復活徹夜祭(マルコ16:1-7)

主の復活おめでとうございます。今年の聖週間も慌ただしかったですが、無事にこの日を迎えることができてホッとしています。福音朗読は、婦人たちがイエスのご遺体をお納めした場所を訪ねるところから始まっています。婦人たちは「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」(16・3)と話し合っていますから、墓を塞いでいる石を動かしてもらってご遺体と対面するつもりだったのは明らかです。

ところが、石は既にわきへ転がしてありました。(16・4参照)奇妙なのは、婦人たちでは手に負えないはずの石が転がしてあるのに、だれがそうしたのか、またどのようにして転がしたのか疑問も持たず、墓の中に入っていくのです。出発の時は気にしていたのに、その場では石にほとんど気を取られず墓に入れるものでしょうか。

あれほど墓の入り口の石を気にかけて出発したのですから、ふつうに考えれば石がわきへ転がしてあれば驚き怪しむはずです。そうならなかったのは、一つのことが考えられます。それは「もっと驚くべきことを見たので、他のことはどうでもよくなった」という状況です。

婦人たちが墓の中に入ると、「白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えた」(16・5)とあります。そしてこの様子に婦人たちはひどく驚いたと、わざわざ書いてあります。ですから、墓の石がどのようにして転がしてあったのかはもはやどうでもよくなり、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」(16・6)と語る神の使いが、婦人たちの心を占領していたのです。

弟子たちが恐れに捉えられて家に閉じこもっている中、婦人たちは行動を起こしました。その結果墓の中で神の使いが「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と話すのを聞いて、婦人たちはさらに行動に駆られます。「どこに行けば、主にお会いできるのか。どのようにすれば、主にお会いできるのか」ということです。

もはや、墓に留まってもイエスとお会いできないことは明らかです。そうであれば次に取るべき行動を考えなければなりません。それは、神の使いが促している通り、「行って、弟子たちとペトロに告げる」(16・7)ということです。

自分たちが動いて弟子たちに知らせに行けば、行動を起こしたそのことでイエスに会えるかもしれない。婦人たちは、期待に胸を膨らませていました。み使いの言葉は、墓の石がどのようにして転がしてあったかなど、どうでもよいと思わせるのに十分でした。

この時点で婦人たちが持ち合わせている情報は限られていました。墓にはイエスがおられないということ、主の使いによれば、イエスは復活されたということ、復活したイエスは先にガリラヤへ行かれ、そこでお目にかかれるということです。

婦人たちはこの限られた情報を弟子たちに伝えることになります。弟子たちはユダヤ人たちを恐れて家に閉じこもっています。婦人たちが体験したのは、次につながる行動を起こすことが、イエスに出会う近道だということです。イエスに会うためには弟子たちがガリラヤに出向く必要があります。弟子たちは動いてくれるでしょうか。

弟子たちが動くかどうかは、きっと婦人たちの熱意が鍵となります。婦人たちは神の使いから、ガリラヤでイエスにお目にかかれると伝えるように言われたのですが、「ガリラヤ」という土地をどれくらい重みがある土地と感じたでしょうか。

マルコ福音書に書かれているわけではありませんが、弟子たちは、婦人たちが持ち帰ったガリラヤという地名が鍵となる土地だと理解できたのではないかと思います。実際、イエスの活動の舞台はほとんどがガリラヤ湖周辺です。奇跡を行い、権威ある言葉を語り、弱い立場に置かれている人を守り、神の国への希望を人々に示したのはガリラヤでした。

今は恐れのために動けないでいる弟子たちですが、後に約束された聖霊を受けて、彼らも復活したイエスを人々に語ることになります。ガリラヤに行きなさいというイエスからの伝言は、「ガリラヤで何を見たか聞いたか、思い起こしなさい。それが素晴らしいものだったのなら、それを語りなさい。」そんな呼びかけだったのではないでしょうか。

わたしたちにも、墓へ行った婦人たちはみ使いの言葉を持ち帰ってくれます。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。」(16・7)

現代にあって、ガリラヤはこの教会堂だと思います。復活したイエスは先にこの聖堂に来て、わたしたちがここに集えばお目にかかれるのです。かつて自分が幼かった時もそして今も、復活したイエスは七つの秘跡を通して奇跡を行い、権威ある言葉を語り、弱い立場に置かれている人を守り、神の国への希望を示し続けるのです。

そこで一つのお願いです。行動を起こすと、復活したイエスに会うことができます。何かの行動を起こしましょう。婦人たちは墓にたたずんでいてもイエスに出会えませんでした。次の行動を起こした時に復活したイエスに出会います。弟子たちも、ガリラヤという場所が何だったかを思い出し、行動したとき復活したイエスに出会いました。

わたしたちもそうです。わたしが受けた信仰が豊かにされた場所を思い起こし、わたしはこのようにして信仰を育ててもらったと物語るとき、復活したイエスと出会うのです。出会う人に向かって、次の世代に向かって、思い起こし、物語ること。これがわたしたちにとって復活した主と出会う道です。

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ちょっとひとやすみ
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▼ご復活おめでとうございます。知り合いの話では、日本の商業の中にクリスマス・ハロウィン・バレンタインなどが定着し、盛り上げるのも頭打ちなので、次のターゲットはイースター(復活祭)なのだそうだ。芸能人やタレントが「ハッピー・イースター!」とはしゃぐ日が間近に来るのだろうか。外箱だけの真似は、日本お得意の芸だ。
▼復活したキリストの光が世を照らす。キリストの光に自分が照らされていると感じ、神に感謝する。そうやって、静かにまことの復活の喜びが日本に行きわたる日をわたしは信じたい。それが何年何百年かかるとしても、日本にキリスト教が最終的に受け入れられたと言えるのはこの復活の喜びが理解できた時だと思っている。
▼今週すでに4月に入っているが、生活環境に大きな変化が生じた。司祭館のためにとある修道会がこれまで奉仕してくれていたが、ことしはシスターを派遣できないらしく、わたしは完全な独身生活が始まった。メルマガの読者の中で、完全な独身生活をしておられる方がいたら、声をかけてほしい。そして、独身生活の心得とか秘訣を教えてほしい。
▼4月5日で早くもゴミ屋敷の前兆が見える司祭館。料理も洗濯も掃除もして、なおかつ司祭として委ねられた信徒のためにも働いていく。わたしにはとてもではないが両立可能だとは思えない。以前に書いたかもしれないが、一食分の料理をして食べて片付ける。それだけで疲れてもう何もしたくなくなる。
▼もちろん、完全な独身生活ならではの気楽さはあるだろう。だがその利点を加味したとしても、デメリットはあまりにも大きい。この負のスパイラルから抜け出せる日はいつか。来年か、再来年か。それとも、もうこのアリ地獄から抜けることはできないのか。
▼気の早い話だが、来年の復活祭は3月27日、ここ数年で最も早くなる。3月27日の2週間後は4月10日、4月10日を起点に1か月前は3月13日、2か月前は2月14日。バレンタインのチョコが来る日だ。中身はどんなチョコだろうか。チョコっと気になる。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===