聖金曜日(ヨハネ18:1-19:42)

わたしたちの救いのために、わたしたちを罪から解き放つために、イエスはこの日、死に渡されました。今年の聖金曜日は、息を引き取るときにそばにいた人々に注目して、黙想してみたいと思います。

ヨハネ福音書によれば、十字架上のイエスのそばにいてイエスの最期を見守った人々の中に、「イエスの母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた」(18・)とあります。また、イエスの愛する弟子が、そばにいたとあります。この、母マリアと愛する弟子が十字架のそばにいたことに、注目したいと思います。

エスは確かに苦しんでお亡くなりになりました。そのイエスのそばに、母と愛する弟子とがいたことには意味があります。母は、子を産む苦しみとその後の喜びを現わす姿です。ですからイエスの十字架上の死は、新たないのちを産む苦しみであると、イエスのそばにいるマリアを通して現わそうとしているのです。

また、愛する弟子が母マリアのそばにいました。イエスが母マリアに、「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です。」(19・26)と示した通り、この愛する弟子はイエスが十字架を通して生み出した新たないのち、苦しみの後に生まれた喜びです。

こうしてイエスは、十字架上の出来事が、息絶えてすべてが消える滅びの出来事ではなく、新たないのちをもたらす、豊かさを秘めた出来事であると身をもって示したのです。
かつて見たことがあるでしょうか。死ぬことが、いのちをもたらすということを。いのちをもたらす死など、だれも説明できませんでした。それをイエスは、十字架のもとにたたずむ人々の目の前で、証明したのです。

わたしたちはこの出来事を前にして、何が必要でしょうか。それはただ、イエスがもたらすいのちを受け取る。その準備だけだと思います。イエスが十字架の上で死に、新たないのちをもたらすことを、感謝してそのまま受け取ることです。

この説教の後に、十字架の礼拝をいたします。十字架を礼拝するのは、イエスが十字架の上で死に渡されて、わたしたちにいのちをもたらしてくださったからです。ぜひ、この十字架の礼拝の時に、「わたしたちに救いのいのちを与えてくださるイエスに、感謝します。」その気持ちで十字架の前に立ちましょう。

礼拝は二人一組で行います。イエスが苦しみと死を通して与えてくださるいのちを全身で受け止めるために、きちんと動きを止めて礼拝いたしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼受難の主日の説教の時、原稿の誤変換に気がついた。配信してから気づいても遅いのだが、少なくとも2箇所、パソコンを信じすぎて誤変換していた。「十字架に貼り付けにされている」これは、パソコンの「コピーして貼り付け」という感覚だ。イエスさまがコピーして貼り付けでは、薄っぺらいものになってしまう。
▼同じ段落に、「向き合わなければ鳴りません」これも誤変換である。土曜日の前晩のミサから、都合4回もこの誤変換を見て説教をしたが、本当に嫌気がさしてしまった。ミスに気づかないわたしに責任があるのだが、だんだんミスに気づかないようになっているのかもしれない。悲しいことだ。
▼聖香油のミサに参加した。このミサの後、司祭の集いも開かれ、25周年、50周年、60周年、そして司教に叙階されることになった被選司教さまがお祝いされた。この先輩方を見ながら、長くこの務めを果たすために、健康にはくれぐれも気をつけなければならないと感じた。
▼いくら何でも25周年は迎えることができるだろうが、50周年はよほど健康に留意しないと、お祝いしてはもらえないだろう。ギリギリそこまでたどり着けるかもしれないが、今年は60周年の対象者もいる。立派だなと思う。
▼矛盾しているかもしれないが、ある意味「この世」に死ななければ、長生きできないのではないかと思った。「この世」は命を縮める要因に溢れている。タバコ(受動喫煙も含めて)、パチンコその他のギャンブル、食べ物の好き嫌い、過度の飲酒、生活習慣。数えればきりがない。
▼それら「この世」に死ぬことが、この世でも生きることにつながるのではないだろうか。予測できないことは仕方がないとしても、みずから望んで不安要因を抱えて生きる必要はどこにもない。十字架上のイエスが、「わたしに従いなさい。」と呼びかけている。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===