復活節第4主日(ヨハネ10:11-18)

今年の復活節第4主日の福音朗読は、「良い羊飼い」として自分を示すイエスの姿が描かれています。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」このイエスのみことばに分け入っていきたいと思います。

去年の同じころの話ですが、6月には毎年教区司祭の黙想会が入ります、気がけておいてくださいと言ったのに、今年の黙想会の案内を見ると5月26日から4日間となっていました。

まるでわたしが嘘ついたような格好になっていますが、去年話した時点では毎年そうだったのです。もはや、長崎教区には決まりごとは何も通用しないのだと思いました。

黙想会の前日5月25日(月)に、黙想会とは全く関係ないですが、気になる予定が入っています。西日本の司祭たちが長崎に集まって、教区対抗のソフトボール大会です。2年に1度の交流会なのですが、前回長崎教区チームは20代30代でチームを組んだのでお呼びがかかりませんでした。

ところが、前回のチームがあまりに強すぎて、よその教区(例えば福岡教区)から楽しくないと不満が出たそうです。そこで長崎教区のチームがあまり強くならないように配慮するということになり、40代50代の司祭に選手に出ろという命令が下りました。秋のソフトボールの頃にしか練習していないので怪我しないようにこれから準備しますが、内心は「今回のチームも強すぎると言わせてやる」と意気込んでいます。

今週末から聖母月に入ります。どうぞ、ロザリオの信心に都合付けて参加してください。なお聖母行列ですが、月の半ば5月17日の午後4時から行列を開始、その後引き続き主日のミサとしたいと思います。

福音朗読に戻りましょう。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(10・11)日本語で「命を捨てる」と訳された部分は、要らなくなったものを捨てることと勘違いされやすいので、本来の意味までたどって理解しておく必要があります。

ギリシャ語の聖書に当たってみると、「命を捨てる」とは違った印象を持つはずです。わたしが所有しているギリシャ語の聖書には英訳が付いていて、”The Good Shepherd lays down His life for the sheep.”とあります。日本語ですと「良い羊飼いは羊のために命を置く」となるでしょうか。

「命を捨てる」ではなく「命を置く」と訳せば、印象はがらっと変わるはずです。イエスはなぜ命を置くのでしょうか。イエスはどこに、いのちを置くのでしょうか。

エスがご自分の命を置く理由は、羊のためです。羊を守るため、羊を愛しておられ、羊を導くためです。羊は、弱い動物なので、羊飼いに守られなければ身を守ることができません。雇い人のように羊を置き去りにしていく人のもとでは、生きていけないからです。

もう一つ、イエスは「わたしは命を、再び受けるために、捨てる」(10・17)と言っています。これはイエスがどこに命を置くかにつながっていますが、「命を捨てる」のではなく、「命を置く」から、再び受けることができるわけです。するとますます、イエスがどこに命を置くかは大事になってきます。

どこに、イエスは命を置くのでしょうか。それはイエスが置いた命を、御父がたしかにお受け取りになる場所のはずです。イエスが命を置く場所は十字架です。十字架の上に置かれた命を、御父がすべて受け取り、そしてイエスにお返しになるのです。

エスは良い羊飼いとして、わたしたち羊のために命を置いてくださいました。わたしたちも、いつか命を置く必要があります。どこに、命を置くのでしょうか。わたしたちの命を受け取り、再びそれを与えてくださる方のもとに置くべきです。そのお方とは疑いもなく、イエス・キリストです。

もう少し踏み込んで考えると、わたしたちは明日をも知れぬ命を生きています。いや、今日を無事に終えることすら、約束できない身なのです。ですから、日々わたしたちは自分の命をイエス・キリストに置いて生きていく。そういう覚悟が必要なのではないでしょうか。

わたしたちキリスト者が確実に自分の命を日々イエス・キリストに置いて生きるとき、世に対して証しを立てることができます。次のような証しです。「わたしたちは今日の命を、イエス・キリストに置いて生きています。イエス・キリストに命を置いて生きるなら、たとえ今日で命が尽きようとも、イエス・キリストが命を受け取ってくださり、再び命を与えてくださるからです。あなたはどこに、いのちを置いて生きていますか。」

わたしたちキリスト者が例外なく、命をイエス・キリストに置いて生きるとき、証しは力あるものとなるでしょう。あなたは命を、どこに置いていきますか。その答えが決まれば、イエスが羊のために命を捨てる意味も、身近に迫って来ると思います。

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ちょっとひとやすみ
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▼88歳の女性の葬儀ミサに参列した。中町教会で行われたミサで、中町教会の主任司祭と共に司式をさせていただいた。関わりがあったということで説教もさせていただいた。この女性が洗礼を受けて教会の葬儀で旅立つまでには長い長い前置きの話がある。
▼この方には3人の子供さんがいて、そのうちの1人が純心高校にお世話になる間に学校の先生であったシスターに導かれ、洗礼を受けた。さらに修道女となったが、家族の中ではカトリックの洗礼を受けた人は誰もいないので、十分理解してもらえなかった。
▼それでもシスターとなった子供の生き方が、長い時間をかけて両親に理解され、2007年に父親が、2008年に母親が洗礼を受けた。その両方の洗礼にわたしが関わったので、葬儀ミサにも参列することになったわけである。
▼福音宣教はこれが唯一という方法はないと思う。かつては「これが福音宣教」と受け止められた向きがあって、それを強引に推し進めて宣教師にも宣教地の人々にもさまざまな失敗があった。習慣も文化も異なる人々に単一の習慣・文化を押しつければ、当然ひずみも出てくる。
▼そうではなく、やはりその土地の特性に合った宣教の姿勢が必要である。もっと言うと、一人ひとりに合った宣教の方法が考えられてよいと思う。ある人は信じたいと願っているその時をつかんで導き、根本的なことを確認させて洗礼を受けてからさまざまなことを教えてもよいと思っている。
▼ある人は長い時間をかけて、それも何十年という長い時間の中で、信じるに値するのかをその人が見極めて、それから洗礼に導くこともあってよいと思う。だから福音宣教の中で結果として洗礼に導けるかどうか、目の前の結果に一喜一憂しないで取り組もう。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===