年間第15主日(マルコ6:7-13)

「(イエスは)十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。」(6・7)イエスが十二人を派遣します。十二人から始まった宣教活動が、今どのように広がっているのかを考えることにしましょう。

先週の浜串教会での霊名のお祝いに釣り道具の鯛ラバを花かごと一緒にいただきました。釣りの師匠が無垢のオモリに塗装を施し、経験から選んだラバーを組み合わせた手作りでした。広報部長から、「この道具で釣れたら必ず報告してください」とお願いされていました。

わたしも、釣れたら写真でも貼ろうと思っていたのですが、いざ使ってみると写真を撮る暇もないほどに釣れて、いまだに写真を撮れていません。この前も、台風がそろそろ近づこうとしていた7月2週目に、鯛を2枚釣り上げました。

さてイエスは十二人を呼び寄せました。イエスを取り囲む人々はもっとたくさんいたことでしょう。十二人が呼び寄せられている様子、それだけでも、すごい力だと思います。自分自身のことを考えると、十二人はおろか、一人呼び寄せることすら難しいと感じるからです。

エスが十二人呼び寄せたとありますが、十二という数字はどのような意味があるのでしょうか。この数字は旧約聖書に由来する数字です。アブラハムは神から多くの子孫を与えると約束されましたが、それは後にイスラエルと呼ばれるようになる孫のヤコブの時代に実現しました。

ヤコブの息子たちの中にヨセフという名の息子がいました。ヨセフには兄たちが十人、弟が一人いました。ヨセフは後に神の不思議な導きによりエジプトで国王に次ぐ地位に就き、父親のヨセフと十一人の兄弟をエジプトに呼び寄せ、末永く幸せに暮らせるように計らいます。

ヨセフの物語を詳しく話す時間はありませんが、ヤコブの子供たちが十二人いて、拡大していくイスラエルの部族はヤコブの十二人の息子たちの名を持つ十二部族となっていきます。イエスはこのイスラエル十二部族を念頭に置いて、「新しいイスラエル十二部族」とでも呼べるような神の民を呼び集めるために、弟子の中から十二人を選んだわけです。

ここでもう一つ考える必要があります。イエスが十二人を呼び寄せた時点で、呼ばれた弟子たちも「わたしたち十二人は、イスラエルの十二部族を念頭に置いている」と理解したのでしょうか。

弟子たちは理解したと思います。イエスが考えていた「新しいイスラエル」という役割までは理解しなかったとしても、「なぜ十二人なのだろうか」という思いはすぐ聖書の物語を連想させたでしょう。彼らにもある程度聖書の知識があったでしょうから、自分たちがイスラエル十二部族になぞらえて十二人選ばれたということは感じていたと思います。

エスは弟子たちの理解をさらに推し進め、「選ばれたあなたたちは新しいイスラエルの民であり、わたしの思いを出かけて行って届ける者となるのだ」このような指示を受け、派遣されていったのです。

エスが弟子たちを二人一組で派遣するとき、旅支度について厳しい制約を課しています。「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず」(6・8)とあります。「杖一本」しか、持ち物は許されていません。これは何を意味しているのでしょうか。

当然、持ち物に信頼をおかず、イエスにのみ信頼を置いて宣教せよという促しであることは想像できます。パンも、施しを受けるための袋も、お金も、宣教活動が軌道に乗れば、手に入れることになるでしょう。

ところで、「杖」はなぜ持たせたのでしょうか。一般的に、旅先で杖は身を守るのにとても重宝します。オオカミが近づくことがあるかもしれない、ヘビが道端にいるかもしれない。そういう悪路を旅するときに、履物を履き、杖を用意していることは人間の古くからの知恵でした。

もう一つ、わたしは別のことも考えました。イエスが派遣する弟子たちに持たせた杖は、イエスの権威を表す杖であったかもしれません。つまり派遣された弟子たちがすでにイエスの権威を委ねられた者だということを表す杖とも考えられます。するとこの杖だけは、旅先で棒切れを拾って杖にするわけにはいかないのです。

現代の教会でも、司教さまはミサの中で「バクルス」という名前の付いた杖を使用します。それはイエスから託された権威のしるしであり、神の民を教え導く杖なのです。派遣された弟子たちの杖も、現代の司教さまの杖も、イエスの教えが、イエスの導きが、もうここまで来ていますよというメッセージなのではないでしょうか。

弟子たちは履物を履き、杖一本を携えて派遣されていきました。わたしたちも、ミサのたびに「行きましょう。主の平和のうちに」という言葉で派遣されています。わたしたちはイエスから託された目に見える杖を持ちませんが、あたかも杖を託されたものであるかのように日々の生活に戻っていく必要があります。

日々の生活には好ましくない誘惑があり、あるときは信仰に反する暴力があり、それらに立ち向かい、戦う必要があります。その時に必要となるのはパンでも施しを受ける袋でもなく、お金でもないのです。神の望みに反する誘惑や暴力に対抗するのは、ミサによってイエスから託された「杖一本」なのです。

エスはミサの中で、どのように「杖一本」を託されるのでしょうか。イエスはみことばと、聖体によって皆さんに「杖一本」を託しておられます。あなたの一週間を支える御言葉が必ずあります。あなたの一週間を、聖体が支えます。イエスしか授けることのできない「杖一本」を、今週も受け取って、生活に派遣されていきましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼スキージャンプのテレマーク。わたしはこれは男性が考えた悪しきルールだと勝手に思っている。というのは、スキーのジャンプ選手が着地するときに要求されているテレマークに、着地を安全にするためとか、そういう合理性は感じられないからだ。
▼さてなぜ着地の時のテレマークが悪しきルールだと切り捨てているかというと、安全のためにとっているポーズではないとすれば、これはもう難しい着地をあえてしているとしか考えられない。なぜ難しいことを選ぶのか。それには理由がある。
▼男性はしばしば、より難しい方法を好み、それを恰好良いと考えがちである。わたしはそれを釣りの時に感じた。この一年ずっと鯛ラバで釣りをしてきた。初めは簡単に鯛が釣れるからという理由だった。だが簡単に釣れ始めると、それに飽き足らなくなる。
▼鯛ラバを操作する道具の定番は、「ベイトリールと対応するロッド」である。たしかにこれが鯛ラバには最も適していると思う。だが男性という生き物は愚かというか変わっている生き物で、最も適しているものが何かを理解していてもあえて違うことをしようとするのである。
▼わたしはあるときから「ベイトリールと対応するロッド」というタックルでの釣りをしなくなった。代わりに「スピニングリールと対応するロッド」で鯛ラバを操作し、釣っている。まれに「ベイトリールと対応するロッド」も持ち込み、それで鯛を釣ることもあるが、簡単に釣れてしまい、面白くなくなったのである。
▼しかし今は、少し難易度が上がる「スピニングリールと対応するロッド」の組み合わせにも飽き足らなくなってきた。こんなことを言うと「調子に乗りすぎ」と言われそうだが、「スピニングリールと対応するロッド」のタックルでも簡単に釣れるようになってきたのである。
▼「簡単に釣れればそれで良いではないか」と言われるかもしれない。そこは、男性と女性とでは違いがあると思う。男性は、簡単な方法に次第に飽きて、より難しい方法で達成できないかを探すのである。そしてわたしは、より難易度の高い鯛の釣り方にたどり着き、今その方法で達成感・満足感を追い求めている。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===