復活節第4主日(ヨハネ10:1-10)

船舶免許が6月で期限切れになるため、先週5月8日に更新講習を受けに上五島備蓄記念会館に行きました。知らない人ばかりだとどうしようと思っていましたが、浜串のお父さんとか、高井旅のお父さんとかも一緒に来ていて、ちょっと安心しました。

講習を受ける前に、身体検査をすると聞かされていたのですが、実際には片目ずつ視力検査をするだけでした。こんな簡単な検査で、講習の時間黙って座っていれば、今後5年間の免許が与えられるというのは、ちょっと簡単すぎないかなぁと思ったりしました。

自動車の免許は、70歳を過ぎると特別な講習を受け、お年寄りであることを表すステッカーを貼り、いろいろ嫌な思いをしなければなりませんが、それに比べて船の免許は楽なものでした。けれどもそれもまた決まり事でしょうから、それを通って初めて、安心して船に乗ることができるようになります。

ただ、新しい免許が届くまで、5日間は免許なしの状態になりますというのは納得いきませんでした。それはわたしたちのせいではなく、あなたたちの不手際でしょうと食ってかかりたい気分でした。改善してほしいと思いました。気分は良くありませんが、これも通らなければならない門なのでしょう。ちなみに、土曜日になっても免許証届いていません。

今日の福音書には、羊飼いに導かれて、門を出入りする羊の姿が描かれています。まずは、決められた人の案内で、決められた門を出入りすることが、求められているわけです。聖書朗読に耳を傾け、「今もわたしたちを照らし、導くイエスが生きておられる」という体験を積もうと呼びかけました。今のところ、いろいろな都合で浜串教会しか実施できていません。残る2つの教会は、6月と9月、ミサの前に取り組む予定です。

さて、このイエスが導いてくださる羊の門を出入りする姿は、御言葉に導かれて日々の生活を送ることに通じると思います。羊は羊飼いの声を聞き分けます。わたしたちも、御言葉に十分親しむことで、羊飼いであるイエスの声を聞き分ける者となります。

羊飼いの声を十分知るようになると、わたしたちを呼び出すイエスの声には従い、ほかの声には決してついていかないように訓練されていきます。いろんな声に振り回されて、歩むべき道を見失うのではなく、どんな生き方の中でも、ただ1人の羊飼いであるイエスの声だけに、本当の導きを願う人に育っていくのです。そのためにも、「聖書朗読に耳を傾ける集い」に、たくさんの方が参加してくださることを願います。

「羊はその声を聞き分ける」ということで思い出したことがあります。皆さんは、「頭では分かっているけれども」とか、反対に「体が覚えていた」とか言うことがあると思います。わたしが以前助任司祭だった時、結婚した夫婦を通して、印象深い経験をしたことがあります。ご両親は当時教会の評議会で大きな働きをしていた方でしたが、この方の娘さんが結婚することになり、結婚講座が始まりました。

結婚相手はカトリック信者ではありませんでしたので、教会での結婚を結ぶためには、書類を調える必要がありました。カトリック信者の側が、カトリックの信仰を忠実に守り続けることと、生まれてくるすべての子供が、カトリック教会で洗礼を受け、信仰教育されるように最善の努力をすることです。

このときに問題が起こりました。カトリック信者である娘さんのほうが、「わたしは子供に洗礼を授ける気持ちはそれほどない」と言うのです。さらに結婚相手である男性も、「男の子が生まれたら、洗礼を授けるのは困る」と言いだしました。

カトリック信者でない男性側が、条件に納得できないと言う場面はよく聞きます。けれども、その男性に同調して、カトリック信者の女性まで、子どもに洗礼を授けるのに気乗りしないと言うのです。これには困りました。あれこれ説明して、不承不承同意したような感じで、結婚式をしたのを覚えています。

ところが、結婚後に事態は急展開します。子供を授かり、予想通り洗礼のことで揉めているという話が聞こえてきました。やっぱりか、と思ったのですが、よく話を聞くと、お母さんになった女性が、洗礼を授けると言って聞かないのだと言うのです。これには驚きました。

「体が覚えていることがある」と、先に話しましたが、これはまさに、「体に染み込んだイエスの声に、体が覚えていたイエスの声だけに、聞き従った」ということではないでしょうか。こんな、予想外の話は、いつでも歓迎したいですね。

「体が覚えている」というような体験は、どんな時に起こるのでしょうか。それは、やはり数え切れないほど繰り返し覚えたという経験からではないでしょうか。祈りにしてもそうですし、ミサの流れについてもそうです。そのような、「体が覚えている」と言えるほど、聖書の御言葉をたくさん聞く機会を、わたしたちはどこかで持つ必要があるのではないでしょうか。

聖書を持ち歩いて、真のイエスの声を語らず、異なるイエスの声を語り聞かせる人たちもいます。わたしたちは、ちゃんと見分けることができるでしょうか。ちゃんと聞きわけることができるでしょうか。

どうぞ、今回の「聖書朗読に耳を傾ける集い」を、神の言葉を浴びるほど聞くきっかけにしてください。朗読CDは、それぞれの教会に備品として残したいと思います。そうすることで、何人かの集まりで教会に来て、都合のいい時間にいつでも、いくらでも聞き続けることができます。最初のきっかけを用意しますので、ぜひ自分たちで活用してもらえたらと思います。

エスは、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」(10・10)と言います。御言葉をたくさん味わうことで、豊かな命をはぐくむことができるように、御言葉の力により頼むことにいたしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼最近たくさんの巡礼団が来て、浜串教会でミサをささげてくださっている。巡礼にやって来る方々は、長崎教区の場合「長崎巡礼センター」に問い合わせて巡礼の申し込みをする。巡礼センターは、行き先の教会と連絡を取り、巡礼ミサなど、時間に差し支えがないか確認してくれる。巡礼センターには細かい連絡など、本当に頭が下がる。
▼さまざまな巡礼団がやって来るが、5月14日は恩師が巡礼団の同行司祭だった。わたしが中学高校とお世話になったカトリック校に、かつて教師、後に校長として関わってくれた先生だ。巡礼団を連れて司祭館を訪ねてくれたときに、「校長先生」とおどけてみたら、「違う違う。今は一介の主任司祭だよ」と、笑って答えてくれた。
▼巡礼にやって来る方々の熱意に、本当に感心する。関東から、また東北からも、五島を訪ねてくる。そして、五島の教会に何かを得て、力づけられて帰っていく。わたしたち五島の教会の当事者は、外からやって来る人々が心打たれるこの五島の教会に、どんな思いで接しているのだろうか。
灯台もと暗し、と言うが、外からやって来る人が感じる感動を、地元の人々は気付かずにいるのかもしれない。五島にあって他にないものを、わたしたちはよく知り、よく理解するようにすべきだ。それを失わないように、しっかり継続できれば、わたしたちの教会は存続できるのではないだろうか。
NHKの番組で、国宝や重要文化財レベルの仏像を所蔵していながら、維持管理できずにそれを手放したり、盗まれたり、博物館に保管を委託したりしているという話が取り上げられていた。
▼地元にあって、価値があると思うものでも、環境を横に置いてでも、安全な場所に移さざるを得ないのは残念なことだ。五島の教会がそうならないと言い切れるだろうか。どうしたら、価値あるものを維持していくことができるか、後世に残していくことができるか。よく考えなければならない。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===