聖木曜日(ヨハネ13:1-15)

聖木曜日の今日、わたしたちはイエスの2つの姿を考えてみたいと思います。福音朗読では、イエスは食事の途中で席を立ち、弟子たちの足を洗います。弟子たちの足を洗う姿、これがイエスの1つの姿です。

もう1つは、最後の晩餐で、パンとぶどう酒のもとに、イエスがご自分の御体と御血を存在させ、わたしたちのいのちの糧となってくださる御聖体です。これが、イエスのもう1つの姿です。この2つの姿から、今日わたしたちが持ち帰る学びを得ることにしましょう。

わたしが皆さんに示した2つの姿は、何を意味しているのでしょうか。弟子たちの足を洗うイエスと、御聖体となっていのちの糧になってくださるイエス。何を言いたいのでしょうか。

2つの姿は、2つのあり方、存在のしかたを表しています。つまり、イエスはごく普通の、日常的な場面に存在してくださるし、一方でとても崇高な、特別な場所にも存在しておられるということです。

上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。」(13・4)このしぐさは、きっと僕たちのしぐさです。一家の主人、またその家族が抱えている使用人の取る態度です。そんなありふれた出来事の中に、イエスは存在してくださいます。

シモン・ペトロは、仲間の弟子たちの足を洗うイエスに、「わたしの足など、決して洗わないでください」(13・8)と言いました。主であり、師であるイエスが、使用人のしぐさをまねているなど考えられなかったのでしょう。主であり、師であるイエスが、使用人として存在するはずがなかったのです。

けれどもイエスは、シモン・ペトロの常識の範囲をひっくり返します。主であり師であるわたしは、最も低い身分の中にも、存在することができる。どんなに卑しい仕事、どんなに醜い務めの中にも、イエスは存在することができる。イエスはそのことを、弟子の足を洗うことで証明なさったのです。

一方でイエスは、世界でたったひとりしかできない御業の中に存在してくださいます。パンとぶどう酒のもと、「取って食べなさい。これは、あなたがたのためにわたされるわたしのからだ。」「受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯。」世界で一つ、世界中のだれもが驚嘆する業の中に、イエスは存在するのです。

ではこの、2つのあり方、存在のしかたは何を意味するのでしょうか。わたしはこう考えます。イエスは、すべてのものの中に、すべての出来事の中に、存在することができる。たとえ人から低く見られ、だれもが嫌がる仕事の中にも、イエスは存在することができます。

それと同時に、だれもが目を見張る、だれもがあっと驚く仕事の中にも、イエスは存在することができるのです。どんな場所にも、どんな仕事の中にも、イエスを見いだそうとすれば、見つけることができる。イエスはそんな思いで、弟子たちの足を洗う出来事と、聖体の秘跡の制定の2つの業を弟子たちに示されたのではないでしょうか。

さらに、最後の晩餐の出来事は次のような雰囲気の中で行われたと書かれています。「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(13・1)イエスは弟子たちを愛しておられたから、低く見られている業の中にも、尊い業の中にも、ご自分が存在することをお手本として残されたのです。

エスの業は、わたしたちへのお手本です。互いに愛し合うなら、どんなに低く見られている仕事の中にも、わたしは存在できるはずです。もちろん、だれもがうらやむような尊い仕事の中にも存在できます。わたしたちは他者を愛するとき、すべての働きの中に存在できる者にならなければならないのです。

配偶者どうし、一緒に働く仲間どうし、司祭と信徒、司祭と修道者、修道者と信徒。あらゆる関係の中で、イエスが示された模範を果たすように、わたしたちは求められているのです。わたしは司祭だから、そんなつまらない仕事はしない。わたしは信徒だから、そんな立派な務めはしない。どちらの場合も、人類をこの上なく愛し抜かれたイエスがすべての出来事の中に存在しておられることを考えれば、口にしてはいけない言葉ではないでしょうか。

ぜひ、この世界のあらゆる出来事、あらゆる仕事をもう一度見渡してください。そこにイエスが存在することなどできないはずだと思い込んでいた場所にも、イエスは共にいてくださいます。すべてのことの中にイエスの存在を意識しましょう。イエスがそこにいてくださるなら、すべてがイエスの存在を証明する道具になります。今日の学びを持ち帰り、すべての場所、すべての出来事を通して、イエスを証しする人となる。そのための恵みを、今日のミサの中で願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼今年の聖週間三日間の典礼説教原稿は、長崎市内に滞在して、一気に書き上げている。今浦上教会からかなり距離のある場所にいるが、浦上教会の鐘が聞こえてきた。この距離ではとても聞こえてこないだろうと思っていたが、実際には聞こえるようだ。
▼ちょっと哀愁を帯びた鐘の音。この場所も浦上教会の管轄だから、鐘が聞こえれば教会のことを思い出すし、祈りを思い出すし、自分を振り返ることもある。教会の鐘を鳴らすことができる地域は、それだけでもありがたいと思ったほうがよい。
▼鐘を鳴らすことが住民感情に照らしてはばかられる地域もあるだろうから、教会の鐘が聞こえる地域は、それだけでもカトリック教会の存在が受け入れられている証拠である。教会の鐘が聞こえてきたから、教会に導かれたと言ってきた洗礼志願者を知っている。
▼今年も、聖香油のミサのために長崎本土に皆で集まった。長崎市内にいる司祭たちは、五島列島からどんな思いをして集まったか知るはずもないだろう。今年は「もうこの場で海に放り出してくれ」と叫びたくなるほど海が荒れていた。船酔いして、ある人は嘔吐して、やっとの思いで上陸したのである。
▼そんなことも知らずに、上五島は出席が少ないなぁと思うなかれ。上五島に赴任しているからすべての司祭が海上時化に強いわけではないのだ。こんなつらい思いをして、しかも9000円も交通費を払ってやって来ているのに、バス代150円でやって来た司祭たちと同じ扱いでは、あまりにも不公平だとは思わないか?
▼だから、いつも思うことだけれども、「集まって当然だ」「来ないのが間違っている」と平然と批判したり、不愉快な態度をする方には、「おまえも五島から出勤してみろよ」と言いたい。聖香油のミサだけではない。教区行事全般にわたって、たとえば1年間、五島から出勤してすべてを体験してから物を言ってほしい。
▼1回9000円の交通費、しばしば荒れる天気、車と船を乗り継いでの片道2時間近い時間の浪費、場合によっては日帰りしなければならない。2時間の行事のために、毎度4時間費やして、1年間長崎での行事をこなしてから、言いたいことは言ってほしい。
▼そんな艱難辛苦を経て、離島は本部の行事に協力している。地方のことを本土と同じに並べて考えている人たちは、腰に手ぬぐいをして、五島の司祭の足を洗ってはいかがか。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===