待降節第1主日(ルカ21:25-28,34-36)

待降節を迎えました。カトリックの暦「典礼暦」はこの待降節から始まります。ですから典礼的には新しい年が始まり、主の降誕を待ち望む季節が始まったということです。待降節ラテン語でadventusと呼びますが、これは英語のadventureに通じる言葉です。つまり主の到来を、今か今かとワクワクしながら待つのが、待降節のよりよい過ごし方と言えるかもしれません。

おもしろい体験をしたので報告しておきます。2週間前の話です。カトリック教報の編集会議で日帰り出張した日、長崎で帰りの便を待っていたら韓国からの巡礼者かなという団体がたむろしていまして、盛んに会話していました。わたしには「ハムニタ」「イモニタ」「ミギニセヨ」「ヒダリニセヨ」と言っているように聞こえました。

団体の中にシスターが混じっていまして、すぐに「この団体には司祭が同行しているに違いない」と直感しました。儒教の影響を多分に受けた国で、シスターが団長を務めるということは考えにくいからです。

しかしジロジロ眺めるわけにもいきません。船に乗る時点でも司祭の姿は確認できなかったのですが、結果的に思わぬところでわたしの読みは正しかったのだと証明されました。

船が奈良尾に到着し、タラップを降りてみると、「ようこそ」という横断幕が目に飛び込んできました。新上五島町の職員なのかわかりませんが、桟橋で待っていた2人がいきなりわたしに近寄ってきて「アンニョンハセヨー」と声をかけてきたのです。

わたしはカトリック司祭が一般的に着用する司祭シャツを着ていたので司祭だとすぐわかる格好をしていました。お迎えに来ていた人々は、団体の中で真っ先に司祭に敬意を払おうと思ったのかもしれません。それは理解できますが、そうだとしても日本人か韓国人かは区別してほしかったです。「アンニョンハセヨー」と勢いよく話しかけてきた人に「イイカゲンニセヨー」と言いたい気分でした。

わたしのところに飛んできた2人は、待ちに待った団体さまが到着して、おあつらえ向きの格好をした司祭が見えた。これは間違いないと思ったのでしょう。愛想のない態度で過ぎ去ってしまい、彼らにはかわいそうなことをしたなと思いました。

福音に戻りましょう。待降節でわたしたちが待ち望んでいるお方も、実は飛んで行って挨拶をしてもよいくらい尊い方です。わたしたちが待ち望んでいる方は、2つの形でその力と栄光を帯びておられる方です。

1つは、神が人となってわたしたちのもとにおいでになり、人類の救いに必要なことをすべて成し遂げてくださった方です。その救いの御業は2千年前にすでに成し遂げられました。この救いの御業によって、力と栄光を帯びておられます。

もう1つは、ご自身が成し遂げてくださった救いの御業を、完成させるために再びおいでになります。救いは、実際にすべての人が救われることで完成します。わたしたちは救いの御業の完成のために力と栄光を帯びてこられる救い主という形でも待ち望むのです。

わたしたちが待降節を通して待ち望む方は、一方ではすでに救いの御業を成し遂げてくださった方ですが、他方では救いの御業を完成させるためにおいでになる方です。この二つの姿を重ねて待つことで、わたしたちは目を覚ましていることができます。

「救いの御業は成し遂げられた。」このことだけを考えている人は、放銃や深酒や生活の煩いで、心が鈍くなってしまいます。また「救いの御業を完成するために再びおいでになるのはまさか今ではないだろう。」そう考えている人も、心が鈍くなってしまいます。一方を思い描いて他方を顧みないなら、わたしたちは裁きを受けることになるでしょう。イエスの救いの御業の両面を忘れないよう心がけて日々を送る人、すなわちイエスの到来を正しく理解し、目を覚まして待つ人だけが、人の子の前に安心して立つことができるのです。

最後に、イエスは「いつも目を覚まして祈りなさい」と忠告します。「祈りなさい」と付け加えたのを見落としてはいけません。わたしたちが神の勧めを立派に果たすためには、祈りが必要だということです。

「目を覚ましている」というと、自分で注意しておけば立派に果たせるように思うかもしれませんが、いつも神の助がそこには必要なのです。祈ることで、わたしたちは神の助けを常に求めることができます。

どこかでわたしたちは気を抜くことがあります。それを戒めるために、イエスは「いつも目を覚まして祈りなさい」と忠告しておられます。主の降誕を待つ待降節の期間に、心が鈍くならないようにと絶えず祈ることにしましょう。わたしたちを喜びで満たしてくださる救い主は、目を覚まして祈るその先で待っておられます。

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ちょっとひとやすみ
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▼もうすぐメルマガ800号なんだなぁ。よくまぁ800回も出したものだ。800回記念に、何か企画しようかな。うーん、何だろう。よく分からないけど。800回記念に、希望者にはメルマガのもとになった800回分の原稿を・・・って、要らないよね。もらっても、ね。
▼録音説教を希望者全員に無料で・・・というのはちょっと奮発しすぎなので、材料費とCD製作費で2千円いただいて提供するか。でも以前この手の企画をしたような気もするので、以前の録音説教を持っている人には2重になってメリットがない。
▼あー、悩ましい。どこかで同様の企画を打ったような気もするが、忘れてしまった。歳を取ると簡単に忘れてしまうので恐ろしい。でも思い出せないのも悔しいから調べてみたら368号でCD3枚に収めて用意したようだ。その当時は800円で用意したようだ。
▼するとおおよそそれ以降の分をCDに焼いて提供するなら、1000円で提供できそうである。もし説教の録音CDに興味があれば、郵便番号、住所、氏名を書いたメモと、82円切手12枚(984円)を同封して中田神父のところまで連絡(メール)ください。中田神父の住所は「〒853-3102 長崎県南松浦郡新上五島町岩瀬浦郷724番地 カトリック浜串教会」です。
▼大人げない、ばかばかしい話。車を運転中に2度、バカなことをした。1度はヤクルトを飲んでいて、途中でごみ箱を見つけたので車から投げ入れようと思い、手探りで車の窓の開閉スイッチを触り、窓が開いたと思ったのでヤクルトの空容器を投げた。するとごみ箱はおろか、車の中でヤクルトの容器が跳ね返り、ヤクルトの飲み残しが飛び散ってしまった。
▼窓を確認してみると助手席の窓のつもりが後部座席の窓を開いていた。腹が立ったが、自分の愚かさにも腹が立った。ごみをごみ箱に捨てたいなら、ちゃんと車を降りてごみ箱に捨てに行くべきである。
▼もう1度は、お告げのマリア修道会が関わっている「児童養護施設」のバザーの帰りのこと。おいしそうなたこ焼きを見つけ、お昼のつもりで買って帰った。10個入り200円。良心的な値段である。ところが浜串に帰ってから食べるつもりがお腹が空いて、車の中で手を出してしまった。
▼最初は問題なかったのだが、山道をくねくね走っているうちになんとたこ焼きを入れたパックが横転し、たこ焼きが助手席から床にダイブしてしまった。その時点で3分の2は食べてはいたが、何個か無駄になったし、車の中は信じられない異様なにおいが充満し、本当に自分で自分が腹立たしかった。食べ物は決して車の中で食べるべきではない。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===