待降節第3主日(ルカ3:10-18)

「群衆は、『では、わたしたちはどうすればよいのですか』と尋ねた。ヨハネは、『下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ』と答えた。」(ルカ3・10-11)今日わたしたちは2つの意味で、「わたしたちはどうすればよいのですか」と声を上げる必要があります。

1つは、「この待降節中に、わたしたちはどうすればよいのですか」ということであり、もう1つは、「いつくしみの特別聖年が始まりました。わたしたちはどうすればよいのですか」ということです。

ただし、答えを2つ探す必要はないと思います。今年の待降節中に、「いつくしみの特別聖年」が開年したのですから、わたしたちはただ1つの答えを見つけ出せばよいのではないでしょうか。

「わたしたちはどうすればよいのですか。」洗礼者ヨハネが「群衆・徴税人・兵士」という3つのグループに勧めを与えたように、わたしも今ここで、3つの例を示したいと思います。まずその前に、洗礼者ヨハネが示した3つの勧めをおさらいしましょう。

ヨハネが示した勧めは、どれも「悔い改めにふさわしい実を結べ」という共通の目標を形にしたものです。そして3つのグループを「一般の人々」「特殊な任務にある人々」「一般の人々にも特殊な任務の人々にも安心安全な生活を保障する任務にある人々」と考えるなら、そのままわたしたちにも当てはまってきます。

ではわたしたちの共通の目標とは何でしょうか。それは「いつくしみの特別聖年」のモットーである「御父のようにいつくしみ深くなりなさい」です。このモットーを、3つのグループ「一般の人々」「特殊な任務にある人々」「一般の人々にも特殊な任務の人々にも安心安全な生活を保障する任務にある人々」に当てはめてみたいのです。

ところで、モットーの「御父のようにいつくしみ深くなりなさい」ですが、御父はどれほどいつくしみ深い方なのでしょうか。それは、御自分の独り子を、人類に渡されるほどです。しかも二度もです。一度目は誕生の神秘において、二度目は十字架上の神秘においてです。

わたしたちが信じる神は全能ですから、不可能などありませんが、ただ一つ人間の心情で考えた時、わが子を明け渡すこと、これだけは不可能なことではないでしょうか。それを父なる神は二度も、最終的には十字架上で明け渡してくださったのです。この「あわれみの神秘」によって、神の全能が示されました。

ですから「御父のようにいつくしみ深くなりなさい」というのは、「全能の神が心を引き裂かれるほどの思いで示したいつくしみの模範に倣いなさい」ということではないでしょうか。この模範に倣うことがたやすくないことは、だれがどう考えても明らかです。

わたしたちが御父に倣っていつくしみを示そうとするとき、何の努力も骨折りもせずに果たせるなどと思ってはなりません。御父のいつくしみをその誕生の瞬間から示してくださったキリストは、温かい産着にくるまっていつくしみを示したのではありません。布切れに包まれ、飼い葉おけに寝かされた姿で示したのです。人類の罪を赦すといういつくしみを、華々しい舞台で示したのではなく、十字架の上で示したのです。「どんな困難にあっても、わたしたちは御父に倣っていつくしみを示します。」そういう覚悟が必要でしょう。

そこで3つのグループのためにいつくしみのわざの例を示したいと思います。一般信徒の皆さんは、自分を傷つけた相手をゆるすことで、いつくしみを示してください。「ゆるせないと思うことが幾度もあることでしょう。けれどもゆるしとは、心の平安を得るために、わたしたちの弱い手に与えられた道具なのです。」(「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」9)

一般に「シスターや修道士」と言われる奉献生活にある人々は、「特殊な任務にある人々」です。イエスの「わたしに従いなさい」とのみことばにより深くとどまる生き方です。期間中、奉献生活にある方々には、「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深い者となりなさい」(ルカ6・36)このみことばにじっくり耳を傾けてください。「いつくしみがもてるよう、神のことばをまずじっくりと聴かなければなりません。」(「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」13)

神のことばをじっくり聴くには、十分な沈黙の時間が必要です。与えられたみことばに対して、まるで氷山の沈んでいる部分のような、一見不釣り合いとも思える沈黙の時間が必要なのです。幸い奉献生活者には生活に適度な沈黙の時間が組まれているので、より一層神のことばに潜心することができます。

奉献生活者の沈黙の時間は、教会共同体を動かすエンジンです。沈黙の中で神のことばに照らされ、温められたエンジンはいつくしみを世に示す教会共同体の働きを力強く前に推し進めてくれます。これまで以上に、神のことばに温められ、その熱をさまざまな歯車に伝えてください。

司祭にも、「御父のようにいつくしみ深くなりなさい」との呼びかけに自らを差し出すまたとない機会が与えられました。それはゆるしの秘跡においてです。「聴罪司祭であることは、イエスと同じ使命に参与すること、そして、ゆるしを与え救いをもたらす神の愛が、途切れることなく続いていることを示す具体的なしるしとなる(からです。)」(「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」17)

司祭は、痛悔者それぞれの心の中にある、救いを求める神への祈りと罪のゆるしの願いを、たちどころに理解する」(同17)者でなければなりません。「要するに聴罪司祭は、いつでも、どこでも、どんな状況でも、何があろうとも、いつくしみの第一のしるしであることを求められているのです。」(同17)

「わたしたちはどうすればよいのですか。」いつくしみの特別聖年期間中、一人ひとりが神のいつくしみを映し出す鏡になってください。イエス・キリストが御父のいつくしみのみ顔であったように、わたしたちも置かれた場所で、神のいつくしみを映し出す者となりたいと思います。

「あなたのいつくしみはどこから来るのですか。あなたはなぜ、何も当てにしないでいつくしみを示すことができるのですか。」もしこのように人々が問いかけてきたなら、あなたは最高に自分の使命を果たしている人です。そのとき人々は、あなたを通していつくしみ深い父を、またイエス・キリストを眺めることになるからです。

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ちょっとひとやすみ
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▼先週の「ちょっとひとやすみ」のお詫び。「放縦」が「放銃」と誤変換されていたという部分。「放銃」とは、わたしが考えていた意味ではなく、専門的な意味があるというご指摘をいただいた。これは失礼しました。誤変換された漢字が意味を持たない誤変換だったのか、意味のある誤変換なのかを今一度チェックする慎重さが必要だった。
▼わたしはGoogle Chromeというブラウザを使っている。好みの問題だが、FirefoxとInternetExplorerを使い比べて、Google Chromeに落ち着いた。だがこのブラウザでブックマークをそっくり失ってしまい、危うく気を失いそうになった。
▼発端は眠ったままのノートパソコンを試しにWindows10に更新しようとしたことからだった。いちばんサイズの小さなB5サイズのノートパソコン、標準的なA5ノートパソコン、さらに眠っていた旧型のデスクトップと、片っ端からOSのアップデートを行った。
▼トラブルの原因になったのはB5ノートだった。このノートパソコンもChromeがメインのブラウザになっているが、作業を終えて(と言っても結局Win10に更新するところまでいかなかったが)メインのデスクトップパソコンに戻ってみると、ブックマークが重複している。
▼どうやらB5ノートのブックマークが統合されて、二重になってしまっているらしい。そこで何となく片っ端からブックマークを削除してしまったのだが、途中で大切なブックマークも勢いで削ってしまった。買い物のサイトとか、ネットバンキングのサイトとかだ。
▼後先考えずに削ってしまい、どうやって元に戻せばよいのだろうかと目の前が真っ白に。ネット上の書き込みを見てみると復元できると書かれていたが、最初の方法は全く役に立たず。幸いにブックマーク情報を保管しているファイルをあるサイトでhtml形式に変換し、Chromeにインポートしたところ、何とか元に戻って胸をなでおろした。
▼今回のメルマガで通算800号。368号でCD3枚に収めて用意したようだ。おおよそそれ以降の分をCDに焼いて提供するなら、1000円で提供できそうである。もし説教の録音CDに興味があれば、郵便番号、住所、氏名を書いたメモと、82円切手12枚(984円)を同封して中田神父のところまで連絡(メール)を。中田神父の住所は「〒853-3102 長崎県南松浦郡新上五島町岩瀬浦郷724番地 カトリック浜串教会」。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===