四旬節第1主日(ルカ4:1-13)

「イエス聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。」(4・1-2)誘惑を受けるイエスの置かれている状況がここに描かれています。「聖霊に満ちてヨルダン川からお帰りになった」イエスが「悪魔から誘惑を受けられた」この点について考えてみたいと思います。

10日(水)は四旬節が始まる「灰の水曜日」でした。浜串教会で灰の式を行い、小学生も来てくれました。朝のミサでしたが、ふだんの水曜日に朝のミサに変更しても侍者の子供しか来ないのですが、灰の水曜日には侍者以外の小学生も来ていました。家族の理解と、本人の努力が伝わってきました。

11日(木)建国記念日でしたが、前の週4日(木)に福見の小学生のミサで予告した通り、夕方のミサで灰の式をしました。小学生が1人来ていまして、おー感心感心と褒めました。この子供たちにも、灰の水曜日の習慣が長く長く記憶されたらいいなぁと願うばかりです。

エスは宣教活動に入る前に、荒れ野での体験を通られました。イエスが荒れ野に入られたのは「聖霊に満ちてヨルダン川からお帰りになった」状態でのことでした。悪魔からのどのような誘惑があるにせよ、イエスはたった一人なのではなく、父なる神と共にいて、聖霊に満ち満ちた状態で誘惑と向き合うことができました。

ですからイエスの荒れ野での体験は、わたしたちの教育という面もある出来事です。試みに遭う時どのように向き合ったらよいのかを教えてくれているのです。あえて悪魔の誘惑に身を置いて、わたしたち人間に、試みに遭う時どのように向き合うべきか、模範を残されたのです。

エスが受けたとされる3つの誘惑は、イエスの十字架上の出来事を暗示しているように思えます。最初の誘惑である「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」(4・3)は、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(ルカ23・37)を思い起こさせます。目の前の苦しみから自分を救うために、力を使えばよいではないかと誘惑しているのです。イエスはきっぱりと拒否します。

エスは石をパンにすることも、十字架から降りることもしませんでした。イエスはこの誘惑を通して、人は苦しみを必ず受けるけれども、苦しみを取り除くために神がおられるのではなく、苦しみに際してわたしたちを支え続けるためにおられることを教えようとします。

苦しみから逃れたい一心でこの世のものに手を出すことは、一時の対処法にはなるかもしれませんが、根本的な対処法ではありません。苦しみの中で片時も離れず神が支え続けてくださることを、パンの誘惑の中でイエスは教えようとされるのです。神が支えてくださる中で経験する苦しみは、決して無駄ではありません。むしろ尊いものです。

次に悪魔は、「一切の権力と繁栄」をちらつかせて、自分を拝むことを要求しました。この世での権力と繁栄の象徴は金銭でしょう。ユダはこの世での権力と繁栄の象徴である金銭を受け取って、イエスを引き渡し、イエスは十字架にかけられることになります。

ユダはもしかしたらイエスが最終的には十字架から逃れる方法を思いつくだろうと高をくくっていたのかもしれません。けれどもイエスは権力と繁栄の誘惑を退けて、十字架に磔になったのでした。

悪魔の2度目の誘惑も、イエスははねのけました。イエスは権力と繁栄を手にして、人に仕えられるためにおいでになったのではなく、仕えるためにおいでになりました。十字架を降りなかったのも、御自分の命を与えるために、あえて降りようとされなかったのです。

権力と繁栄の誘惑は、神がいつもそばにいてくださることを忘れさせてしまいます。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。」(申命記6・13)神がわたしたちから離れてしまったら、権力と繁栄はむなしいと教えているのです。

最後に悪魔は、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」(4・9)と挑みます。十字架の場面、議員たちのあざけりを思い出します。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」(ルカ23・35)

十字架から飛び降りるなら、議員たちのあざけりを黙らせることができたでしょう。けれどもイエスは、すべての人々を罪の束縛から解放するために、御父の計画に従順に従うことを選びました。人生の中で生じるあらゆる苦しみを引き受ける力を、イエスは最後の誘惑の場面で示してくださるのです。

エスが荒れ野での誘惑を退けて示してくださる模範は、イエスの十字架の場面の象徴であり、わたしたちの死を覚悟させるような苦しみの場面で神がそばにいて支えてくださるという約束でもあります。

だからこそ、イエスに従おうとするわたしたちは、苦しみを逃れたい一心でこの世の誘惑に手を出すことをしません。権力と繁栄に心を売り渡したりしません。苦しみから逃れようと人生を投げ出したりしません。イエス聖霊に満たされて荒れ野での試みを退けたように、誘惑の時に神はそばで支え続けてくださいます。

「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。」(4・13)悪魔のあらゆる誘惑が無駄であったことが印象的です。誘惑は避けられないとしても、神がそばにいてくださると信頼して日々を歩み続けましょう。神がそばにいてくださるなら、わたしたちにも悪魔の誘惑は無駄に終わるのです。

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ちょっとひとやすみ
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▼どんな環境でもぐっすり眠れるというのは特別な恵みだと思う。かつては睡眠をとるのに苦労はなかったが、最近は眠れないこともある。それでも最終的には眠っているからまだ大丈夫だとは思うが、いまいち目覚めが良くない日をときおり迎える。年齢が関係しているのだろうか。
▼一方で、90分くらいで8時間も9時間も眠ったような感覚になるときがある。すぐに寝付いて、あーよく寝たと思ったら90分くらいしか経過していない。そんな時はなんだか得をした気分である。残りの時間はボーナスをもらったような睡眠時間だから、仮に眠れなくても朝はまだ数時間後だ。
▼眠りというのはとても複雑だなと思う。長い時間横になっても眠った気がしない時もあるが、短い時間で長く眠った感じになることもある。不思議だがわたしはどちらかというと一定の時間を使って眠りたい。この頃は長く起きているのも楽しく感じないのだ。
▼今までは考えもしなかったことだが、これからは起きている時間どのように過ごそうか、その場その場で考えながら選ぶようにしたいと思う。かつては無為に過ごす時間もそれはそれでありだったが、今は無為に過ごす時間があると、「今の時間は何だったのだろうか」と悔やむことが多くなっている。
▼無為に過ごす時間を回避するために、いくつかの選択肢を持っておこう。1時間失うことは昔も今も変わらないから、これは対象外として、2時間でできること、3時間でできること。この2種類があれば時間の使い方で悔やまなくて済むかもしれない。
▼2時間でできることと3時間でできること。何があるだろうか。場所にもよる。今なら3時間あればお魚を釣ってきて晩の刺身くらいは確保できるが、場所によっては同じことはできなくなるだろう。着替えて現地に向かい、帰ってきて自分の体を洗い、魚の下処理をする。そこまで3時間でできるのは目の前に海がある場所に限られてくる。
▼2時間の場合と3時間の場合の、いろんな選択肢を考えておこう。あと1ヶ月ほどで50歳になるから、おおよそ残りの時間は25年だ。その中で後半の人生の歴史を刻むことになる。若い頃はそうでもないが、これからは無為に過ごす時間はもったいない。

† 神に感謝 †