年間第16主日(マルコ6:30-34)

「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい。」(6・31)わたしは、このイエスの言葉が、弟子たちに対する深い思いやりとして映りました。何らかの形で人を雇っている立場にある人々にとって、示唆に富んだ態度だなぁと思ったのです。

エスが弟子たちに「休みなさい」と言っている今週の朗読箇所は、間違いなく何度も私の目に留まったはずです。聖書をぼちぼち読み続けている中でも、また福音書の学びの中でも、そして少なくとも、この箇所を日曜日の福音朗読で、読んでいたわけですが、主任司祭として人を雇ったり、協力者を自分で募る立場になるまで、弟子たちに配慮するイエスの姿はわたしの目の前を通り過ぎてしまっていたなぁと気づいたのです。

一歩目の気づきは確かにありましたが、今もって、わたしは雇っている人々にとって優れた雇い主ではないと思います。また、協力者を募って協力してもらっていますが、協力者に対して優れた上司ではないと痛感します。その原因は、人が人のために働いているということを、まだ十分に理解していないからです。

わたしも、2人の主任司祭のもとで教会の務めを学びました。協力者にどのように接するかも見て学びました。当時は20代後半からようやく30代に入るという本当に若い時期でしたので、人が人のもとで働いていることについてそれほど理解があったとは言えないと思います。

その一方で、ある部分では雇われている身でもあります。主任司祭ではあっても、任地を決めるのは常に大司教さまです。大司教さまの任命を受けて、任命された場所で務めを果たしていきます。その意味では、雇われている人の気持ちも前よりは考えるようになりましたし、大司教さまがどんな気持ちで任地を決めて、わたしたちを働かせているのかなぁということも考えるようになりました。

そこであらためて、イエスが弟子たちにかけた言葉を思い返すのです。「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい。」わたしは、イエスのような配慮を、雇っている人に持っているのだろうか。協力を仰いでいる人に、イエスのような温かい思いやりを掛けているのだろうか。むしろ配慮にも、思いやりにも、足りない面があるのではないかと思うことばかりです。

エスが弟子たちに言われた「休みなさい」という勧めには、どんな思いが込められていたのでしょうか。イエスは、この場合の「休む」ということを、どのように捉えておられたのでしょうか。まず考えたのは、「次に働くために、十分に準備する」ということです。

エスは弟子たちを休ませましたが、それは弟子たちが休みの中でしっかり充電して、次の働きのために備えさせるためです。弟子たちが休みのあとに期待されていることははっきりしています。「新たな場所への派遣」です。次の任務に向かう時に、十分に務めを果たすことができるように、今休ませるです。

この点を、自分がイエスに成り代わってできているだろうかと考えました。雇っている人は、これからも教会のために雇ってもらいたいと希望して今雇われているだろうか。それとも、他によい条件がなくて、教会の仕事をつなぎでしているでしょうか。できれば、教会のために働きたいという気持ちになってもらえるよう、育ててあげる必要があります。

また、休みは本来の仕事を見つめ直す大切な時間にもなります。休みのための時間を「レクレーション」と言ったりしますが、この言葉のもとの意味は、「再び・造り上げる」ということです。本来の仕事への姿勢を取り戻すために、休むのです。休みは与えない、働けるだけ働かせる。そんな厳しい雇い主になっていないだろうか。すごく考えさせられました。

子どもたち、また学生たちは、夏休みに入りました。夏休みも、今日のイエスの呼びかけを当てはめて考えることができます。「この夏休み、しばらく休みなさい。」自動的にやってきた休みと取るのではなく、イエスが、休みなさいと言っているのだと考えるわけです。そのことで、休みは次の学期への準備を意識させてくれるし、本来の姿にどのような姿勢で臨むべきかを考えさせてくれるものになるはずです。

思えば、わたしの主任神父さまになってくれた2人の神父さまは、次によく働くために休みを取るということを上手に実行していたと思います。それは先輩主任神父さま自身のためだけではなくて、わたしたち後輩にも、何かの手本を残そうとして実践しておられたのではないかなと感じました。

エスは弟子たちにはしっかりした休みを取らせつつ、押し寄せてくる群衆には「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」(6・34)となっています。責任者が、態度で弟子たちを教え育てています。しっかり休んだら、わたしがしていることをあなたがたもしなさい。導きが必要な人々がまだまだたくさんいるから、いろいろと教えてあげなさい。そんなふうに、イエスはご自分の働きぶりで教えてくださっています。

わたしたちは皆、イエスから「休みなさい」と声をかけてもらう必要があると思います。イエスがわたしたちにくださる休みの中で、わたしたちは次に備える時間を持ちます。イエスが用意した場所で休むなら、その休みは本来の姿にどのように向き合うべきかを考える良い機会になるはずです。

もっと、雇われている人の気持ちを考えて、「休みなさい」と声を掛けてあげられる人でありたいと思いました。そして、休みから帰ってきたら、また気持ちを込めて働く人へと育ててあげる必要もあると感じました。イエスの一つの呼びかけにヒントを得て、求められている姿に自分を向けていきたいと強く願った福音朗読となりました。

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ちょっとひとやすみ
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▼ことしもミッション系の大学の授業を1コマこなしてきた。命についての授業で、ひとことで言うなら、「命を、与えられたものとして考えてみましょう。そこから命の大切さが見えてきます」ということになる。「与えられた」とやんわり言ったが、はっきり言うと「神から与えられた」ということである。
▼わたしたちは与えられたものを大切に扱うことを知っている。贈り物を贈り主がガッカリするような扱い方をしたりはしない。図書館から借りてきた本を、もとの状態よりも劣る状態にして返したりはしない。そうした経験から、「わたしの子供をわたしの好きなようにして何が悪いのですか」とは言わない。目の前にいる子供は、両親の持ち物ではなく、神から、両親に与えられ、託された命なのである。
▼「生きているだけですばらしいんだよ」と人は言う。なぜそうなのか。「与えられた命だから」だと言いたい。与え主が、考えに考え抜いて、与えてくれた一度限りの人生・命なので、価値があり、尊いのだと。そのことを考える機会に恵まれなければ、「生きているだけですばらしいだろうか。生きているだけでは意味がないのではないか」ということになってしまう。
▼今日、N教会とI教会の子供たちが1日黙想会のために伊王島に来てくれた。歳のせいか、かわいいなぁと目を細めてしまった。生きているだけですばらしいと説明抜きで言える命がそこには輝いていた。子供のミサなのに、調子に乗って(興奮してしまってかも知れない)15分以上も説教してしまい、「長すぎる」と酷評を受けてしまった。だってかわいかったんだも〜ん。
▼命を大切に。目の前にいる小さな命を見て、命を大切にとあらためて考える必要などどこにもない。少なくともわたしはそう思うが、そうでない環境もあるらしい。親が子の命に手を掛け、子が親の命を奪う。命の大切さを問い直さなければ、命の大切さに気づくことができない時代に入ったのかも知れない。いや、入ったのである。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===