待降節第2主日(ルカ3:1-6)

待降節第2主日は洗礼者ヨハネが現れる場面が福音に選ばれます。6年も同じことを言っているので、さすがに覚えてくれていると思いますが、「洗礼者ヨハネ」と聞くと「悔い改め」を思い出してほしいと思います。今年の待降節、洗礼者ヨハネが悔い改めについて何を求めているのか、確認することにしましょう。

司祭黙想会の5月下旬頃でしたか、浜串教会祭壇の聖櫃を新調しようと思って典礼用品を扱う修道会に依頼をして半年が過ぎました。今年のクリスマスまでに、と思って注文した品物が届くのを楽しみに待っていましたら、どうやら注文した聖櫃は制作できないとお詫びの連絡が入りまして、12月8日に再度注文し直すこととなりました。この聖櫃のために、寄付をくださった方もいました。ですから少しでも早く、聖櫃を新調して、喜んでもらいたいと思っているわけです。

本当に首を長くして待っていますが、相手がある話なので、わたしがどんなに願っても願った通りになるわけではありません。もう一度注文すれば年内はもう諦めなければならないと思いますが、遅くとも復活祭までには、新しい聖櫃を聖堂に設置して、安心して浜串教会でのミサをささげたいと思っています。ご寄付くださった方々も、今しばらく辛抱して待っていてほしいと思います。

12月3日、日本宣教の保護者聖フランシスコ・ザビエル司祭の祝日でした。わたしたちの小教区では福見教会が献げられた教会で、夕方でしたが福見教会のためにもミサをささげました。

直前の日曜日に、「福見の聖堂のお祝い日とも言える日ですので、都合をつけて参加してください」と呼びかけていたのですが、木曜日の夕方5時15分のミサではとても参加は難しいかなと思っていました。

ところが、都合をつけて参加してくださった方を見つけて、大きな慰めをいただきました。人数の多い少ないではなく、呼びかけを真剣に受け止めてくれたということですから、呼びかけは間違いなく届いたのだと思い、力づけられました。ありがとうございました。

さて福音に戻りましょう。洗礼者ヨハネが荒れ野で活動を始めます。神の言葉が、ヨハネの活動を方向付けます。預言者イザヤの書に書いてある活動です。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」

これはイザヤ40章3節から5節の引用です。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。」

イザヤの時代には、「呼びかける声」の方向に生き方を変えることが、「呼びかける声」に答える道でした。イザヤの時代には必ずしも具体的ではなかったかもしれませんが、洗礼者ヨハネの時代にいよいよ声の主である神が、人となってわたしたちに現れたのです。この時から悔い改めは、具体的なものとなりました。

「呼びかける声に答えること」それは、イエス・キリストへと向きを変えて生きることです。呼びかける声、それはイエス・キリストであり、わたしたちはこの待降節に、おいでになる主に生き方を向け、イエス・キリストが向かうようにわたしたちも生き方を向けますと表明することを求められているのです。

どのような生き方を求められているか。3年前の説教を参考に示したいと思います。わたしたちに期待されているのは、イエス・キリストなしには物事が始まらない、そういう生き方です。朝、目が覚めた時にイエス・キリストなしに今日一日が始まらないと考えるなら、わずかでもいいから祈りをして一日を始めるはずです。

食事をしようというときに、イエス・キリストなしにこの食事は始まらないと考えるなら、食事の前に祈るはずです。こうして、イエス・キリストなしに物事は始まらないと考える人に、神の言葉が降るのです。

洗礼者ヨハネは、まだ見ぬ救い主キリストに率先して向きを変え、ヨルダン川に集まった人々にも同じ生き方を求めました。現代のわたしたちもまた、イエス・キリストなしには物事は始まらない。そのような生活を心がけるなら、社会に対してしるしとなることができます。そしてわたしたちを見て、だれかが主の道を知り、その道を歩き出すのです。

皆さんは、「主の道を備えよ」という聖歌をご存じでしょう。できればこの聖歌を覚えて持ち帰り、日々心の中で歌い続けましょう。わたしも、周りの多くの人も、イエス・キリストに向きを変え、イエス・キリストなしに物事は始まらないと、言葉でも態度でも表明して生活しましょう。

わたしの生活は、主よ、あなたなしには始まりません。その思いを待降節中毎日この聖堂でささげながら、降誕の日を喜び迎えることができるよう、ミサの中で照らしを願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼先週郷里の先輩司祭の叙階25周年記念ミサに出席し、その後の祝賀会にも出たが、写真を撮らなかった(><)これは大失敗。そもそも車で出かけて祝賀会を想定していたので車を実家において教会まで歩いていくときに、「プレゼントと、自分の祭服があればいいか」と、一切を車に残していったのが間違いだった。
▼祝賀会で「後輩司祭の中田神父さまに一言あいさつをお願いします」と言われて出番が回ってきた。「先輩はわたしにとって小学生の時からのあこがれの存在でした。小学校でのソフトボール大会の時、先輩が相手チームの球を見事に捉え、打球がグランドいちばん外を囲むブロック塀の上で跳ねて、その先の川に飛んで行ったのを見て、『かっこいいなぁ』と思った時からです。」
▼「先輩がずっとお手本でいてくれたので、わたしもここまで歩いてくることができました。25周年銀祝は、世の中で言えば銀メダルのようなものだと思います。これからも健康に留意して、50周年の金祝、金メダルを目指してください。」
▼「くれぐれも、健康には注意をお願いします。わたしは先輩が絶えず咳をしているのがいつも気になっています。薬などのお世話にならないで済むように、用心してください。ちなみにわたしはすでに2種類の薬のお世話になっています。認知症の薬と、これ以上髪が抜けない薬です。」まぁ最後は冗談だが、みんなを喜ばせる挨拶ができた。
▼先週の説教案の中で、福音書の引用になっているはずの部分が、わたしの読み落としで誤変換され、配信されてしまっていた。これも大失敗。高井旅教会の前晩のミサでも気付かず、ようやく翌朝の浜串教会のミサで気が付いた。しかしまぁ、なんとも「笑えない誤変換」だった。「放縦や深酒や生活の煩いで」の部分が「放銃」となっていた。つまり銃をぶっ放したわけである。
▼次回のメルマガで通算800号。前回368号でCD3枚に収めて用意したようだ。おおよそそれ以降の分をCDに焼いて提供するなら、1000円で提供できそうである。もし説教の録音CDに興味があれば、郵便番号、住所、氏名を書いたメモと、82円切手12枚(984円)を同封して中田神父のところまで連絡(メール)を。中田神父の住所は「〒853-3102 長崎県南松浦郡新上五島町岩瀬浦郷724番地 カトリック浜串教会」。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===