年間第15主日(マルコ6:7-13)

「(イエスは)十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。」(6・7)今週の福音朗読の最初の部分です。イエスが弟子たちを二人一組にして派遣する様子をあれこれ思い巡らしてみました。わたしなりに考えたことを、皆さんと今週分かち合いたいと思います。

まず、二人一組にして送り出すことにした理由を考えてみました。一人で出かけて行きなさいと命ずることもできたはずです。テレビの旅番組でも、その土地土地を一人でぶらり旅する番組は成り立ちます。自分一人の力で必要なことに対処しながら、いろんなことを吸収することも可能でしょう。

けれどもイエスは、あくまで二人一組での宣教を考えていたようです。きっと、一人で出かけるよりもはるかに良い面があると考えていたのでしょう。わたしなりにそれを考えると、二人で力を合わせることは、効果的に、効率よく働くことに貢献するのだと思います。

二人いますから、そこには話し合いが当然生まれるでしょう。どのような方針で活動していこうか。二人の役割分担はどのようにしようか。日常の細々したことはどのように分担するか。こうしたことを最初に話し合うかも知れません。

また、二人一緒にいるのですから、二人とも同じ事をしなくてもよいわけです。つまり、二人とも街角に出て話し掛けをしなくても、一方が街角で話し、他方は人が集まりやすい他の場所を探しに行くということも考えられます。あるいは、街角で一方が話し掛けるのを他方がみんなと一緒に聞いてみて、もっと工夫できることや、良かった点を見つけてもらうということもできます。

二人でいれば、二人ともいつも元気はつらつというわけにもいかないでしょう。一方が疲れて意欲を失いかけたりするときに、他方が励ますこともできますし、もし一方が倒れてしまったときにも、他方が助けてあげることもできます。どちらかが弱っているときには、二人一組で出掛けていることは大きな慰めになることでしょう。

福岡の大神学院時代のことを思い出しました。2年間、二人部屋で勉強しました。福岡の大神学院には8年間お世話になりましたが、最初の2年間は大部屋で共同生活していました。3年目と4年目が、二人部屋の生活でした。3年目は同級生、4年目別の同級生と暮らしました。

うまく説明できるか分かりませんが、一つの部屋を二人で分けています。朝起きるときから、夜寝るときまで、授業の教室に行くときや、祈りのために聖堂に入るとき、食事のために食堂に行くとき以外は、一緒に暮らしているわけです。

わたしが相部屋だった二人は、それぞれ福岡教区と大分教区で司祭になっています。今ふり返ると、わたしはルームメイトとして、どんな風に受け止められていたのだろうかととても気になります。わたしが勉強しているとき、反対に勉強していないとき、わたしが休憩したり、ゴロゴロ横になっていたり、勉強以外の過ごし方をしているとき、相方の人はどう思っていただろうか。考えてみると今の今まで全くふり返ったことがありませんでした。

相手にとって、やる気を起こさせる存在になっていただろうか。大きなストレスを与える存在だったのではないだろうか。今考えてみるとそんなことも気にしないで当時過ごしていたとしたら、相手にとって相当わがまま勝手で人のことも気にしない奴だと思われていたかもしれません。申し訳なかったなぁという気がしてきました。

わたし自身ふり返ってそのようなことを感じましたが、イエスが一組にしたコンビというのは、どんな組み合わせだったのでしょうか。わたしだったら、どういう組み合わせにするだろうか。まずはそのことを考えてみました。

わたしだったら、当然「気の合う人を二人一組にする」ことを考えるでしょう。そのほうが、互いの力を引き出す刺激になるだろうと思うからです。けれども、もう少し考えると、別の方法もあることが分かります。つまり、「正反対の者同士を組み合わせる」という方法もあります。

お互い水と油、一生懸命努力するタイプと、努力しているのを表に出したがらないタイプがいます。汗をかいて努力するのが格好悪いと思っている人と、汗水流して努力することが尊いと思っている人が一緒になると、おそらく最初はうまくいかないだろうと思うのです。

または、せっかちな人とのんびりした人を組み合わせても、予想外のことが起こることでしょう。さらに正反対は、性格や気質だけではありません。若手と年長者を組み合わせると、若手に刺激されて年長者が力を出します。年長者の知恵を若手が学びます。そのような正反対も、弟子の組み合わせにはあったかも知れません。

けれども、イエスから派遣された弟子たちの目的は皆同じです。「出掛けていって悔い改めのための宣教をすること」この一点です。正反対の二人を組にして派遣した班があったとしたら、最初は意見が合わずに対立しても、きっと折り合いをつけて、気の合う組み合わせの班よりももっと努力をしてくれるかも知れません。

エスは、ご自分の考えのもとに、二人一組のいろんな組み合わせを考えられたのだろうなぁと思います。6通りの組み合わせが出来上がったわけですが、その6組はイエスに対して直接間接のいろんな収穫をもたらしてくれたのではないでしょうか。十二人の弟子の中には、二組の兄弟も含まれていました。兄弟で二人一組だったのか、それとも別の人と組み合わせたのかなど、誰と誰をコンビに指名したのか、とても興味深いなぁと思いました。

最後に、わたしたちのことを考えてみましょう。わたしたちもある意味で、この社会に対して神から派遣された人間です。ある時代に、ある地域で、ある一定の条件の下に生きています。一人で生きていると思っている人もいるかも知れませんが、いろんな組み合わせのもとにわたしたちは置かれているのではないでしょうか。

夫婦として、二人一組の生き方を与えられた人もいるかも知れません。あるいはずっと関わる家族の中で、組み合わせを与えられた人もいるかも知れません。また、一生涯同じ生き方をする人たちは、その生き方の中での組み合わせに置かれていると言えます。いくらどのように考えても、自分は一人きりだと感じる人であっても、その人は、イエス・キリストと二人一組で、社会の中に遣わされているのです。

自分が置かれている二人一組の組み合わせの中で、わたしはどんな役割を果たしているでしょうか。あるいは、どんなことで力になれずにいるでしょうか。相方がいることを、どれくらい意識しているでしょうか。相方がどう思っているか、ときどき考えることはあるでしょうか。

福音朗読のちょっとした部分を拾っての分かち合いでしたが、わたしたちがあらためて考え直すような材料が見つかったなら幸いです。ぜひ、神さまの練りに練られた二人一組の生き方を、十分に思い巡らして、新たな気持ちでこれからの生活に入ることにいたしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼馬込小教区は3つの教会から成っている。伊王島に馬込教会と大明寺教会、船で渡って高島に高島教会。高島には、夏期間(復活後から11月第1日曜日まで)は土曜日の午後、島に渡って夕方に「主日前晩のミサ」を捧げて帰ってくる。冬期間は、日曜日の大明寺・馬込教会のミサを捧げたあとに船に乗って午前10時にミサとなる。
▼現在夏期間で、土曜日に前晩てのミサとなる。説教もこの時点までに出来上がっていなければならないが、なかなか簡単ではない。土曜日午前中も伊王島でまだまとまらないまま、試行錯誤のまま船に乗り、高島でミサまでの2時間に最終的に形を整えることになる。ほとんどの場合高島で原稿は完成し、高島のミサが最初の説教となる。
▼原稿はUSBメモリーに納めて、持ち帰り、夜には配信作業に移る。ところがときおり問題が発生する。高島に渡った時点で、USBメモリーを持ち込んでいなければ持ち帰ることができない。原稿は高島でプリントするから紙の原稿は残るけれども、こういう日は伊王島に戻ってからもう一度原稿を打ち直すことになる。
▼今週まさに、USBを忘れてしまい、原稿を打ち直さなければ・・・と思っていた。どうにかできないものか。打ち直しはものすごく疲れる。一体どういう方法が・・・と考えていたら、たまたま高島に未使用のCD-Rがあり、今週の原稿たった1つのためにCD-Rを制作し、持ち帰った。背に腹は代えられない。
▼高島教会ではインターネットが接続されていない。だからファイルを伊王島に転送することもできない。不便と言えば不便だが、不便な環境も快適と感じることもある。高島に来てまで現代文明の洪水に飲み込まれる必要は感じない。いよいよになれば、データを持ち帰る何かの方法は見つかるものだ。最悪でも、紙の原稿を持ち帰ることができる。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===