年間第22主日(マタイ16:21-27)

今週年間第22主日はフィリポ・カイサリア地方でイエスへの信仰を表明したペトロに、これからご自分が歩む道を示します。人間の理解を超える道で、ペトロも戸惑います。イエスに従う力を願い求めましょう。

ずいぶん前の話です。浦上教会の助任司祭だったときに侍者と聖歌隊の子供たちを遠足に連れて行けるように大型の免許を取りに行きなさいと主任司祭に言われました。はい分かりましたと言って、当時大型自動車の免許が取れるいちばん近くの学校だった「浦上自動車学校」に通い始めました。

名前は忘れてしまいましたが、小柄な教官がわたしを指導してくださいました。車の構造で、決定的な違いを学びました。それは、タイヤの位置です。一般の車と違い、トラックやバスは、簡単に言うとお尻の下にタイヤがあるのです。

タイヤの位置が違うと、どんなことが起こると思いますか?運転をしてみると分かりますが、例えば段差がある場所で車を段差のある場所ギリギリに頭から停めるとしましょう。一般の車ですと、タイヤは運転手よりもかなり先にあるので、ギリギリまで停めるのはそう難しくありません。

しかしトラックでは同じようにはいきません。自動車学校の教官が、「車止めに向かってトラックを寄せなさい」と指示しました。これくらいかなと思うところまで寄せてみましたが、「ダメだ。もっと寄せなさい」と言うのです。「先生。もう無理です。」わたしがこう言うと先生は「降りて確認してごらん」と言います。降りて見てみると、まだ1mくらい余裕があったのです。

教官が言いました。「タイヤはお尻の下にあるのだから、『崖から落ちた』と思うくらい前に出して、ようやく一般の車と同じくらいなんだよ。よく覚えておきなさい。」一般の車とトラックでは、こんなに違うものなのだなとつくづく思ったのでした。

普通車を、十何年も運転していても、トラックなどの大型自動車の感覚は教官に教えてもらわないと理解できませんでした。車止めにすら、前輪をぴったり寄せることができませんでした。わたしの感覚で「これくらいだろう」「これ以上は無理だろう」と思っても、正確な場所までかなりの開きがありました。似たような体験を、ほかの場面で味わったことのある人も、皆さんの中にはおられるかもしれません。

エスがこれから進もうとする道についても、イエスと弟子たちとでは理解にかなりの開きがありました。イエスが踏み込もうとされる場所を指し示しても、ペトロをはじめとする弟子たちは、十分理解できなかったのです。今週の朗読個所の直前でペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16・16)と信仰を表明したイエスの踏み込もうとされる場所を、「多分ここまでだろう」「まさかここまでなさるはずがない」そういう思い込みがあったのだと思います。

しかしイエスははっきりと、ご自分が進まれる道の険しさを知っておられました。「イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」(16・21)

人間の救いのために、多くの苦しみを受け、殺され、三日目に復活する。人の救いはここまで働けば可能だろうとペトロは思いました。想像を超えたとき、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」(16・22)と言いたくなるのです。

しかし実際には、想像を絶するような働きがなければ、人を救うことはできないのでした。手の指の働きで人間を救うことも可能なお方が、血まみれになった人間を救われるのです。あえて危険を冒さなくてもすべてが可能なお方が、いのちを投げ出して人間を救うのです。

これが、イエスの進まれる道でした。そのイエスが、従おうとする人々にこう呼びかけるのです。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(16・24-25)

この十字架が身につける飾りとかペイントとか、その程度でないことは明らかです。自分の命を救うとは、この人生で手に入れた一切のものを手放してでも、失ってはいけない大切なものなのです。

「ここまで努力した」「もうこれ以上は無理だ」人がそう思ってイエスに答えを仰ぐと、イエスはこういうでしょう。「あなたがどこまで近づくことができているか、見に来てごらん。」そして見に行ってみると、目標と程遠いところで立ち止まっていることに気づくでしょう。

だから、イエスのあとをついていく必要があるのです。血まみれになって人間を救おうとされるイエスの前に立ちふさがって、自分の考えのほうが合理的で優れているなどと主張することは、あってはならないのです。わたしたちは常に、「イエスについて来たい者」であって、「イエスの先に立つ者」を自称してはいけないのです。わたしごときが考える答えなど、神が導こうとする答えに遠く及ばないのですから。

罪におぼれ、悪に手を染め、救いから遠ざかって崖っぷちに立っている人がいる。安全を考えて、ロープを投げてつかまれと言うこともできるでしょう。イエスはしかし、その崖のふちまで駆け寄って救い出すのです。罪に沈みかけそうになっている人に救命浮輪を投げるのではなく、みずから罪の中に飛び込んで救ってくださるのです。

十字架を背負うとは、そのイエスに従うしるしです。安全第一でイエスに従っているのではなく、場合によっては自分の十字架に貼り付けになって死ぬ。それを覚悟でイエスについていくのです。各自、十字架を背負って、イエスを信じる者ですと人々に証明します。

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

上五島を子供たちはとても喜んでくれた。2泊3日で平日に侍者と先唱をしてくれる小中学生と巡礼した。教会をいくつも巡って、海水浴と花火のおまけつきだったが、中には「五島に住みたい」という子供すらいた。
▼もちろん、2泊3日なら楽しくて、住み続けるとなると気持ちも変わるかもしれないが、それでも上五島を高く評価してくれたのは、灯台下暗し、上五島で生まれ育った自分にとっては思いがけないことだった。
▼いくつか、上五島の教会と田平教会との違いにも気付いたと思うから、これからの生活で上五島で得た収穫を活かしてくれたらと思う。お世話になった鯛之浦教会は、田平教会の平日のミサよりもミサ参加数が多かったから、どうやったら今後田平教会の平日のミサ参加者が増えるだろうか、考えてくれたらうれしい。
上五島ならではのことだが、狭い中ですべてのことが完結するようになっている。本土の人たちは自分たちの生活圏内で足りないものがあれば車で足を延ばして用事を済ませることができる。五島の人たちはそれができないので、ひとまずすべてのものが五島の中にある。
▼あるいは、自分たちの生活県内ですべてが賄えるようになる工夫とか、そういうことにも思いが及べば、上五島を体験したことが地域の発展にも繋がるかもしれない。いろんな可能性に道を開く体験が詰まっていたから、うまく活用してほしいものだ。
▼11月にはもう一度鯛之浦教会にお邪魔することにしている。あと二ヵ月だが、何を話すか、今から考える必要がある。少なくともわたしの後輩司祭は鯛之浦教会に存在しない。それを考えると何か残る話をしてあげたいと思う。

† 神に感謝 †