年間第17主日(ヨハネ6:1-15)

年間第17主日B年の福音朗読はヨハネ福音記者が描く「五千人に食べ物を与える」場面が選ばれました。出来事そのものは共観福音書と呼ばれる「マタイ・マルコ・ルカ福音書」にも記されています。ヨハネは共観福音書とは異なる捉え方を持っています。出来事を「しるし」として捉え、イエスへの信仰を増し加えるように招くのです。

さて子供たちのドッヂボール大会は本当に残念でした。対戦相手が青砂ヶ浦と桐だったのでわたし自身は最初から戦意喪失だったのですが、子供たちはむしろやる気満々だったようです。練習の成果を発揮させてあげたかったのですが、台風ではどうにもなりません。

中止になったので話しますがわたしの心の中では、福音朗読に登場する弟子と似たような言葉が響いていたのです。「ここに大会に参加できる子供が8人います。けれども、8人ではどうにもならないでしょう。」10人いて本来のチーム、8人では歯が立たないと思っていたのです。

福音朗読の場面は、もっと深刻な場面だったと思います。男の人が五千人いて全体ではそれ以上ですから、「大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年」を弟子たちが見つけたとしても、それは焼け石に水、何の足しにもならないと考えるのは無理もありません。

ところがイエスは、「足りない状況」「何の役にも立たない状況」を確認してから動き出します。イエスが望めば、フィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(6・5)と尋ねなくとも動くことはできたはずです。弟子たちから希望の持てる返事が返ってくるはずがないからです。

それでも、イエスは弟子たちの返事を確認してから動き出しました。なぜそうなさったのだろうかと考えます。わたしはこう考えました。「大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年」とは、イエスのことだったのではないでしょうか。

物語としては少年という形になっていますが、イエスが少年に「そのパンと魚を貸してくれ」と言った様子もありませんし、弟子たちに「その少年をこちらに来させなさい」と指示した形跡もありません。いつの間にか少年のことは物語から消えていますから、少年がいたかどうかはさほど重要ではないのでしょう。

大事なのは、少年という姿が何を意味しているかということかもしれません。大人に対しての少年ですから、力の足りない存在、未成熟・未完成の存在、無力な存在を意味していると思います。そして、わたしが考えたように、イエスは無力な存在であるかのように地上での最期を遂げられましたから、物語に登場する少年の可能性もあるわけです。

エスが動き出し、弟子たちがイエスの働きに協力して、五千人の群衆は食べ物を得ることができました。そしてこのことを、ヨハネ福音記者は「しるし」と見ています。どんなしるしでしょうか。それは、イエスが天からのまことのパンであるというしるしです。

しかし、イエスが天からのまことのパンであるということを示すだけでしたら、「大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年」を物語に登場させる必要はなかったように思います。フィリポの「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」(6・7)という判断だけで、切迫した状況は十分理解できるからです。

あえて少年を登場させているのは、パンの奇跡に留まらない、神の救いのわざの「しるし」という意味があるからではないでしょうか。イエスは五千人に食べ物を与える天からのまことのパンという存在にとどまらず、全人類のまことのパンとなられるお方である。しかも少年という無力な存在となって、救いを成し遂げようとしておられるのです。

実際、イエスの救いのわざは、全人類に対しての「大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年」という意味合いがあると思います。神の独り子が、全人類を救うために十字架にはりつけにされます。何千年何万年という歴史の、約三十数年の働きで全人類を救います。

ユダヤの国のごく限られた場所での三十数年の働きで、全人類に天からのいのちのパンを与えてくださるのです。この壮大な救いの計画の「しるし」として、「大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年」さらにその少年で暗示されている無力な姿で死んでいく神の独り子イエスが物語に登場しているのではないかと思いました。

弟子たちは、この少年を無力な存在と考えました。しかしイエスは、その無力な存在を使って、神の驚くべきわざを行います。「人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった」(6・13)のです。イエスご自身、無力な存在として地上の最期を迎えましたが、全人類に天国の門を開いてくださったのです。

注意すべき点があります。群衆は「自分を王にするために連れて行こう」としました。イエスを利用しようとしたのです。無力な存在を使って五千人に食べ物を与えたイエスを、手放したくなかったのです。

わたしたちもこの点は十分注意しなければなりません。と言うのは、教会を人々にパンを食べさせる道具として利用しようとする見えない力は今でも働いているからです。わたしたちが人々の心を満たしたわけでもないのに、教会は観光の目玉になるとか教会でいやしをいただきましょうと言ってすり寄って来る大勢の人々がいるのです。

教会に来ていやされるのは、その人がイエスと出会ったからです。教会に引きつけられるのは、隠れておられるイエスに気付いたからです。「イエスは、(中略)ひとりでまた山に退かれた。」(6・15)だれかを教会で案内するとき、隠れておられるイエスに導いてあげて、隠れておられるイエスの声に耳を傾けさせる必要があります。そこにいやしと慰めがあるからです。そのためには、わたしたちも常に、この聖堂の中に隠れておられるイエスの声に耳を傾ける努力が必要です。蝉の鳴き声の中でも心を沈め、心に語りかけるイエスの言葉に耳を澄ます。そのための心の静けさを、このミサの中で願い求めましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼先週上五島地区でたくさんの奉仕をしてくださっている修道会が中心になって「子どもの集い」を開き、小学生の女子と一泊する中で召命について学ぶ場を作ってくれた。そのことに関連してだが、司祭・修道者召命は深刻な問題を抱えていると思った。
▼今回の「子どもの集い」には同じ修道会の志願者も集いを盛り上げるために参加してくれていた。人数は10人もいなかったと思う。修道会が長崎教区全体で抱えている施設を考えると、もっと先輩の志願者が中高生志願者の2倍の20人いるとしても、合計で30人、これは心配だと思った。
▼今話したのは一つの女子修道会の話だったが、司祭召命はそれ以上にピンチである。もちろん年に一人ずつは長崎教区にも司祭が誕生しているが、裾野である神学生は極端に少ない。上五島に中学高校の神学生は何人いるかと言うと、教区の神学生はゼロである。かろうじて、修道会の神学生が一人いるだけ。
上五島の肩を持つわけではないが、かつては上五島は召命の宝庫だった。ほかにもそういう表現が当てはまる地域があるかもしれないが、上五島は神学生に対して良くも悪くも厳しい接し方をして厳しく育てられたので、かなりの確率で各教会から司祭が誕生している。巡回教会からも誕生している。
▼だが今はどうだ。神学生は一人で、その神学生が通っている修道会の神学院には中学生が二人、高校生はいないそうだ。長崎教区のカトリック神学院の中高生も激減している。原因はさまざまあるだろうが、司祭が子供たちを振り返らせるだけの魅力がないというのが、最大の原因ではないだろうか。
▼ただし上五島に、これまで神学生を送り出し、司祭叙階まで導いた経験のある一人の司祭が赴任していて、学ぶところが多い。その司祭が赴任した教会は、3年で生まれ変わっている。荒れていた中学生が教会を大事に思うような子供に変わり、小学生も引きつけられて神学院に入学する。
▼わたしの見たところ、圧倒的に司祭にしかできない仕事で秀でているのが魅力なのだと思う。ミサをささげる。司祭ならだれでもささげている。だが圧倒的な力でミサをささげているかと言われればそうではないだろう。
▼ロザリオの信心、その他の祈りの場に司祭が一緒に祈る。似たような祈りの場でどの司祭でも一緒に祈るが、圧倒的な存在感があるかと言われればそうではない。司祭としての圧倒的な存在が感じられず、上五島全体の司祭召命が枯渇しているのではないだろうか。
▼今からでも遅くはない。侍者にすら居眠りされている司祭ではいけない。圧倒的な存在感、迫力で、ミサをささげている時間があっという間に終わってしまった。そういうミサをささげよう。少なくともその覚悟でささげるなら、状況は変わるに違いない。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===