四旬節第4主日(ヨハネ3:14-21)

今週の福音朗読箇所から説教を考えていて、ついこの前終了した黙想会の学びを、うまく福音のメッセージと結び付けて話したいなぁと思いました。そういうつもりで読み返していたら、次の箇所を取り上げるのがいいなぁと感じました。

17節です。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(3・17)世が救われるために、神は御子を遣わされた。世が救われるために、御子はそのすべてをささげました。イエスの地上での33年間の生活は、わたしたちだれもが人に語って聞かせることができます。

宿屋もないまま、幼子としておいでになり、ヘロデ王に命を狙われたりもしました。時が満ちて、ガリラヤで12人の弟子を選び、奇跡と権威ある教えで神の国を告げ知らせます。反対者の妬みによって不正な裁判にかけられ、十字架上で命をささげ、復活なさいました。出来事の1つ1つ、すべてが世が救われるためのものでした。

1つ1つを細かに見ていくことも必要ですが、一方でこのすべてのわざは人間をどこに向けようとしたものかも考えておくべきでしょう。それは、パウロの回心の話と結び付けるとこうなります。イエスは、人間が自分を中心にして生活する態度から、神を中心に据えて生活する態度にすっかり生まれ変わるように導いたということです。

パウロが、この導きによって救われたのでした。彼は自分の努力で積み上げてきたことを自慢しようと思えばいくらでも自慢できる人でした。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」

「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」(フィリピ3・5-8)

パウロが言うように、自分の努力とか、由緒正しい系図とか、誇らしく並べ立てていたものを中心に据えて生きていたけれども、キリストと出会い、キリストを中心に据えて生きるように変えられた時、これまで命の次に大切と思っていたものさえも損失と思えるようになったのです。

パウロを導いたように、イエスはすべての人を神であるイエス・キリストを中心に据えて生きる人に導こうとしました。当時の宗教指導者たち、障害を抱えた人たち、弱い立場に置かれていた人たち、男性と比べて社会的立場の弱かった女性、異邦人、ありとあらゆる人を、自分を中心に据えて生きる人ではなく、イエス・キリストを中心に据えて生きる人に導こうとしました。それが、イエスが地上の生活で成し遂げようとした導きだったのです。

ですから、はっきりしていることは、自分を中心に据えて生きる限り、人はだれも救いにたどり着けません。パウロの生き方がそのことを教えてくれます。パウロは、律法にだれよりも熱心に生きていました。だれよりも熱心に生きていたのです。

彼は、人間的に見ればだれよりも正しく生きようとしていた、正しい人だったのです。けれども、パウロの生き方をどれだけ追求しても、どの段階まで完成させたとしても、人はその努力によって救われないのです。

それはわたしたちも同じことです。どんなに厳密に天主の十戒を守り抜いても、起きている間のほとんどを熱心な祈りに費やしても、イエス・キリストがその人の中心にいなければ、あなたの努力が中心に据えられているならば、その生き方によって救われたりはしないのです。

だからこそ、こう書かれているのです。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」わたしたちが自分の努力を正義として神に申し上げても、それだけでは裁かれることになります。わたしたちが救われるためには、イエスが示した生き方にすっかり移っていかなければならないのです。

わたしたちはこの招きが本当に分かっているのでしょうか。パウロイエス・キリストに出会う前、自分の力では生き方を転換することはできませんでした。パウロほどの理解力がある人が、です。イエス・キリストに本来の人間のあるべき姿を示された瞬間にすべてを理解するほどの理解力の持ち主が、自分の力だけではイエスの示す生き方に自分を置くことができなかったのです。

わたしがここで言いたいのは、パウロさえも、自分の努力では生き方の大転換ができなかったのですから、わたしたちはなおさら、イエス・キリストの導きに頼って、自分の生き方を自己中心的な生き方からイエス・キリスト中心の生き方にしてもらう必要があるということです。

エスの引っ張る力、わたしを変えてくださる力に導かれなければ、わたしたちが変わることはできないということです。イエスの主導的な働きを認め、受け入れることで、初めてわたしたちの人生の大転換は可能になります。「世が救われるために」イエスは神中心の生き方に大転換するよう人類を導いたのです。

それも、イエスにしかできない方法で。ガリラヤ中を歩き巡り、エルサレムで逮捕され、十字架に付けられ、死んで、復活するという、イエスにしかできないユニークな方法で、わたしたちの生き方の大転換を先導してくれたのです。

あと2週間後には受難の主日(枝の主日)です。イエスが示そうとした人間の本来歩くべき正しい生き方を、イエスは十字架の上でお示しになります。黙想会を終えたわたしたちは、イエスが示した道を歩きましょう。それ以外の道、つまり、イエスを生き方の中心に置かない道は、救いから遠く離れていると心得ましょう。わたしたちは、わざわざ遠く離れている道を好んで選ぶ必要はないのですから。

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ちょっとひとやすみ
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▼一週間ぶっ通しで黙想会を組み、説教をした。聖パウロの回心について学び、わたしたちも変わりましょうというのが狙いだった。今週日曜日の晩から水曜日の昼まで、とある小教区に呼ばれ、黙想会の説教を引き受けている。これら一連の黙想会を通してわたしが実感したのは、だれよりも自分が変わらなければならないということと、ゆるしの秘跡の恵みはすばらしいということだった。
▼黙想会の初めの頃は、自分で説教している内容がまだ消化できてなくて、話ながら「何言ってるんだろう・・・」と自分を責めながら話していた。それが、2度、3度と話しているうちに「そうか、わたしが言いたかったのはこういうことだったのか」と自分で分かるようになってきた。パウロは自分中心の生き方から、イエス中心の生き方にすっかり転換した。それは、だれよりも先に、パウロの姿を示そうとしているわたしが変わらなければ伝わらないことである。
▼もう一つ、ゆるしの秘跡の中で、ゆるしの恵みが注がれているのを深く感じた。告白をしている信徒も恵みを受けるが、司祭も大きな恵みを受けるチャンスだということが今回分かった。告白をしている信徒は、自分がいやされている、ゆるされていることに深く心を動かされ、司祭は、イエスが司祭をもちいてこのゆるしの恵みを届けようとしていることに気づく。
▼告白に望む信徒は、さまざまな環境・境遇・信仰に対する視点があり、司祭はそれぞれの人に応じて同じ場所に立つ必要がある。罪と聞かれてミサに行かなかったことだけしか思い付かない人もいるし、自分の生き方が罪な生き方だったと気付く人もいる。それぞれの立っている場所に、司祭も立つ。そうして、どこへ歩いていくべきかを案内していく。すばらしい役割のために使ってもらっていることを今回あらためて感謝することができた。
▼黙想会とは関係ないが、黙想会の週に亡くなった高齢の女性の納骨に、たくさんの参列者が集まった。じつはこの女性のお姉さんも、5年前に亡くなり、この馬込教会墓地で眠っている。両方の親族が集まっていた。5年前に亡くなったお婆さんの子になる男性に、「2人とも長生きしたんだね〜」とねぎらった。するとその人がわたしに「しんぷー。お前も長生きせんばぞ」とボソッと言った。
▼口べたなそのお父さんの一言は、わたしの心に深く刻まれた。健康を心配し、長生きを願っている人がいるのだと、嬉しくて涙がこぼれそうだった。おしゃべりの百万言よりも口べたな人の一言が、多くを語ることもあるものである。そのお父さんはさりげなくわたしに長生きするように言ったのかも知れない。けれどもわたしは、それを何倍にも濃縮して理解した。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===