十字架称賛(ヨハネ3:13-17)

今週は9月14日の「十字架称賛の祝日」が日曜日と重なったため優先して祝っています。イエス・キリストの祝祭日と、その他の重要な祝祭日の場合は、日曜日であっても優先されることになっています。聖人の記念日ではほとんど日曜日のほうが優先され、その年の典礼暦から消えてお休みになります。ただし、ある場合は日曜日に重なってしまう祝日を、月曜日に繰り越して祝うこともあります。

わたしは、十字架称賛の祝日で忘れられない思い出があります。前任地の伊王島で、「遠見岳(「遠く」を「見る」と書きます)」と呼ばれる山の頂上にある個人の土地に、馬込教会信徒の力を借りて十字架を建ててもらい、祝福したのです。浦上教会に所属する辻地区にも、十字架山と呼ばれる場所がありますが、同じような場所を伊王島に設置することができて、深い喜びを味わったのでした。

当時は、遠見山の頂上まで登る山道は大変険しく、人通りも少なかったのです。けれども十字架を設置しようという計画が本決まりになったことで、滑りやすかった山道は歩きやすくなり、周囲の草払いも進み、立派な十字架も信徒の協力で制作され、十字架称賛の祝日に合わせて土地と十字架を祝福したのでした。

十字架を設置した当初は、長崎の大波止伊王島港の間を船で行き来するときに遠見岳頂上に十字架が見えて、たいへん誇らしかったのを覚えています。もし、馬込教会の信徒がこの説教をメルマガかブログで読まれたら、今の様子を聞かせてほしいなぁと思っています。

さて、十字架称賛の祝日にあたり、福音の学びを「十字架を背負って、生き方でイエスを称える」としたいと思います。十字架称賛の祝日は、イエスが磔にされた十字架を思う日ですが、それは当然、十字架上で最期を遂げられたイエスの生き方を思う日でもあります。

選ばれた朗読個所の「天から下って来た者」(3・13)に目を向けてみました。十字架の姿と重ね合わせて考えることができると思います。十字架が、地面にしっかり立つためには、十字架の縦の木が地面に深く下ろされる必要があります。ただ単に十字架を立てるわけではなく、人が磔にされた上でしっかり立つためには、深く穴を掘り、地面に埋める必要があるからです。

エスは、ご自身が言われている通り「天から下って来た者」です。天から下って、人となられ、この世界に深く根を下ろしました。仮住まいではなく、完全な人として、人間が体験するすべてを体験されたのです。この、世界に深く根を下ろした姿が、イエスのご生涯の始まり、出発点になります。

そしてイエスは、ご自分の使命を完成させます。「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得る」(3・15)という使命です。これは、十字架の横木に当たるのではないでしょうか。神が御子を世に遣わし、御子は天から下って来て、御自分を信じる者に永遠の命を得させてくださいました。しかもこの救いのわざは、十字架の上で完成されました。わたしたちはこの十字架を今日称えているのです。

エスの十字架を称えることは、十字架によってご自分の計画を完成されたイエスのご生涯を称えることでもあります。その生き方とは、この世に深く根を下ろし、御自分を信じる者に永遠の命を得させるという生き方でした。

そこでわたしたちも、イエスの生き方に倣い、この世に深く根を下ろし、イエスを信じるものに永遠の命を得させるための働きかけをしましょう。きっとわたしたちは、この世に深く根を下ろすことについては教会で何も言われなくても十分に実行できていると思います。それを、十字架の縦の木として、出会う人々にキリスト者としての証しをすれば、わたしたちが担う自分の十字架は完成です。

お一人お一人が根をおろしている場所は、一つとして同じ場所はないと思います。司祭は、ここに集まっているお一人お一人ともまた違った場所に根をおろしているわけです。

わたしが置かれている場所を痛感した出来事がありました。先週の月曜日、上五島地区の司祭たちと浦桑のお店で食事を共にしていました。わたしの携帯に、知らない電話番号で電話がかかり、ワイワイ騒いでいる中で電話を取ってみると、もうこれ以上生きていけないといった深刻な電話でした。決して死んではいけない、今日一日、明日一日がんばれば十分だからと返事をしました。

わたしの携帯電話の番号をどうやって知ったのか分かりません。教会の留守番電話には、緊急の時に携帯にかけるようにと番号が録音されているので、そこから知ったのかもしれません。けれども、ふだんの生活の中にあって、生きるか死ぬかの瀬戸際の電話がかかる。そういう場所に自分は根をおろしていることを痛感したのです。

エスは御自分の救いの計画を十字架の上で完成されました。わたしたちは、生き方でイエスの十字架を称えましょう。生活に深く根を下ろす中で、自分にできる証しをしましょう。証しを見た人が、証しの向こうにあるイエス・キリストに導かれるように、このミサの中で願い求めましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼同じことかもしれないが、一つのことを同じようにずっと続ける。それは忍耐力とか、力とかいろんな要素を必要とすると思う。人によってはそこから何かの自信を身につけ、ほかのことにも挑戦する力のもとになるかもしれない。
▼同じことを長く続けていると、ほんのわずかの変化でも気付くことがある。向き合っているこの人が今必要としているものは何か、この人にどんな声をかけてあげれば立ち直れるのか、必要なことに気づくことができるのか、何か感じるものがあって声をかける。
▼携帯電話の主は、誰だったのだろうか。残念ながら声では特定できなかったが、後で考えると「あの人だったのかな」と思う人が複数いる。だが、その時に頭に浮かばなかったので、悔いが残っている。
▼その後どうなったのだろうか。島内の人の場合、もっとできることがあったのではないか。島外の人であれば、また連絡しておいでとか、そういうフォローができたのではないか。この一週間、思い出したり忘れたりしながら時間を過ごしている。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===