四旬節第3主日(ルカ13:1-9)

厳しかった冬の山場もようやく峠を越えた感じがします。今週四旬節第3主日は、2つの部分から成り立っていますが、後半の「『実のならないいちじくの木』のたとえ」について考えてみたいと思います。

黙想会、本当にご苦労様でした。参加した方々の中には、20日と21日の信徒発見劇で踏み絵を踏んでいた浦上キリシタンのように、「あーこれで一年の務めを果たした」そんな気持ちになっている人もいるかもしれません。その人たちも含めて、黙想会を通して生活の中で信仰に土台を置いて生きる必要性を確認し、再出発できたなら幸いです。

ところで信徒発見劇の観劇のために用意したバスでは、いろいろハプニングがあったと聞きました。中には夜6時半から劇が始まるのに、夜6時半に出発するのだと勘違いしていた人がいたり、整理券を家に置いてきたままバスに乗ろうとしたりした人がいたと聞いております。

ついでですが、貸し切りバスはかなりの費用が必要です。今回バス利用者があまりいなかったので効率の悪い貸し切りとなりました。場合によっては、バスを借りるのではなく、タクシーで乗り合わせて、あとでかかった費用を払い戻したほうが安くつくかもしれないと思いました。

話変わって、浜串教会の聖櫃ですが、本当に心配しております。聖櫃のために寄付してくださった方も気を揉んでおられるに違いありません。何とか御復活までにはと思っていましたが、現時点で御復活までに必ず新しい聖櫃が届くという保証はありません。大変心配しております。

さて「実のならないいちじくの木」ですが、黙想会で話したことと結びつけて考えてみたいと思います。ぶどう園の主人が、いちじくの木を植えておき、実を探しに来ました。しかし実は見つかりません。この状況に、神さまの救いの御計画を重ねてみました。

ぶどう園の主人を父なる神ととらえるのは問題ないと思いますが、御独り子イエス・キリストはどこで表されているかがカギになります。園丁ととらえるのが通常だと思います。いちじくの木は人間であり、3年間ありったけの努力をする園丁のとりなしにもかかわらず、いちじくの木は今にも切り倒されようとしています。

わたしは、今回違った考え方でとらえてみました。いちじくの木も園丁も、イエス・キリストを表していると考えたいのです。ぶどう園の主人に例えられる父なる神が、地上に御独り子イエス・キリストを植えてくださいました。しかし大地はいちじくの木に実をつけさせる協力を拒み、実をつけさせてくれないのです。

大地がいちじくの木を拒むので、園丁は木の周りを掘って、肥やしをやってみます。これは、イエス・キリストを拒む人類に代わって、イエス・キリスト自身が実をつけるためのあらゆる手を尽くしていると考えてみたのです。人間がどれだけイエスを拒もうとも、イエスは人間を救うためにできるすべてのことを尽くそうとします。

この部分は、黙想会の最初の講話で「蜘蛛の糸」という小説を引き合いに出したところを思い出してくださればと思います。わたしたちの信仰の理解では、小説の「蜘蛛の糸」とはイエス・キリストであり、神は差し出した救いの唯一の糸であるイエス・キリストを決して切ることはないという部分に重なってきます。

「来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」(13・9)イエスは最終的には切り倒されていけにえになる十字架の木なのです。そのことを、園丁といちじくの木の両方を合わせることで表すことができると思いました。

イエス・キリストといういちじくの木を父なる神が地上に植えてくださいましたが、人類を表す大地はいちじくの木に協力せず、実をつけさせてくれませんでした。

それでも神さまの側から木の周りを掘って、肥やしをやってみて、実をつけるあらゆる努力を試みます。それでも大地は神の努力に答えようとしないので、最後はいちじくの木は切り倒されてしまいます。神はわたしたち人間が実をつけるために、実をつけるいちじくの木であるイエス・キリストを植えて、わたしたちの協力を待ったのですが、それも無駄に終わりました。

そこで神は、みずから植えたイエス・キリストを切り倒して人類の忘恩をイエス・キリストによって償いとしてささげさせたのです。神の愛は、人間が実をつける手段として与えてもらったイエス・キリストを拒んでもなお、人類への愛を諦めなかったのです。どんなに愛深いお方なのでしょうか。

わたしたちが神の期待に応え、いつもいちじくの木であるイエス・キリストに協力して実を結ばせるなら、父である神の心配はなくなるはずですが、わたしたちは神様の期待に十分応えられないのです。十字架の神秘は、とうとうわたしたち人間が神さまの愛に応えられず、神さま自身が命をささげた神秘です。神の愛に感謝することしか、わたしたちにできることはないのだと思います。

黙想会を通して、また今週の福音朗読を通して、神の愛がどこまでもわたしたち弱い人間を覆っていることを考えました。わたしたちは弱いながらも、神さまに繋がってこれからも日々を生きていきましょう。

いちじくの木に、十分実をつけさせるほどの力はないにしても、せめていちじくの木に繋がる大地であり続けましょう。神が人間の大地に植えてくださったイエス・キリストは、わたしたちの弱さをよくご存知で、ぶどう園の園丁のように、今も、いつも、父である神にとりなしてくださいます。

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ちょっとひとやすみ
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▼黙想会を終えて一安心。6年間この小教区に赴任し、思うところもあるので黙想会は自分にとっても話す良い機会となった。黙想会を受ける多くの人に、「黙想会は新たな出発をするきっかけです。しっかりあずかりましょう」と促した。「エクゾドス」「出発」の良い機会となればと思っている。
▼黙想会中は午後の時間が空いている。だから心置きなく釣りに出かけようと早くから計画していた。黙想会の原稿を準備し始めた頃からずっと、「昼の時間には毎日魚を釣って、刺身を食べるぞ」と思っていたのだが、実際には精も根も尽き果て、昼間はずっと昼寝していた。布団に潜り込みながら、「こんなはずではないのに・・・」と思いつつ。
▼話すという作業は、意外に体力を使うもので、ささっと話を終えて釣りに・・・と思っていても体は正直である。「無理だよ。夜の部の体力を温存しないと、浜串→福見→高井旅の連続黙想会はもたないよ」とブレーキがかかるのである。50を目前に、体の声には逆らえなくなってきたことを実感した。
▼信徒発見劇上五島公演に出演させてもらい、多くの方から声をかけてもらうようになった。中にはわたしの知らない人からも、「与作は神父様が演じていたんですね。とても素晴らしい演技でしたよ」とお褒めの言葉をいただいた。大変ありがたいことである。
▼演技に大切なことは、「その役柄に入り込むこと」だと思う。演技がうまい下手だというのは二の次で、その人柄に入り込めば、観ている人は「その登場人物はこんな人柄なのだろう」と皆が受け止めてくれる。わたしはその意味では役に入り込めたのでひとまず成功だろう。
▼ただ悔しいことに、練習で一度も失敗しなかったのに、本番初日のセリフは間違ってしまった。「フランス寺(大浦天主堂)見物に行った人たちの間では、もっぱらの評判でござります」と言うべきところを、「長崎見物に行った人たちの間では、もっぱらの評判でござります」と言ってしまった。痛恨の極みである。

† 神に感謝 †