四旬節第2主日(ルカ9:28b-36)

「『これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け』と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。」(9・35-36)声が聞こえて、イエスだけがおられたのは弟子たちへの合図です。合図を見逃さないようにして、今週の学びを得たいと思います。

今週は珍しく三つすべての教会の主日のミサを日曜日に果たしました。いつも土曜日に前晩のミサとして主日のミサにあずかっている高井旅の皆さんには、日曜日に受けるミサは新鮮だったかもしれません。

すでに信徒発見劇をご覧になったと思いますが、わたしが劇のどの辺で登場したか、お分かりになったでしょうか?「旦那様」「いえ、旦那様」「お許しください、旦那様」「へい、旦那様」圧倒的な演技力に、皆さん大喜びだったことだと思います。

ところで次回予定されている4月9日(土)10日(日)の長崎ブリックホール公演にもぜひという声があるのですが、辞退させてもらいます。桐出身の与作という役柄ですから、長崎公演では桐の神父様が出演なさるのが理想的だと思うのですが、いかがでしょうか。

福音朗読に戻りましょう。イエスの姿が変わる場面が朗読されました。そこにはイエスと、ほかにモーセとエリヤとがイエスエルサレムで遂げようとしていた最期について語り合っていたとあります。日本語で「最期」と訳されているギリシャ語は「エクソドス」という単語で、英語でもそのまま「エクソダス」と訳しています。

この単語ですぐお気づきかと思いますが、「出エジプト記」という旧約の書物が「エクソドス」と呼ばれます。そうすると今回は「最期」と訳されていますが、出エジプト記からも容易に連想できますが、もともとは「(エジプトの隷属状態からの)脱出」「出発」という意味です。

そこで今回は、「イエスの最期について話していた」という部分を、「イエスのエクソドスについて話していた」と理解して学びを得たいと思っています。つまり、「イエスエルサレムで遂げようとしている『出発』について話していた」言葉のもともとの意味で学びを得たいのです。

すると、イエスエルサレムで遂げようとしていることの意味ももっとダイナミックな印象に変わります。イエスが遂げようとしていた最期についてという理解であれば、そこですべてが止まってしまうような印象になります。

一方の「イエスが遂げようとしておられる出発について話していた」と読むと、イエスエルサレムで成し遂げようとしているのはより良い方向への出発なのです。イエスエルサレムで成し遂げることとはもちろん十字架上での出来事ですが、それは死んで終わりというようなものではなく、十字架上の死によって、復活という栄光へ向かう出発が始まるのです。

このダイナミックな動きを、わたしは今回の信徒発見劇を通して学ぶことができました。杉本ゆりは大浦に天主堂が建ち、そこに司祭がいるに違いないという胸の高鳴りを覚え、やむにやまれず訪ねて行ってプチジャン神父と感動的な出会いをしました。

浦上のキリシタンたちは、本当は誰もが大浦の天主堂に待ち焦がれた司祭がいるのではないかと思っていたのですが、命を危険にさらしてまで訪ねていく勇気がどうしても出てこなかったのです。

そんな中、杉本ゆりと仲間たちは、今週の福音朗読にある「エクソドス」を実行したのでした。それは、役人に見つかって命を落とすという「最期」を迎えるかもしれない危険を冒してでも、信仰をひた隠しにして生きる現状から、よりよい未来に向かっての「出発」だったのです。

杉本ゆりが、「エクソドス」「出発」を実行に移さなかったら、浦上キリシタンたちとプチジャン神父との出会いはさらに何年もあとに延びていたかもしれません。ここには大きな教訓があると思うのです。つまり、人はある場面では「エクソドス」「出発」を決意することでよりよい状態に移ることができるということです。

今の状態を維持することも、一つの生き方でしょう。信仰をひた隠しにしてきた人の中には、浦上キリシタンが150年前に司祭に出会った後も、自分たちの様式に従って信仰を守り続け、隠れキリシタンとして生きています。ある場面で「エクソドス」「出発」を経験する人たちと経験できなかった人たちとでは、その後に大きな違いが生じたわけです。

エスは、御自分がエルサレムで遂げようとしておられる「エクソドス」「出発」について弟子たちに予告し、御父はその予告の後に「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(9・35)と呼びかけます。弟子たちにもイエスに聞き従い、イエスと同じ「エクソドス」「出発」を体験するように招いているのです。

同じことはわたしたちにも向けられています。築き上げた生活や安定しいた待遇、それらが心地よくなった時、わたしたちには誘惑が忍び寄ってきているのです。ここまで成し遂げてきた。今のわたしならこの石にパンになるように命じてもそうなるかもしれない。望むだけの権力と繁栄が手に入るかもしれない。高いところから飛び降りても怪我などしないかもしれない。ここまでわたしが築き上げてきたものは、誘惑になりうるのです。

そこでイエスはご自分の「エクソドス」「出発」を示して、御自分に聞き従うように招きます。今まで築き上げたもののうちから、何かを困っている人のために手放したり、自分よりも経験の浅い人に上に立つ仕事を任せ、自分は支える側に回ったり、何かの形で「エクソドス」「出発」を求められているのです。

これまで築き上げたものに安住せず、今一度両手を空にしてイエスの「エクソドス」「出発」に聞き従う。ここにわたしたちの信仰の成長があるのだと思います。わたしも含め、すべてのキリスト者がイエスの求めに聞き従って、救いの道を歩き続けるのです。

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ちょっとひとやすみ
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▼「母と暮らせば」という映画を観た。長崎で原爆に遭った人々と、長崎の原爆で運命が変わった人々のドラマが取り扱われていたと受け止めた。主人公とその母親がほとんどの場面を構成していたが、映画が終わって疑問が残った。
▼「母と暮らせば、どうなるというのだろう?」この疑問が解決しないで映画館を出てきた。「母と暮らせば、母の悲しみを少しでもいやすことができる」ということなのだろうか。「母と暮らせば、母の考えがより深く理解できるようになった」ということなのだろうか。よく分からなかった。
▼映画のタイトルと映画がうまく重なると、「あー、だからこの映画のタイトルだったのか」と合点がいく。しかし今回の映画はそういうすっきりした答えが得られずに帰ってきた。わたしの頭が悪いのだとつくづく思った。
▼実はわたしも「こうじ」という名前である。映画の間、ずっと主演女優の吉永小百合さんが「こうじ」「こうちゃん」と言っていたのでくすぐったかったが、それにしても母と暮らせば何があるのか、よく分からなかった。
▼ここ6年ほど、母親と同じ上五島に住んだ。それは言ってみれば「母と暮らせば」という場面設定である。母と暮らせば、何が見えるのだろうか。何を感じることができるのだろうか。わたしがこの6年で感じたことと言えば、「わたしはこの母の子なのだなぁ」ということくらいだ。
▼今週は大変忙しい週になる。20日(土)と21日(日)が上五島石油備蓄記念会館で演劇、21日(日)夜から25日(木)までの黙想会。演技は全力でこなし、黙想会の指導は体をいたわりながらすることにしよう。

† 神に感謝 †