待降節第3主日(マタイ11:2-11)

待降節もすでに2週間進み、第3主日を迎えました。救い主を迎える準備を、外面でも、内面でも急ぐことにしましょう。内面的には、ゆるしの秘跡を受けたり、久しく教会に通うことができないでいる人を訪ねたりして、温かい心を自分の中に持つように努めましょう。

先週話したかと思いますが、イスラエル巡礼に行くことにしました。11月締切の申し込みを済ませてから、今か今かと旅行が成立しましたという返事を待っておりました。その返事が金曜日に来まして、5名という実に少人数ですが、7日間聖書の舞台を巡ってきたいと思います。

5人の顔ぶれはちょっとユニークです。カトリックの司祭であるわたしが1人、3人の牧師、それと旅行会社の社長です。ミサはどうなるのか、それだけが心配でしたが、少なくとも主日のミサだけは、山上の説教の教会を押さえていただいているそうです。あとはひょっとすると、宿泊する自分の部屋でミサをささげることになるかもしれません。

旅行会社の野口社長とは、かなり前に知り合いました。島本大司教様が青年たちを巡礼に連れて行きたいと希望されて、その青年の同行司祭として付いて行ったのがきっかけでした。その後わたしの両親に「一度は聖地巡礼に行ってみないか」と勧めて旅費を用意してあげて参加した巡礼でも、野口社長が世話してくれました。これで3度目です。

ミサのことだけが心配と言いましたが、金曜日の電話での返事を聞いてちょっとビビっております。「神父さんは福岡空港から、牧師さんは関西空港から、わたしは成田空港から出発しますから、まずはソウルで落ち合いましょう。ではよろしく」と言われたのです。福岡で落ち合うならまだしも、ソウルで落ち合いましょうと簡単に言われてもなぁと、尻込みしてしまいました。これで英語の勉強に加えて、ハングルの勉強も必要になりました。

福音朗読に入りましょう。「もはや一刻の猶予もない」と群衆に救い主を迎える準備を促した洗礼者ヨハネにとって、キリストが「来るべき方」であるかどうか、何よりも気にしていたことでした。洗礼者ヨハネは許されない結婚を諫めたことでヘロデの怒りを買い、囚われの身となっていました。弟子を通じて、イエスの言葉だけを頼りに、来るべき方であるかどうかを考える必要があったのです。

エスは遣わされてきた洗礼者ヨハネの弟子たちに、次のように答えました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(11・4-6)

ところで、このイエスの言葉をマタイ福音書から拾っていくと、「目の見えない人のいやし」が9章と20章にあり、「足の不自由な人のいやし」が15章と21章に見られ、「重い皮膚病の人の清め」が8章で取り上げられます。「耳の聞こえない人のいやし」は直接は見つかりませんでしたが、15章ではその他多くの病人がイエスのそばに連れてこられ、彼らをいやしたとあります。「死者の生き返り」については9章の「ヤイロの娘」が当てはまりそうです。つまり、洗礼者ヨハネの弟子たちは、イエスの力あるわざを一度に全部見ていないのかもしれません。

それでも、仮にそのうちの一つを見ただけでも、彼らは洗礼者ヨハネに告げることができたでしょう。「あの方こそ、『来るべき方』です」と。それほど、イエスがおこなっていた力あるわざは、洗礼者ヨハネの弟子たちを納得させる十分な力を持っていたのでした。

21世紀に住むわたしたちはどうでしょうか。「目の見えない人が見えるようになった。足の不自由な人が歩けるようになった。さぁ皆さん、一人残らず教会に来て、イエス・キリストを信じてください。」そういう時代なのでしょうか。残念ながら、そのような呼びかけはできないかもしれません。ではわたしたちには、誰かを教会に招き、神の呼びかけを生きる道しるべにする仲間を増やすきっかけを持たないのでしょうか。

わたしは、奇跡は起こらなくても、教会にはまだ、人々を招き入れるだけの力あるわざを持っていると思っています。「目の見えない人が見える」これは、何も肉体的なことに限りません。

何を判断の基準にすればよいか見えてない人は、もし適切な判断の物差しを与えられたらすべてが新しく見えてくるはずです。教会には、キリストを判断の基準に生きる人たちが集まっています。わたしたちがそれを示すなら、ある人は見えなかったものが見えるようになるのです。

何らかの失敗をして人生に挫折し、一歩も足を前に出せずにいる人がいるかもしれません。そのような人に、イエスはどんな過ちからでも、立ち直るために一緒に歩いてくださる。ゆるしの恵みを与えて、立ち上がって歩き出す力を与えてくださいますよと、わたしたちが導いてあげるなら、一歩を出せなかった人が歩き出すかもしれません。

もはや人生に何の望みもなく、死んだようにしている人もきっといるでしょう。その人たちに、イエスはパンを分け与えてくださいます。死んで復活したキリストを信じてくれるなら、あなたにも復活のキリストがいのちのパンを与えてくださいますよと、導くことができます。すると、文字通り死んでいたようなその人が、生き返るかもしれません。

皆さんの座っている周りを見てください。教会から遠のいて、もはや温める人のいなくなった席が空いていないでしょうか。その席にかつて座っていた人は、教会の敷居が高くなって、あるいは教会に嫌気がさして、来なくなったのでしょうか。そんな人にわたしたちは働きかける責務があります。洗礼者ヨハネの弟子たちに倣って、「田平教会は、福音が告げ知らされているよ」と、知らせに行くべきです。いつ行きますか。今でしょ。

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ちょっとひとやすみ
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▼「ブルータス。お前もか。」司祭館の備え付けとして購入した〇ELL製パソコンが挙動不審な動きをする。しかも高い確率で土曜日にそういうことが起こっている気がする。土曜日は説教案を書いている。本当に腹立たしい。
▼メーカーの問題ではなく、わたしの使い方に問題があるのかもしれない。しかしながら、発生した挙動不審な動きは見逃せない。説教案をきっちり仕上げて、さあ「保存」をしようとしたら、調子悪いですよ〜と知らせる「小さな丸い輪」がグルグル回りだし、「応答していません」という様子。
▼しびれを切らして再起動しようとすると、「文書を保存せずに強制終了しますか」と言う。こちらはいくらなんでも自動保存で守られているだろうと思うから「強制終了」を選択し、パソコンは自分の仕事を淡々と続ける。実は説教案を書いている途中に、「アップデートしたので再起動してください」というメッセージが表示されていたのだが、構わず説教案を完成させるのを優先した。するとこの始末である。
▼恐れていたことが起こる。「たまっていたパソコンの更新作業を済ませたので再起動」パソコンが立ち上がり、説教案を開いてみると、まったく何も書かれていないその日の朝7時の状態のファイルが起動した。10時半まで書いた文章はどこに?
▼自動保存のうち、最新のものを開いてみる。すると最後の「言い聞かせ」みたいな部分が抜け落ちている。もう一回書き直せって言っているのか?一度完成させて、「言い聞かせも決まった」と思っているところで、もう一度言い聞かせを書けと?本当に腹立たしい。
▼しかたなく、その最後の4行か5行を書いてみる。「決まった」と思って終わった文章をもう一度書くのは、ヒーローが決めポーズをしたのに「はいもう一度お願いします」と言われているようなものだ。最初はカッコいいなぁと思っていたのに、いまとなってはカッコ悪いとしか思えない。

† 神に感謝 †