四旬節第2主日(マコ9:2-10)

四旬節第2主日です。B年ですのでマルコ福音書からですが、「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」(9・2-3)とあります。この場面を何度も考えてきたわけですが、違う切り口から考えることができそうだと思い、今年の学びとしたいと思います。

久しぶりの韓国語です。動詞で、「〜を好む」は韓国語で「チョアハダ」と言います。反対に、「〜を嫌う」は「シロハダ」と言います。初めてこの単語を勉強した時、おやっ?と思いました。「〜を嫌う」が「シロハダ」だなんて。わたしはどちらかと言うと「シロハダ」は好みだがなぁ、と思ったのです。

この冗談はもちろん韓国人には通用しません。日本語をよく理解できる韓国人なら、通用するかもしれません。50歳の手習いで韓国語を学び始めたので、まぁこれくらいの語呂合わせは許してください。韓国の巡礼者と二言三言会話するのはもう少しかかりそうで、つい韓国語を思い出すよりは英語であいさつするほうが楽なので、なかなか韓国語も上達しません。

福音朗読に戻りましょう。「服は真っ白に輝き」ここに注目してみると、「服の白さ」とか、「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」とか、「白さ」にこだわっています。しかし、この世の白さですと、 完全なものなど何一つないと思います。それなのにここでは、この世のものでない、完全な白さに言及しているのです。

そこで、この世のものでない白さとはどのようなものか、考えてみました。わたしは黙示録のある一節を思い出しました。「長老はまた、わたしに言った。『彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。』」(黙示録7・14)小羊の血で洗って白くした。

ここに、この世のものではない白さを考えるヒントがあるのではないでしょうか。イエスの姿が変わった場面にモーセとエリヤが現れます。ほかの福音書から補うと、「二人は栄光に包まれて現れ、イエスエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(ルカ9・31)とあります。イエスの死と、イエスの姿が変わることを結びつけるのに十分だと思います。

すると、イエスがまとわれたこの世のものではない白さは、黙示録で「小羊の血」と表現されたイエスの死のことではないでしょうか。イエスの死が、この世のものを白くする。しかも、この世のものでは表現できない白さにする、ということです。

わたしたちは、白さについてどこまでこだわりがあるでしょうか。この世のものではない白さに、関心があるでしょうか。むしろ、白さなどどうでもよいと思っていないでしょうか。時間の経過とともに、この世のものは白さを保てなくなるのはある程度仕方のないことかもしれません。

「白さ」は物の白さだけでなく、心の白さ、心の清さについても当てはまります。時間の経過とともに、一切妥協しなかったことにも妥協するようになり、正しいものを正しいと認める潔さも失われ、居心地の良さや快適さを心の白さよりも優先している。こんな状態になっていないでしょうか。

そんなわたしたちに、イエスは道を示します。あなたが白さを保ちたいなら、それもこの世のものではない白さを保ちたいなら、わたしに近づきなさい。自分自身を白く保つためには、血を流して人類を白くするわたしに近づかなければならない。イエスはそう言っているのだと思います。

小さい頃はまじめに教会に行き、朝夕の祈りもよく唱えていたかもしれません。その時心は白かったはずです。今その白さを保つためには、努力して、イエスに近づき、触れる必要があるのです。イエスから自分を遠ざける理由はいくらでもありますが、イエスに触れなければ、小羊の血で洗ってもらわなければ、わたしたちはこの世のものでない白さを手に入れることができないのです。

「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」この世のどんなものも、わたしたちをこの世のものではない白さに導くことはできません。イエスに触れ、イエスの血によって白くされることを願い求めましょう。祈ること。ミサにあずかること。聖体を拝領すること。わたしたちがイエスに触れて白くしてもらうことのできる身近な手段です。

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ちょっとひとやすみ
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▼ものすごく長い一日だった。朝6時のミサ、音訳図書を利用する人々に届くする15分間の宗教講話(これは会員のために毎週用意する朝礼動画とは別)、教会が毎月発行する「瀬戸山の風」に提出する主任司祭の原稿提出。
▼11時の葬儀ミサ、午後から説教を練り始め、午後3時過ぎに納骨、そしてまた説教づくり。結局短めになってしまったが、ようやく説教案を書き上げて夜7時のミサ。ミサ後、夜8時からはメルマガ配信、ミサの録音の編集とアップロード。目が回りそうだった。
▼ちょっと葬式の話を紹介。故人は黙想会や日曜日のミサに出席しては、家に戻ってさっそく母親と黙想会の説教でこんな話をしていた、こんなところに共感したと話してくれていたそうだ。その中で、とても慰められた話があった。
▼「神父さんは小学生の時の過ちを包み隠さず話してくれた。神父になった人が、過去をあそこまで赤裸々に打ち明ける必要はないだろうし、そうする人も聞いたことがない。感心な神父さんだ。」心を打たれた。この話を切り口に、葬儀ミサの説教をしようと考えた。
▼葬儀ミサ。わたしはあえて「すべての民族を裁く」(マタイ25・31-40)選んで朗読し、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」(25・35-36)に触れてこう話した。
▼「個人はまことの食べ物、まことの飲み物、まことの着る物を求めて教会のミサや黙想会においでになり、わたしはたまたま主任司祭として、まことの食べ物飲み物を提供し、まことの着る物をお着せしました。故人は今、神のもとで、『わたしはまことの食べ物飲み物を与えてもらったことがあります』と証言しているのではないでしょうか。
▼与えた側だけではなく、受けた側も証言ができる。与えた側だけが救われて、受けた側が救われないはずがない。きっと救ってくださると信じている。そういう話をした。わたしは旅立っていく人のどこか神に取り上げてもらえそうな点を見つけて、証言するのが使命だと思っている。

† 神に感謝 †