年間第16主日(マルコ6:30-34)

「あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」(6・31)イエスは弟子たちに休みなさいと言われました。イエスが弟子たちに与えようとした休みの模範はご自身の姿にあると思います。弟子たちに休みを与えて、弟子たちを守り育てるイエスの姿を学ぶことにしましょう。

今週水曜日、7月22日は浜串教会の守護の聖人聖マリア・マグダレナの記念日です。浜串教会家族にとっての記念日なので、ぜひ都合を付けてミサに参加してほしいものです。この日は朝6時からミサをします。

先週の水曜日に、この聖マリア・マグダレナの記念日が浜串教会にとって大事な日だよと子供たちに言い聞かせるために次のような例えを話しました。「家族の記念日は、家族全員でお祝いするでしょう?お母さんの誕生日に『わたしの誕生日じゃないから』と、お祝いに加わらないということはしないはずです。だったら、浜串教会聖堂の守護の聖人は、浜串教会家族みんなでお祝いすべきですね。水曜日朝6時、みんな来てくれますか?」

ちなみに子供たちは全員「はい」と答えました。全員「はい」と答えたのですが、わたしの心の目がよどんでいるのか、どうしても素直に信じ切れないでいます。ぜひわたしの心配が杞憂で終わるようにと願いたいと思います。

福音朗読に戻りましょう。弟子たちに「休みなさい」と言われたイエスご自身は、ご自分の心と体をどのように休ませていたのでしょうか。「イエスが休まれた」という直接的な記述は調べた範囲では見当たりません。

けれどもイエスも疲れることはあったはずです。イエスサマリアの女の対話を記録したヨハネ福音記者によると、「イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである」(ヨハネ4・6)とあります。イエス自身も、何かの方法で休まれていたはずです。

弟子たちへ休むようにという指示を出した場面を読み返すと、一つのことに思い当りました。「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」「人里離れた所」とわざわざ場所を指定しています。そう言われれば、イエスはたびたび人里離れた所で祈っておられたことが記録されています。たとえばマルコ福音書で「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(マルコ1・35)とあります。

すると、人里離れた場所は、「休息」を得る適切な場所であることが分かります。「人里離れた場所」という表現で、どのような場所を言おうとしているのでしょうか。

「人里離れた場所」は、神との交わりを確かにする場所と言えます。人々の騒々しさから離れて、じっくり神と向き合う場所です。特にイエスは御父との深い憩いを得るために、人里離れた場所で祈っておられたのです。イエスは弟子たちにも、神との交わりを深めることが、何よりの休息であることを、感じさせたかったのです。

以前話したことがあるかと思いますが、日本でも日常使われている外来語に「レクレーション」という単語があります。これは英語をそのまま取り入れたものですが、言葉のもとの意味をたどるとラテン語のre-creatioに行き当たります。その意味は、「再び」「創造すること」です。本来の力を取り戻すために、自分の中に神が再び創造のわざをおこなってくださる。すると人は再び造り直されて、生きる力を取り戻すわけです。神が人間を再び創造するような時間と場所に自分を置くこと、それがレクレーション、re-creatioなのです。

するとre-creatioのためにふさわしい場所は、人里離れた場所が最もふさわしいということになります。こうしてイエスも人里離れた場所で神との交わりを確かなものとしましたし、弟子たちにも同じことを求めたわけです。

ここまで来ると、集まって来た大勢の群衆をイエスが「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」(6・34)とあるのも分かります。イエスは群衆に、神との交わりを確かにするために、つまり本当の憩い・休みを与えるために、いろいろと教え始められたのです。イエスは群衆にいろいろと教え、彼らを憩いの水辺に伴われるのです。

わたしたちも休みが必要です。これまで話したように、神が再び創造のわざをわたしにおこなってくださり、神によって再び造り直されて、生きる力を取り戻すために、休みが必要です。再び造り上げられる、再び自分を取り戻すための人里離れた場所に自分を置くことが大切です。

みなさんにとっての人里離れた場所はどこでしょうか。だれにも煩わされずに、神の前に自分を置くことのできる静かな場所はどこでしょうか。この聖堂は確かにその一つだと思います。かなり静かです。けれども場合によっては、聖堂のほかにも人里離れた場所を持っておくとよいかもしれません。聖堂が必ずしも近いとは限らないからです。

あなたにとっての人里離れた場所が、神との交わりを確かにする場所であれば幸いです。あなたが選んだ人里離れた場所が、昔の柱時計のように、止まりかけている状態からねじを巻いてもらって力を取り戻す場所であれば幸いです。

それぞれ人里離れた場所でre-creatio「再創造」を成し遂げて、また新たな気持ちでもとの生活に戻りましょう。実際の生活はイエスへの信仰をまっすぐに生きるのが難しいかもしれません。矛盾に苦しんだり疲れたりした時、イエスは何度でも「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と声をかけてくださいます。

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ちょっとひとやすみ
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▼先週のメルマガをあらためて確認すると第777号に届いていた。自分で言うのもなんだがおめでたい。全く意識していなかったわけではないが、当日には忘れていたらしい。通過点とはそういうものなのだろう。
▼だれかに指摘されて、花束でも受け取れば、あーここまで来たかと感慨深く思うかもしれない。だが記録は過ぎ去るので、すぐに次の目標に向かって切り替える。1000号がわたしの当面の目標だ。
▼冬山では雪崩が起きる。ところがわたしの身近では夏でも雪崩が起きる。雪崩が発生する世界で一番低い山。それはわたしの机の上だ。先日も1枚のプリントを探しているうちに雪崩が発生した。山のように積み上げた資料が、滑って床に散乱したのである。
▼部屋はプリントやら冊子やらで足の踏み場もなくなってしまった。いつだったかソファーがきれいになって「ドヤ顔」をしたことがあったが、それ以降まったく「断舎利」は進んでいなかったのか。
▼申し訳ない話だが、それ以降一切進んでいない。ソファー自体は今すぐにでも寝そべることができるくらいきれいに片付いている。ただそれ以外は、ソファーの片づけで満足してしまったのか、何も進んでいなかったのである。
▼机に積み上げていた紙類を、雪崩が発生して仕方なく片付けた。3分の1は不要な紙だった。3分の1はすでに事務処理済みの書類だった。3分の1は、言い訳がましいが、できるだけ近くに置いておきたい書類・冊子だった。だが今回は最後の3分の1も机に置くのをやめた。そうしないとまた元の木阿弥になりそうだからである。
▼今は机が見えている(これも変な言い方だが)。少なくとも今年いっぱい、机が見える机で仕事をしようと思う。パソコンキーボードしか置かれていない机は、こんなに広かったのか。これでようやく普通の人と同じスタートラインに立った。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===