復活節第3主日(ルカ24:35-48)

月曜日にいつもの趣味ができないまま週末が来てしまい、せめて土曜日くらいは気晴らしを、と思っていたところをがまんして説教作りに時間を取ったにもかかわらず、どうしてもとっかかりが見つかりませんでした。そこで不本意ながら、6年前の説教を参考にさせてもらいたいと思います。

復活節第3主日は、長崎教区では1つの特別な意味を持つ日曜日です。毎年同じことが繰り返されているのですが、御復活の2週間後というのは、司祭の異動の日です。カトリック教報ですでに詳細は御覧になっていると思いますが、たくさんの小教区が異動になっていました。

目を引いたのは、今年は浦上教会、大浦教会、稲佐教会に勤めておられた司祭とカトリックセンターの司祭1人の合計4人が引退をされたことです。ここ数年、教区の重石となってくださっていた方々が次々と引退され、長崎教区のご意見番はこれから誰が背負ってくださるのだろうかと心配になります。教区も一つの組織ですから、「ご無理ごもっとも」「はいはいその通り」という方々ばかりでは心配になります。

今日、福音朗読の中でわたしの目に留まった箇所は、最後の部分です。「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」(24・45-48)

この箇所を取り上げたのは、イエスがご自身の復活を弟子たちに説明するのに、(聖書に)「次のように書いてある」と仰った点が、興味を引いたのです。イエスは復活の出来事を弟子たちに悟らせるために、聖書を引用したのです。

別に気になる点などないと思われるかもしれません。けれども、復活したイエスは目の前にいるのに、出来事を悟らせるのに聖書に頼って説明しているのです。手と足を見せるとか、焼いた魚一切れを弟子たちの前で食べるだけでは、弟子たちの心の目を開くには十分ではなかったということになります。

この問題を解決するには少し説明が必要だと思います。朗読された福音書はルカ福音書です。ルカ福音書の朗読に耳を傾けた人々は、ギリシャ語を話す人々で、ユダヤ教の教えを知らない異邦人でした。ルカ福音書の読者には、旧約聖書の予備知識は少なく、どんな小さなことでも聖書の知識から説明が必要でした。

ですから、イエスの復活を語るために、ルカは読者として念頭に置いていた異邦の民に分かるように説明をしなければなりません。そこでルカは、イエスが弟子たちに説明している場面を取り上げているにもかかわらず、聖書の説明を土台にして復活の出来事を悟らせようとしているイエスの姿を描いたのでした。

もう少し踏み込んで考えるなら、ルカ福音書の読者となっている人たちと時代も場所も離れ、文化や歴史の土台も根本から違っているわたしたちにもイエスの復活を悟らせるために、ルカは聖書に書かれていることを根拠にして、弟子たちに出来事を解き明かすイエスを描くのです。実にこの2000年代に生きているわたしたちのためでもあるのです。

このことから伝わってくるのは、イエスの復活は直接その時代に見た人たちだけが理解できるというものではなく、聖書を丹念に読み返すなら、聖霊に照らされて、あらゆる国、あらゆる時代の人々が理解できるものなのだよということです。イエスの復活は、聖書を丹念に開くなら、当時の人々と同じようにわたしたちも悟ることができる神秘なのだということです。

今週の朗読個所の狙いが理解できると、わたしたちにも大きな励ましが与えられます。どこかでわたしたちは、イエスの復活を当時の人々のように大胆に証言するのはちょっと難しいのではないかとひるんでいるのだと思います。ひるんでいるだけではなく、「わたしたちはその場にいなかったのだから、当時ほど宣教が成功しなくても仕方がないよ」と思っているのではないでしょうか。

その、ちょっとした「諦め」「後ろ向きな態度」に、ルカは釘を刺そうとしているかもしれません。「イエスの復活を今の時代に伝えるのは難しい。当然だとあなたは思っているのか。聖書に書いてあるではないか。聖書を丹念に読めば、今の時代でも十分に理解できる出来事ではないか。」今週の朗読はそんな励ましを与えてくれているなぁと思いました。

与えられた朗読個所に耳を傾けて、わたしたちには、受けた信仰をしっかりと生きて、告げ知らせる使命があることをあらためて確認しました。イエスは復活の出来事を目撃した人にも、聖書を解き明かして復活の出来事を説明しました。

わたしたちも、みことばの力に信頼して、勇気を持ってイエスの復活を告げ知らせる者になりたいと思います。イエスの復活を告げ知らせようとするわたしたちに、イエスはいつも心の目を開こうと働いてくださいます。

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ちょっとひとやすみ
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▼何をどう考えても、とっかかりが見つからないというのは本当につらい。準備が足りないからだと言われればそれまでだが、火曜日から何となく準備に取り掛かっていたにもかかわらず、それでも土曜日にまとまったものが用意できなかった。メルマガの読者にもお詫びしたい。
▼今年の司祭異動で引退される4人の司祭のうち、1人は小神学生時代にお世話になった大先輩である。わたしが司祭召命の道を外れ、自分の学力に天狗になって別の進路を探ろうとした高校三年生の時に導いてくださった。
▼話せば長くなるが、学校を3日欠席して郷里に帰り、神学校を退学して別の道を歩きたいと親を悲しませた。だが小教区の主任司祭も、神学校の校長も、さらには大神学院の郷里の先輩も、わたしのことを心配し、心から祈ってくれていたので考え直すことができた。
▼今になって思うと、明確な別の進路があったわけではなかったと思う。実際に神学校を退学していたら、もしかしたら後悔していたかもしれない。曲がりなりにもこうして20年以上司祭として歩んでいるのは、当時の校長先生を務めてくれた司祭のおかげである。
▼その大先輩が引退する。一時代の幕が下りるような気がする。教区にとってもご意見番のような存在であったので、これから誰が、教区のご意見番を果たしてくれるのだろうか。はたして教区長は、どのような意見に耳を傾けて今後のかじ取りをしてくださるのだろうか。
▼今年の人事異動を見ると、誰をそばに置こうとしているのかよくわかる。ぜひ、これからのかじ取りに、それらの諸先輩方が体を張って貢献してほしい。耳に優しいことばかりでなく、耳に痛いことも、時には体を張って届けてほしい。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===