年間第18主日(ヨハネ6:24-35)

年間第18主日B年はイエスと群衆の対話が繰り返される場面が描かれていますが、この対話は実りのない不毛な対話に終わってしまいます。問いかける群衆にイエスは的確な答えを示すのに、群衆がイエスの示す答えを受け入れようとしないからです。イエスの示す答えに群衆は近づこうとしないので、むしろイエスと群衆の溝は深まっています。

先週水曜日から金曜日まで、神言修道会の神学生を預かっていました。中学3年生です。本来は曽根教会に所属しているのですが、親が神奈川に引っ越したので夏の数日間この神学生はおばあちゃんを曽根に訪ねて、そのあとわたしが2泊3日で預かりました。

神学生の母親からは、長崎にあるルドヴィコ神学院が置かれている厳しい現状を聞かされていました。具体的には、ルドヴィコ神学院に在籍している神学生は夏休みの時点で2人しかおらず、わたしが預かろうとしている神学生も心は揺れている、続けていく気持ちが折れかけているということでした。

わたしは話を聞いていて、誰だって心が折れるだろうなぁと思ったのです。少ないと言っても、10人くらいはいなければ、神学生同士で励まし合うのも限度があると思ったのです。神学生の母親からは、本人を何とか励ましてもらえたらということでした。

わたしが神学生を預かった日は、水曜日から木曜日にかけてで、子供たちのミサの期間でした。わたしは何かヒントをあげて、考えるきっかけになればと思い、子供のミサのときにこう話したのです。

「ドッヂボールの試合にもう一度参加できるようになりましたね。ドッヂボールは内野にいる人が相手からボールを当てられたら外野に出なければなりません。内野に残っている人数が多いほうが試合に勝ちますが、内野の人数が減っていくと生き残るのも大変です。もし内野に残っているのが3人になったら、諦めますか?」

「諦めません」「2人になったら諦めますか?」「諦めません」「さすがに1人になったら諦めてすぐに当てられて終わりますか?」「最後まで頑張ります」「だよなぁ」

もちろん話しかけているのは目の前の小学生にですが、気持ちとしては中学3年生の神学生に届けと、そんな思いで訴えかけました。水曜日の浜串ミサと木曜日の福見ミサ、2度にわたって子供たちに話しかけながら、神学生にわたしの思いを伝えました。

現実的には、1人になっても頑張れというのは酷かもしれません。けれども、わたしは1人になっても生き残ろうとする姿は、周囲の人に何かを感じさせ、行き詰まりを打ち破る突破口が与えられるのではないかと思っています。わたし個人としては、長崎教区の神学院で共同生活をさせてもらいながら、神言会の神学生として続けるのも1つの方法かなと思いますが、実際問題はそう簡単ではないかもしれません。

さて説教の冒頭イエスと群衆の対話がかみ合わないと言いましたが、例を一つ挙げると、群衆が「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」(6・28)と問いかけ、イエスは「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」(6・29)と答えを示しますが、群衆はイエスの答えに近づこうとしないのです。

「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。」(6・30)さきほどの神学生の話に戻ると、ルドヴィコ神学院の生徒がどんどん去っていく中で、残っている神学生は誰を信じればよいのか、誰についていけばよいのか不安になっていると思うのです。校長を務める神父さまにさえも、「あなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか」と言いたくなるかもしれません。

もしかしたら、2人しかいない神学生に都合よいような答えは示されないかもしれません。しかし、迷いを捨て、「神がお遣わしになった者を信じる」つまり現在のルドヴィコ神学院の校長神父さまの勧めを信じて、精一杯努力するならば、きっと道は開けると思っています。

神学生が2人しかいなくなって、2人で険しい道を歩くのは至難の業かもしれません。もしかしたら2人のうちの1人が召命の道を去ってしまい、1人きりになるかもしれません。想像を絶する険しい道ですが、困難なのは人数の問題よりも、神に身を委ね、独りよがりな結論を取り下げることだと思うのです。こんな場所にいられようかという思いを取り下げることは、どんなに困難なことでしょう。ぜひその試練を乗り越えてくれるように、わたしは毎日祈りたいと思います。

考えるとわたしたちも、イエスを信じない人から根本的な問いを突き付けられたときに、答えを準備しておかなければなりません。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。この問いの答えは、次の通りです。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」

まだイエス・キリストを信じていない人に、「あー、あなたがイエス・キリストを信じていることが、よく分かりました」という生き方を示して、わたしたちは神の業を行うのです。

誰かと一緒にご飯を食べるときに「いただきます」だけでは、イエス・キリストを信じていることは伝わらないのです。家族ぐるみで親しくしている家族が一晩わが家に泊まった時に「おやすみなさい」のあいさつだけで寝るならば、イエス・キリストを信じていることは伝わらないのです。親しい家族が土曜日にわが家に泊まりに来た場合、翌朝「おはよう」のあいさつだけでは、イエス・キリストを信じていることは伝わらないのです。

ぜひ、わたしたちは周りの人々に対して、「わたしたちは、神がお遣わしになった者を信じています」という証を立てましょう。わたしたちがこうして神の業を行う時、「決して飢えることがなく、決して渇くことがない」体験を自分にも他人にも味わわせることになるのです。

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ちょっとひとやすみ
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▼久しぶりにY・Kさんが大阪から五島の親戚を訪ねてきた。Y・Kさんは母親がわたしの母と姉妹になる。まずはわたしの母親を訪ねに来たわけだが、わたしもたまたま上五島に赴任しているということで浜串教会まで訪ねに来てくれた。
▼ところが、母親とわたしの弟には会うことができたようだが、わたしはあいにく留守していて、ここまで訪ねて来たということにあとで気付くこととなった。梅雨が明け、久しぶりにバイクでも動かそうかと様子を見たら、バイクのシートにメモがはさんであった。
▼「御元気ですか?多忙の様ですね。今後の御健闘を祈ります。」確かに訪ねてきたことは分かるが、これだけでは返事のしようがない。急いで実家に問い合わせ、住所を聞き出したかったが、実家に訪ねたときにも住所などのメモは残さなかったらしい。
▼このY・Kさんには小さいころから憧れがあった。苦労して学業を終え、初めは英語に力を注ぎ、英検一級を取得。しかし日本には英検一級の有資格者は五万といて、それでは一芸に秀でた仕事ができないと判断。当時新興勢力だったロシアに注目し、ロシア語をマスター。
▼ロシアで仕事を手掛ける大手建設会社は通訳の確保に苦労していたので、Y・Kさんは引っ張りだことなり、億単位の事業契約が成立するたびに成功報酬を得ることとなった。身内の中では飛びぬけて成功をおさめた一人と言える。
▼こんなことがあった。まだわたしが司祭になりたての頃、休暇で実家に帰省していたらY・Kさんから電話がかかって来た。わたしが電話に出ていると分かると、すぐに会話を英語に切り替えてきた。"How are you?"
▼わたしも応戦する。"Fine. Thank you."しかし、次の質問に一言も答えられず、悔しい思いをした。"What is your occupation?"occupationさえ分かれば、"What is your name?"と何ら変わらない質問だったのだが、答えられなかったのである。occupationは「職業」とか「身分」を問うているわけだから、"I'm a priest of Nagasaki diocese."と答えればよかったのである。
▼これくらいのことも分からないのかといった雰囲気が電話の向こうから伝わった。悔しくて歯ぎしりした。学生時代真剣に勉強したはずなのにちょっとしたことに躓き、答えられない。それ以来、英語で尋ねられたら英語で返事できるくらいには英語力を身につけておくべきだと痛感した。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===