしょうか。話を聞いた人たちも、社会では高い身分でない人々だった。こうして羊飼いたちは、社会の底辺にいる人々に、広く救い主の誕生を知らせることになったわけです。

羊飼いたちにとって、幼子イエスは自分たちが親しくさせてもらった、最初で最後の尊いお方だったかもしれません。そこから一歩踏み込んで、救い主イエス・キリストが最後に出会った人は誰だったのでしょうか。わたしは、マリアがその人だったのではないかと思っています。

先に話した「四福音書対観表」にもう一度戻りましょう。イエス・キリストの受難の場面はマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネすべての福音書が取り扱っていますが、イエスの十字架のそばで母とそのそばにいた愛する弟子とのやり取りを書いているのはヨハネ福音書だけです。それは当然と言えば当然です。

この二人とのやり取り、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」「見なさい。あなたの母です」と語りかけたのが、イエスの十字架上での最後の場面ではないかと思っています。ですからここで語りかけた母と愛する弟子が、イエスが最後に出会った人だと思うのです。

もちろんイエスと一緒に十字架につけられた犯罪人たちともやり取りがあります。ですがわたしは、母マリア、愛する弟子とのやり取りを最後にもっていきたいです。特に母マリアこそ、神がこの世にお遣わしになった御独り子が最初に出会い、最後に出会った人だったのです。

これは注目すべき点だと思います。わたしたちが2018年の最初の日に祝っている神の母聖マリアは、御独り子の最初の場面から最後の十字架の場面まで立ち会ったお方でした。わたしたちは一年の初めに神の母聖マリアの模範を仰ごうとしています。「マリアはイエスの最後の瞬間まで、そばを離れないお方である。」これがわたしたちに示された模範ではないでしょうか。

言い換えると、イエスが最初に出会い、最後に出会った方マリアに倣うことが、一年の初めに求められているということです。わたしはお生まれになったイエスと最初に出会う人として心構えができているだろうか。十字架の上で救いのわざを完成されるイエスと最後に出会う人として心構えができているだろうか。これらが問われているのです。

すでに、「最初に出会う人としての心構え」は御降誕の夜半のミサで考えました。ここでは、「最後に出会う人としての心構え」を結びとして考えましょう。ひとことで言うなら、「最後までイエスのそばから離れない覚悟があるか」ということです。

今日は新成人の祝福式があります(でした)。新成人にも問いたいと思います。「あなたは、最後までイエスのそばを離れない覚悟がありますか。」この問いに「はい」と答える人が、真の意味で大人の信者なのです。

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ちょっとひとやすみ
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▼わたしたちは一年の初めにどれくらい先を見越しているのだろうか。人それぞれだとは思うが、わたしは3ヶ月くらい先を見越して考えている。もっともそれは、90日後までの毎日のスケジュールを見越しているわけではない。
▼たとえば今年の復活祭は何月何日になっているか、それにすぐ返事ができるか。そういう大枠のことである。ちなみに今年の復活祭は4月1日である。そこから逆算すると、3月の第3週あたりには黙想会を組む必要がある。
▼復活祭のおよそ2週間前には、長崎教区内の人事異動が明確になる。ある人にはもっと早く情報が入るのかもしれないが、わたしのように人事に興味のない人には入って来ない。もっとさかのぼると、3月に入るとソワソワする人が出てくるという計算だ。
▼あるいは復活祭2週間後には転勤が実施される。地区の司祭の顔ぶれが変わり、どんなことに強みの出る地区なのか、顔触れを見ればおよそ見当がつく。その中で伸ばせるところ、補い合うべきところ、いろいろ考えながら月に一度知恵を絞るために集まる。
▼黙想会が3月の第3週だとすると、黙想会の説教師には3ヶ月前には依頼する必要が出てくる。12月初めだ。平戸地区は2月第3週に堅信式が組まれている。堅信を受ける子供達(おもに中学2年生)は、1月終わりか2月初めには堅信を受ける準備ができているか試験を受ける。試験問題をわたしは2学期の終わりごろに配った。
▼さまざまな案件を、およそ3ヶ月先を見ながら考える。今年は5月13日に、献堂百周年を予定している。その日まで、一つずつ解決していく課題があり、それがまた楽しみでもある。

† 神に感謝 †