年間第33主日(マルコ13:24-32)

今週の福音朗読で、「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る」その日について描かれています。これはイエスの再臨についての予告です。イエスの再臨について、わたしたちはどのように受け止め、今の暮らしをどのように結びつけていけばよいのでしょうか。考えてみたいと思います。

さて、相河(あいこ)という地区が新上五島町にあるのを皆さんご存知でしょう。ホタルで有名な地区ですが、ここにペンキで書かれた「キリストの再臨は近い」という看板があるのをご存知でしょうか。

おそらく車を運転する人しか、その看板に気付くことはできないと思います。お年寄りの方々も車で上五島病院に連れて行ってもらうついでに、看板をぜひ見せてもらってください。一見の価値があります。

あの看板、いったい誰が作ったのでしょうか。わたしも直接話を聞いたことはありませんが、少なくともカトリック関係者ではないと思います。もちろん上五島の司祭やシスターが「ここに看板を掛けさせてください」とお願いに行ったこともありません。

想像ですが、わたしたちのところにたまにやって来て「聖書の話に興味ありますか」と言ってくる人たちが用意したものではないかなぁと思っています。司祭館にも「聖書の話に興味ありますか」とやって来るので、わたしは「興味無いねぇ〜」とお断りしています。

いずれにしても、相河では年中「キリストの再臨は近い」のだろうと思います。カトリック教会は「キリストの再臨は近い」という公式見解を出していませんので、あそこを車で通るたびに、「キリストの再臨はいつごろなのですか?」と聞いてみたい気がします。

相河のキリストの再臨はさておき、イエスが語る「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る」この再臨の時はわたしたちも十分意識しておく必要があります。まず、「再臨の日」は「希望の日」なのでしょうか。それとも「不安と恐怖の日」なのでしょうか。

再臨の日をどのように感じるかは、終末をどのように考えているかにかかってきます。終末を滅亡の時、破滅の日と考えているなら、キリストの再臨に不安と恐怖を覚えるでしょう。終末を救いの日、希望の時と考えているなら、反対に顔を上げて待つことができるはずです。

日本人の意識の中には、終末というと何か滅亡の時、破滅の日を思わせる要素があるように思います。さきほどの相河の集落で目にした看板も、日本人一般の終末思想を利用して、不安をあおって自分たちの新興宗教に引き寄せようとしている印象があります。

しかしキリスト教では、終末にたとえ破滅の要素があるにしても、救いを完成するためにキリストが再臨する日なので、希望に満ちているのです。終末にキリストの再臨が抜け落ちていたら、確かにその終末は不安と恐怖以外にないでしょう。ですがキリストを信じるわたしたちにとっては、わたしたちを救いに来てくださるキリストの前に立つ日なので、信頼して待つことができるのです。

ここで皆さんは、「終末はいつなのだろう。キリストの再臨はいつなのだろう」そんな疑問を持つかもしれません。今週の朗読でイエスは「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」(13・32)と言っておられます。だれも「その日、その時」を知ることはできません。わたしたちに必要なことは、「その日、その時までふさわしい生き方を保つ」ということです。

ふさわしい生き方とは、行き過ぎを避け、希望を保ち続けて生きることです。行き過ぎとは、「キリストの再臨は近い」と不安や恐怖をあおる生き方と、「キリストの再臨はやって来ない」という怠惰な生き方です。両方の生き方を避け、キリストの再臨のその日まで顔を上げて生きる。わたしたちにはそのような生き方が求められています。

わたしたちが、キリストの再臨を信じ、また「その日、その時」が救いの日となるという希望のうちに生きることで、何が起こるのでしょうか。わたしたちの生き方が、多くの人の希望となると思います。わたしたちの身近に、さまざまな苦難に遭い、しかもその苦難に希望を見いだせずにいる人々がさまざまいらっしゃいます。

まだまだ若いのにというような年齢で病に命を奪われる人がいます。信頼していた人に裏切られ、すべてを失ってしまった人がいます。自分の記憶が少しずつ壊れて、周りの人といさかいが始まってしまう人がいます。社会的な罰を受け、償いの日々を送っている人がいます。こうした人々の中に、キリストの再臨を待ち望んで希望を失わずに生きている人はごくわずかです。

そうした人々ともしわたしたちが関わりあるのなら、わたしたちの生き方は彼らに大きな希望を与えると思います。どんな困難の中にあっても、キリストの再臨を待ち望んで希望を失わずに生きることができる。その生き方を知ったなら、困難の中にある人々も大きな影響を受けるに違いありません。わたしたちは自分のためだけではなく、関わりある人々のためにも、キリストの再臨を信じて生き、「その日、その時」に救いが訪れると希望して生きるのです。

「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」(13・26)すべてのキリスト者にとって、キリストの再臨の日は顔を上げて救い主を迎える日です。すべてのキリスト者が、キリストの再臨を信じて日々を生きていけますように。「その日、その時」を希望を持って待ち続けることができますように。ミサの中で恵みを願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼信徒発見150周年に長崎中地区が主体になって信徒発見劇が準備され、長崎はもちろん佐世保でも上演、好評を博している。この劇が来年2月21日に上五島でも上演されることになった。喜ばしいことですね〜と単純に歓迎の気持ちでいたのだが、ここ数日で変化があった。
▼信徒発見劇は本来浦上のキリシタンが大浦のプチジャン神父(のちに司教)を訪ねてキリシタンが250年の迫害を耐えしのんで復活したという物語の劇である。だが信徒は浦上だけにいたわけではなく、五島にも存在していた。五島には五島の信徒発見の物語がある。
▼14日(土)午前に1本の電話が入った。信徒発見劇の脚本・監督を手掛けている先輩司祭からだった。「信徒発見劇を上五島で上演するに当たり、配役を入れ替えて上五島の信徒発見物語を少し織り交ぜたい。そこで新しいメンバーとしてあなたに入ってもらいたい。」
▼え?という思いがよぎったが、先輩がわざわざ電話してくる用事は大事な用事と決まっている。だから引き受けることにした。五島の信徒発見を、何かの形で信徒発見150周年の年に刻むお役に立てるのだから、断る理由はない。
▼実は昔からわたしの中には演劇の血が流れている。高校卒業して進学した福岡の大神学院では卒業するまでの8年間、主演女優として謝恩会の劇には登場していた。もちろん男子学生だけで演ずる劇なので、女性の役が必要となればだれかが引き受けることになる。入学した年に引き受けてみたらこれが大ウケしたので、そのまま続けてしまった。
▼信徒発見劇はまじめな劇だし、アドリブも禁止だろう。するとわたしの持ち味は少し生きないかもしれないが、任せられた役割はきっちりこなしたい。ちなみにわたしの尊敬する俳優さんは大滝秀治である。「明日の記憶」での渡辺謙さんとの場面は秀逸で、わたしも丸暗記している。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===