復活節第4主日(ヨハネ10:1-10)

復活節第4主日の福音朗読個所から、「羊は羊飼いの声を聞き分け、羊飼いについて行く」とまとめたいと思います。また、今週の福音朗読を補強するために、直前のヨハネ福音書第9章「生まれつき目の不自由な人のいやし」の物語にも触れたいと思います。

教区代表者会議の第一会期に参加してきました。わたしは会議の書記として呼ばれていたので、会議で発言することはありませんでしたが、会議の流れを見守っておりました。真剣な討議がなされまして、これからあと3回、同じように会議を積み重ねていくことになります。

教区代表者会議の雰囲気を味わってきて、この会議がそもそもどんな会議だったのかを理解しました。この会議は、長崎教区が直面している危機感・停滞感を共有し、今手を打たないと手遅れになる問題点を見つけ出し、大司教に提言して「参加し・交わり・宣教する」長崎教区へ真の生まれ変わりを目指すものです。それは同時に、信徒発見から150年目を迎える来年に向けて、長崎教区が再出発をするふさわしい準備にもなる。わたしはそう理解しました。

この教区代表者会議に先立って、中央委員会が教区民へのアンケートを通してまとめた12の提言案が、「カトリック教報5月号」に掲載されています。この提言案については教区シノドスの代表者だけでなく、教区民皆が、目を通して問題点を共有してほしいと思います。

多方面にわたって問題点が指摘されているのですが、それらすべてに共通するのは、「今手を打たないと、手遅れになる問題だ」ということです。そしてわたしは、12の提言案を突き詰めると、「イエス・キリストの呼びかけを自分のこととして受け止め、生活にあてはめることのできる神の民になること」これが長崎教区民すべてに求められている「今手を打たなければ、手遅れになる」問題ではないかなと思っています。

福音朗読に入りたいと思います。朗読の前半部分は、ファリサイ派の人々に話されたのですが、彼らはその話が何のことか分からなかったとあります。ファリサイ派の人々は律法の教師として、指導的立場にありました。ところが、イエスによると彼らは偽善者であり、民衆を父なる神のもとへ正しく導いてなかったのです。

エスは民を父なる神のもとへ導くまことの羊飼いとして現れ、彼らがよりたやすく聞き従うことができるように、模範を示し、先頭に立って歩かれます。

偽善者とまことの羊飼いとの違いは明らかで、民はイエスの声を聞き分け、ついて行きました。ファリサイ派の人々は自分たちがよもや盗人や強盗、偽の羊飼い扱いされる存在だとは理解できなかったのです。

「羊は羊飼いの声を聞き分ける」(10・3参照)とあるのですが、それは具体的にはどのような姿を表しているのでしょうか。この説明のために、直前のヨハネ福音書第9章の物語が役に立ちます。そこでは生まれつき目の不自由な人がイエスによっていやされました。そこへ事情を把握しようとファリサイ派の人々が来て、「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか」(9・17)と追及します。それに対して彼は「あの方は預言者です」と言いました。

さらに「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」(9・33)ときっぱり答えるのです。いやされたこの人は、自分を父である神のもとへ導くまことの羊飼いはイエスであると理解し、その声を聞き分け、従う人になっていました。

ファリサイ派の人々は、目が見えるようになった人の毅然とした態度に逆上します。「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」(9・34)と言い返し、彼を外に追い出しました。

「外に追い出した」とは、単に家の外に出したということだけでなく、共同体からの追放、日本語で言う「村八分」を意味していました。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのです。

そんな圧力を受けても、いやされた人は屈することなく、イエスの声に聞き従う道を選んだのでした。この、第9章で描かれた生まれつき目の不自由な人のいやしを前置きして考えると、今週の朗読個所の第10章は生き生きと読み取れると思います。

「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」(10・3-5)

羊が、まことの羊飼いの声を知っているという姿は、もう少し踏み込んで考えてよいかもしれません。イエスは、ご自分の命をパンとして割いてお与えになり、羊を養います。羊は、羊飼いであるイエスが十字架上で命をささげ、復活して豊かに命を与えることを知っています。知っているだけではなく、まことの羊飼いイエスを愛しているのです。

わたしたちも、イエスの招きを自分のこととして受け止めましょう。生まれつき目の不自由な人がいやされて、「あの方は神から来られた方です」ときっぱり答え、イエスの声に聞き従うことを表明しました。当時の雰囲気は、イエスを信じる者は村八分になることも覚悟しなければならなかったのです。そんな圧力にも屈せず、イエスを信じることに意味と価値を見出していると言い切りました。

わたしたちは、いやされたあの人と同じ信仰を言い表すことができるでしょうか。5月の連休から始まった「教区代表者会議」は、まさにこのような司祭・修道者・信徒が育たなければ、手遅れになると感じて、代表者を集めたのでした。

「羊はその声を聞き分ける」「羊はその声を知っているので、ついて行く」わたしたちはイエスの呼びかけを、自分への呼びかけと受け止め、生活の中でどのように当てはめたらよいか考えようとしているでしょうか。そのような司祭・修道者・信徒が長崎教区に育ってきたとき、代表者会議はその役割を終えるのだと思います。

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ちょっとひとやすみ
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▼今NHK総合で広島カープ中日ドラゴンズの試合が放送されている。NHKなのでコマーシャルも入らず、試合が終わるまでいつまででも放送すると思うが、中継を見てすぐわかるのは、「球場が真っ赤だ」ということだ。
▼幸いに、ファンである広島カープが7回の時点で9対4でリードしている。貧打に毎年泣かされているチームが、今年はまるでどこかの金万球団のような打力である。こういう試合を中継されると、見に行きたくなる。
▼今すぐ飛んでいきたいが、残念ながらここは長崎県五島列島、長崎本土であれば車を飛ばしていくこともできるかもしれないが、それすら叶わない離島である。せめてテレビにかじりついて、試合を見守るしかない。
▼外国人助っ人のエルドレッドが別人のように打てるようになった。去年は大型扇風機、ブンブン音が聞こえてきそうな空振りの多い選手だったが、今年は違う。打ってくれそうな雰囲気があるし、実際にチャンスでホームランという最高の結果で応えてくれている。
▼いろいろ専門家の解説があるが、内角が打てるようになったのが最大のポイントだと思う。自分も内角の球は大好きなので、今年はエルドレッドの打撃フォームをじっくり観察して、秋の司祭団ソフトボール大会に活かしたいものだ。
▼あとは、多くの選手が若手で、怖いもの知らず。わたしのように50歳を目の前にしている者にとっては、親子ほど離れている選手たちだ。まさかこんな印象を野球選手に持つ日がやってくるとは思ってもみなかった。
▼今年も、何とかしてマツダスタジアムに真っ赤な景色を見に行きたい。去年初めて行ったとき、身震いするほどワクワクしたことが忘れられない。ここにやっと来ることができたという実感が、全身を駆け巡ったのだ。
▼今年こそ。23年ぶりの今年こそ。夢は日本シリーズ。日程が決まったらチケットを手に入れよう。そして、自分の中に流れている赤い血をたぎらせよう。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===