年間第29主日(マタイ22:15-21)

すでにご覧になった方もいらっしゃるかも知れません。ちょっと派手なバイクを手に入れまして、これから乗り回そうと思っています。以前乗っていたものは廃車にしまして、今度は乗りやすいものに変えました。

フェリーで運び込みましたが、出発の20分前には待機していないといけないのに、出発10分前になってターミナルに帰ってきてみると、係の人がわたしを手招きでせかしていました。さらに都合の悪いことに、大波止ターミナルの館内放送で、「バイクでご出発のナカダコウジさま、バイクでご出発のナカダコウジさま、至急バイクにお戻りください。」と放送しているではないですか。ターミナルの中も外も、スピーカーで声が響いていました。きっと、わたしの名前を知っている人もいたでしょうから、えらい恥をかきました。

今週は「皇帝への税金」という問題を持ち込んで、ファリサイ派の人々がイエスを陥れようとする場面です。イエスは彼らの罠を見抜き、それ以上に大切なことにも目を向けさせるために、次のように答えました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(22・21)

このイエスの答えは、いろいろに説明できるようです。そのすべてをここで紹介はできませんが、可能な説明のうちの1つを参考に、話してみたいと思います。イエスは質問に答える前に、銀貨を見せなさいと願って、「これは、だれの肖像と銘か」(22・20)と確認しました。

「肖像」とは、「似姿」のことです。人間には、人としての似姿と、神の子としての似姿があると思います。ですから、人としての似姿がある以上、人間からの要求に応えなければなりません。ローマに税金を納めることを苦々しく思っていても、普段の生活ではその銀貨を使って買い物をすることを何とも思っていないのですから、皇帝が神とあがめられていたとしても、気にせず税金を納めれば良いではないかと仰ったのでした。

それよりも大事なことは、人間には神の子としての似姿があって、神の子として、神に果たすべき責任は果たしなさいというのがイエスの答えの中心です。イエスの答えは、「神のものは神に返しなさい。」こちらのほうに重きを置いているという解釈に、わたしも同じ意見です。

エスが「神のものは神に返しなさい。」と仰ったとき、ファリサイ派の人々はどう思ったのでしょうか。きっと、自分たちが神に返すべきものを返していないということにはっとさせられたのだと思います。宗教指導者でありながら、律法の解釈にばかり熱中して、本来神に返すべき「愛」を、なおざりにしていることに恥じ入ったはずです。

わたしたちも、今日のイエスファリサイ派のやりとりを、自分のこととして考えてみましょう。わたしたちが生きている社会で、社会人として果たすべきことはほぼ果たしていると思います。しかし、神の似姿として、わたしたちが果たすべきことが、きちんと果たされているでしょうか。

そこで、神の似姿が刻まれているわたしたちは、何が神のものなのかを見極めておく必要があります。すると、神に返すべきものも見えてくるはずです。まず、わたしたちが神に祈るきっかけを思い起こしましょう。わたしたちが今朝目を覚ましたということ、これは十分に神に祈るきっかけとなる出来事です。

わたしたちは自分で自分に今日を与えることができません。それは神が与えてくださるものです。神が与えてくださらなければ、わたしたちは今日を迎えられないのです。すると、今日という日は、神のものであって、本来わたしのものではないのです。与えていただいた1日を感謝するために、神のものである1日に感謝するために、時間をちょっと作って祈る、神に返すことはごく自然なことではないでしょうか。

次に、神のために働くということを考えてみましょう。わたしたちが現在手に入れている地位とか、安定した暮らしとか、ほとんどはわたしたちの手で、努力して手に入れたものだと思います。ただ、今日まで働き続けることができたことや、今日までの暮らしをだれにも妨げられずに楽しむことができたのは、もとはといえば神の保護があったから、神の見守りがあったからではないでしょうか。

そうであれば、わたしたちは、今日までの暮らしに感謝して、神のために何かをしてお返しすべきだと思います。神のために働くべきだと思います。もちろん多くの人が、神のために何かをしてくださっているのですが、家族全員で、小教区全体で、地区全体で、教区全体で、神のために何かをして働いているでしょうか。

そこにさらに、「神のものを一切合切神にお返しする」そういう生き方があっても良いと思います。わたしたち家族が皆、神のためにすべてをかけてお返しすることはできないけれども、家族の中から1人、神にすべてをかけてお返しする人を準備します。小教区がすべてをかけてお返しできないけれども、小教区から1人、神にすべてをかけてお返しする人を準備します。そういう生き方があっても良いと思うのです。

エスは今のわたしたちにも、「神のものは神に返しなさい」と呼びかけていると思います。わたしたちが寛大に、「もともとすべてが神のものなのだから、神にお返ししましょう」と気持ちを切り替えてみる。そんなチャンスをいただけるように、ミサの中で祈ることにしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼嵐のような一週間だった。11日、バイクをデポに受け取りに行って、教区本部で保健指導、午後はマリア文庫の定例会議。12日、教区ホームページ会議とよきおとずれ割り付け準備会議。午後はバイクで伊王島にお忍びでツーリング。16日(日)に馬込教会の行事があることを聞きつけたが、案内も何もなかったので動けず。残念無念。
▼13日、バイクを連れていったん五島に帰る。フェリー積み込みが20分前からなのに、食事で時間を取られて遅れて待機場所に行ってみると、係の人から「早くしろ!」という手招き。さらに、大波止ターミナルの館内放送は、「バイクでご乗船のナカダコウジさま、至急バイクのほうにお戻りください。バイクでご乗船のナカダコウジさま・・・」と放送され、恥ずかしい思いをした。
▼五島に帰ると、夕方の福見ミサと子どもの要理、さらに教区報よきおとずれの原稿を1つ書く。日曜日の説教も書きたかったが、疲れて着替えもせずに畳の上で大の字。気がついたら14日朝で、朝ミサを済ませてまた長崎へ。船の時間まで説教を書く。
▼だいたいメドがついたので、午後の教区報よきおとずれの割り付け会議が終わって五島に帰ってからミニバレーに参加したあとメルマガ発行をしようと考えていたら、14時45分に15時45分のジェットフォイルの欠航が決まり、五島に帰れなくなってしまった。
▼五島に日帰りできないとなると、今度は予定が変わったことをいろんなところに連絡する必要が出てくる。まず船会社に、帰りの切符を変更する電話。帰ってから作り置きの夕食を食べる予定だったので、夕食のお断りの電話。翌日朝、ミサができないのでミサが休みになることを漁協の放送で流してもらうための電話。修道院へも電話(しなかったけど)。
▼おまけに、15日(土)からカトリック神学院1日体験入学に参加を予定していた子どもの1人が吐き気の症状があり、休ませてほしいとの連絡あり。それで、同行してくれる大人の信徒に、「1人不参加が出たので2人だけ連れて行ってほしい」と連絡。すると同行する大人から、「子どもの船の予約は、こちらでキャンセルしておきます」という連絡。あー、その連絡もしなければならなかったのだった。気が利くなぁ。
▼さらにさらに。15日(土)は、実は地域のミニバレー大会に参加予定だったので、参加できなくなった旨の連絡。メンバーからは「できれば帰ってきてほしいなぁ」と言われたが、こればかりは何とも。これから、日曜日のミサの時のお知らせを作らなきゃ。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===