四旬節第4主日(ヨハ3:14-21)

今週四旬節第4主日B年は、福音朗読から「声を聞く」ということについて考えてみたいと思います。初めは私がかつてお仕えした川添神父様の遺作となった著書「やぶ椿」を材料にして、後半は与えられた福音朗読から、「声を聞く」努力をしてみましょう。

川添神父様の遺作「やぶ椿」を読みました。一気に読み終えました。俳句を切り口に、カトリック信者の生き方を示してくれた本だと理解しました。ミサのお知らせで「手に取ってみてください」と呼びかけておりますが、なかなか、個人的なお付き合いのあった神父様の本を強く推すことができなかったのですが、実際に読みましたので、客観的に中身を紹介できます。

川添神父様は上五島の桐教会出身です。私も、上五島に生まれたので、川添神父様が五島の景色を俳句で読んだものは、とても印象深く、自分の生まれ故郷の話として身近に感じることができました。その中で、ふるさと桐を訪ねた時に詠んだ俳句「道消えて家朽ちて島やぶ椿」が心を打ちました。

この句は、本のタイトル「やぶ椿」のもとになった俳句だと思います。見開きのページで右頁にこの句が、左頁に説明文が載せられています。私の故郷の鯛之浦でも、道が消えていく、家が朽ちていくさまを間近に見ていますので、信仰の故郷が限界集落となって信仰の灯が消えていくのではないかと心を痛めているのだろうと感じました。

その中で、島のやぶ椿は、ひっそりと花を咲かせている。繁栄したものでも、消え去っていく日は来るわけですが、変わらずに存在するものがある。その変わらずに存在するお方を、やぶ椿で切り取っているのではないかと思いました。私は桐の出身でもないし、桐教会に赴任したこともないですが、あたかも私の故郷の景色を詠んでくれた俳句のように思えて、とても身近に感じました。

さらにもう一つ、私はこの川添神父様に、叙階して最初の五年間、ご指導いただいたのでした。浦上教会に配置されて、右も左も分からない中で、叱られたり諭されたりしながら、すべてを教えていただきました。ですから今でも、川添神父様の声が聞こえるのです。

私には、遺作となった「やぶ椿」を読みながら、神父様の声が聞こえてきました。本を読むとき、声に出して、音に置き換えて読むと思いますすが、たいていは自分の声で読んでいるでしょう。しかしある場合、はっきり誰かの声を浮かび上がらせて読むことがあります。今回の「やぶ椿」は、はっきり川添神父様の声で読み終えることができました。

福音朗読に移りましょう。与えられた朗読個所は、一般的には「イエスとニコデモの対話」として理解されている箇所です。ただ、ここでイエスはご自分のことを「独り子」とか「光」とか呼んでいます。こうした呼び方は、当時のイエスが好んで用いていた呼び方ではなく、「ヨハネ福音書が読まれていた時代の信仰共同体」がイエスを指して呼ぶときにこのように呼んでいたのでした。

ですから、今日の箇所は、当時のイエスの語りを書き取ったというよりは、「ヨハネ福音書が読まれていた時代の信仰共同体がもっていた信仰理解を、イエスの言葉に託している」と考えるとよいと思います。彼らはイエスの言葉を、「迫害のさなかにある自分たちを強め、励ましてくれている」と理解したでしょう。イエスの生の声を聞いたことはないけれども、各自自分の声でヨハネ福音書を読んでいるのではなく、朗読から生き生きとイエスの声が聞こえていたのではないでしょうか。

朗読から生き生きとイエスの声が聞こえる。わたしたちも同じ体験をしたいと思います。日曜日のミサで福音朗読を聞くとき、実際には中田神父の声しか聞こえていないかもしれません。ですがよくよく耳を澄ますと、いつか私の朗読を通してイエスの声が聞こえるようになると思います。

私は、あえて抑揚をつけないように、淡々と朗読することを心がけています。登場人物が増えてくるといろいろ声を変えたりして読む方法もあると思いますが、かえってそれは、何かの固定観念を与えるのではないかと思っています。司祭は男性ですが、朗読個所によっては女性が登場することもあります。そこでわざわざ女性の声を作ったりすれば、変な思い込みを与えてしまうのではないでしょうか。

ある教会で、マタイ福音書の受難朗読の時に男性がピラトの妻の部分を声を変えて朗読したのです。「一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。『あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。』」(27・19)これをわざわざ女性の声をまねて私が朗読したら、皆さんは想像を膨らませてしまうでしょうし、少なくともスムーズに内容に入り込めないのではないでしょうか。

ですから、私は朗読はしますが、私の声がイエスの声をかき消してはいけないと思っています。私の声はいつの間にか消えてしまい、イエスの声が聞こえるように、そういう思いで朗読をしているつもりです。その人なりのイエスの声が聞こえるようになれば、朗読はもっと意味のあるものになり、お一人お一人を照らすようになると思います。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(3・16)とあります。四旬節第一日曜日に話しましたが、必要なものを与えてくださるのが神です。世を愛してくださっていることをどんな方法よりも理解できるように、独り子を与えてくださいました。この思いがよく伝わるように、私も朗読を心がけていますし、朗読を聞く皆さんも、御父の思いを語っておられるイエスの言葉が聞こえてほしいなと強く思います。

日曜日の朗読に限らず、ご家庭に聖書と典礼を持ち帰って福音朗読を読んでみてください。朗読した時、あなたの耳と心に、どんな声が聞こえたでしょうか。やはり、あなたの声しか聞こえないでしょうか。イエスが私に語りかけている。福音朗読を極めた時、わたしたちは時代を超えてイエスの声を聞く人になるのだと思います。

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ちょっとひとやすみ
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▼神学院時代、年に一度謝恩会のようなものがあり、学生たちはラテン語科、哲学科、神学科に分かれて劇を上演していた。上級生の劇は、常に教授たちやシスターたち、下級生たちをうならせていたものだ。私も恥ずかしながら、主演女優を7年間務め、役作りについては全く知らないわけではない。
▼当時は、主演女優であるから、女優の声を想像しながら演じていた。当時の写真などを見ていると、恥ずかしさで穴があったら入りたいくらいだが、一方でこの時代に身につけたことを今は心の中で生かしつつ、福音朗読を果たすことができる。大変貴重な時間だったと思う。
▼聖書の朗読に限らない。聖歌を歌うとき、たとえば「神はわたしを救われる。そのいつくしみをたたえよう」という聖歌を歌うとしよう。「神はわたしを救われる」と歌いながら、「実際はどうか分からないけどね〜」と思っているなら、その歌声は何を歌い、何が聞こえてくるだろうか。むなしい歌声になるに違いない。
▼だが、現実には「この人はどんな思いで朗読しているのだろうか」と疑問に思う朗読もある。「だれに語りかけているのですか?」「あなたの朗読をだれか聞いてくれているのでしょうか?」とつい思ってしまうことがある。いちばんそば近くで、ミサをささげる司祭が朗読を聞いている。朗読者の声が、いちばん近くで聞いている司祭の心を打たないなら、どうしてその朗読が会衆の心を打つだろう。
▼ピラトの妻の部分を朗読したと例に出したあの時の朗読は今も私の耳に、記憶に残っている。ぜひ誰か、ピラトの妻の場面にすんなり入れる朗読を読んでくださり、私の記憶を書き換えてほしいと願うのである。

† 神に感謝 †