年間第2主日(ヨハネ1:29-34)

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」(1・29)洗礼者ヨハネは、目の前においでになったイエスを見て、自分はこの方がイスラエルに現れるために、呼び出され、使命を授かり、悔い改めの洗礼を授けているのだと証言しました。「わたしはこの方を知らなかった」と繰り返していますが、「世の罪を取り除く神の小羊」と確信するまでの洗礼者ヨハネの心の動きを探ってみましょう。

無事にイスラエル巡礼を終えてきました。17年前にも一度行ったのですが、覚えていない場所もありました。パレスチナ自治区の領土にあるベツレヘムにも行きました。降誕節イスラエルを巡礼しましたので、文字通り「ベツレヘムの飼い葉桶に眠る幼子イエス」を拝みに行きました。文字通りって、すごくないですか?

何よりありがたかったのはご公現の祭日のミサをささげたことです。17年前のイスラエル聖地巡礼で、島本大司教様の引率のもと、長崎教区の青年と各地区代表の同行司祭とでイスラエル各地を巡礼し、いろんな教会でミサをしました。

今回ミサをささげたのは「ペトロの首位権の教会」と言われるところです。17年前、それぞれのミサの中での説教を「この教会ではあなたが説教してください」と割り振ってもらったのですが、わたしの記憶に間違いがなければ、中田神父が頼まれたのは山上の説教の教会での説教でした。できれば17年を経て、もう一度同じ教会でミサをささげ、説教したかったのですが、今回は叶いませんでした。ですが同じイスラエルの地でミサをもう一度ささげる。それだけでも幸運と言うべきでしょう。

わたしは、出来事は単なる偶然で起こるものではないと思います。再びイスラエルの地でミサをささげ、説教ができたのは単なる偶然ではなく、神さまの深い計らいだったと思っています。今回、カトリック司祭はわたしだけだったという巡り合わせが一つありました。

巡り合わせはほかにもありました。イスラエル巡礼のお誘いが降誕節中だったということです。当日1月8日はご公現の祭日で、占星術の学者たちが「東方で見た星」に導かれ、はるばる旅をして幼子イエスを拝みに来たことを祝う祭日です。わたしも、はるか東の国日本で目には見えない光に導かれて降誕節イスラエルに赴き、救い主を礼拝することができた。そう考える時、決して偶然の重なりとは思えないのです。

福音に戻りましょう。ヨハネヨルダン川で水を用いて悔い改めの洗礼を授けていましたが、彼には一つの確信があったと思います。それは、自分が神に呼ばれて、この使命を果たしているということです。単に立派な行いだからとか、生き方を突き詰めてみたいとか、そういうことで悔い改めの洗礼を授けているのではなく、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」(1・23参照)そう呼びかけられたから、使命を果たしている。この確信があったのだと思います。

更に何を語り、どのように悔い改めさせるのかも、呼びかけてくださった神に準備を整えてもらったのです。そのヨハネの活動は、決定的な場面を目撃して完成を迎えます。「しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」(1・33-34)

ここでヨハネが体験したことは三つです。使命のために呼びかけられたこと。活動のために準備を整えてもらったこと。先駆者としての使命が成し遂げられたと悟る場面を目撃したことです。そして今週、この三つにわたしたちの生活を重ねて考えてみたいのです。

わたしはちょうど、先週この体験を積ませていただきました。人間的にはつまらない者でありながらも、司祭召命に呼ばれました。そして司祭として何にもまして大切なミサをささげる祭壇を、山上の説教の教会で二度も整えていただきました。

そして山上の説教の教会祭壇でミサをささげながら、イエス・キリストの身分においてささげることで、このイスラエルでも、世界中のどの教会でも、もちろん田平教会でも、同じいけにえがささげられ、同じ効力と恵が与えられると目撃して帰って来たのです。

皆さんお一人お一人にも、使命のために神は呼びかけ、準備を整えてくださり、使命が成し遂げられたことを悟らせてくださいます。ときには人間が思い描く形ではないかもしれません。けれども神が呼びかけ、準備を整えて、完成させる働きは誰にでも与えられ、体験させていただけると思っています。

先に、出来事は偶然の積み重ねではないと話しましたが、会うべき人に会わせてもらえるとか、見たかった場面をとうとう見たとか、どれほど偶然を積み重ねても起こらないような出来事を、神はわたしたちを使って成し遂げてくださるのです。わたしたちが「このことは神の深い計らいだったのだ」と気付いたなら、ぜひそれは証ししてほしいと思います。

昨年一年、わたしが説教台から話したことは、ひとことで言うなら「福音に書かれていることは、わたしたちの今の生活の中に見つかります」ということでした。今年はみなさんと共に歩く二年目です。もう一歩踏み出して、「わたしたちの今の生活に見つかった福音を身近な人に証ししましょう」このように位置付けたいと思います。

証しする福音の種は、二千年前にあるのではなく、今のあなたの生活の中にあるのです。

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ちょっとひとやすみ
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イスラエル巡礼から戻って「ちょっとひとやすみ」を書こうかと思ったが、説教案が書けそうだったのでこのコーナーも前もって書いておくことにした。イスラエル礼記はおいおい書いていくことにしたい。
▼ここ15年ほど、目の不自由な人、読書に支障を抱えている人のための情報提供ボランティア活動の一つ「声の奉仕会・マリア文庫」に関わっているが、今年からさらに新しい段階で関わることになった。マリア文庫のスタッフは、おもに「音訳」(本や情報の音読)を通して利用者に情報提供をしている。
▼音訳された情報は、「校正」と「編集」を通って利用者に届くが、「校正者」にはある程度のめどが立っているが、「編集者」の絶対数が足りず、活動に支障をきたしていた。「編集作業」は一般的な雑誌編集とかの編集作業ではなく、現在標準となっているデイジー図書編集基準に沿って「音訳された図書情報を整える」仕事である。
▼と言っても難しいと思うので、もう少し平たく言うと、音訳された音源は例えるなら材料から型抜きされた製品のようなもので、指先で触ると出っ張りがあってそれをヤスリでていねいに削ってケガをしないように整える。そういう作業がデイジー図書に関する「編集」である。
▼音訳者は音訳する図書や雑誌を一度ですべて録音するわけではない。言い間違えたり雑音が入ったりくしゃみをしたりすれば録り直しをする。そうした作業を何度もしていくと、つなぎとつなぎの部分で「プチッ」とか「ガサッ」とかいう音が入ったりする。それらをできるだけ取り除き、録音された状態もできるだけ平準化して利用者に届ける。そのための編集作業である。
▼昨年末に大まかな手ほどきを受け、今年から即実践ということになった。経験がないので今後もいろいろ指導を仰ぎながらのお手伝いになると思う。ただ困ったことに、この手の作業はわたし好みの作業であり、本業をそっちのけにしてものめり込みたくなりそうな魅力がある。うまく本業とのバランスを取りながら、続けていきたい。

† 神に感謝 †