復活の主日(日中)(ヨハネ20:1-9)

あらためて、御復活おめでとうございます。今日の福音朗読は、先に墓に行ったマグダラのマリアの報告を受けて、その後に出かけた弟子たちのことが取り上げられています。シモン・ペトロと、イエスが愛しておられたもう一人の弟子が墓に向かったとされています。

ここで「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」とあります。もちろん常識的には、使徒ヨハネのことをこう呼んでいるのだと考えるべきです。もちろんその点は踏まえてなのですが、今年わたしは、もっと豊かに、もっと大胆に考えてみたいのです。

「イエスが愛しておられた」という言葉は、とくに使徒ヨハネにふさわしいと思います。イエスの十字架上での最期の場面にも、ほかの弟子はだれも留まりませんでしたが、愛する弟子という呼び方で登場しました。誰がイエスを裏切るかを尋ねたのもこの弟子です。復活し、弟子たちに出現なさった時、「主だ」と声を上げたのも同じ弟子です。イエスから愛されている人でなければ、これほど近くで登場させることはできないと思います。

ただ、イエスが愛しておられたのは、シモン・ペトロも同じです。この弟子をいちばん愛して、別の弟子はそれより少し劣る愛し方をしたとは考えられません。聖木曜日の晩には、弟子たちをこの上なく愛し抜かれたのですから。

そこで考えるのは、「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」は、イエスを信じ、イエスを愛しているすべての人に当てはめてもよいのではないか、ということです。すなわち、あなたも、イエスの復活を知ったもう一人の弟子、イエスが愛しておられたもう一人の弟子だということです。

エスが愛しておられたもう一人の弟子の姿を拾いましょう。シモン・ペトロと一緒に走ったが、「ペトロより速く走って、先に墓に着いた」(20・4)とあります。あなたはまだ若さに自信がありますか。速く走って、イエスに会いに行くために競走できますか。ではイエスが愛しておられたもう一人の弟子になることができます。

彼は先に墓に着き、身をかがめて中をのぞきましたが、彼は中には入りませんでした。あなたは先に墓についても、責任ある人に最初に墓に入る栄誉を譲る謙虚さがありますか。責任ある人の意見を聞いてから自分の態度を決める慎重さがありますか。ではイエスが愛しておられたもう一人の弟子になることができます。

あなたは、一緒にイエスのもとについた責任ある人と一緒に、イエスの復活を心から信じてくれますか。神のご計画、神の愛は、一度死んでも、必ず復活すると信じ、それを人にも知らせることができますか。では、イエスが愛しておられたもう一人の弟子になることができます。

わたしたちはどこかで、イエスの愛しておられたもう一人の弟子になれるのではないでしょうか。足が速くて謙虚で、復活を信じる堅固な信仰この3つをすべて備えてはいないかも知れませんが、そのどれかには当てはまる、そのどれかには近い生き方をしているのではないでしょうか。

わたしたちがイエスの愛しておられたもう一人の弟子であるならば、シモン・ペトロのような責任ある人と力を合わせて、復活したイエスの証人となるべきです。それはつまり小教区の一員として、主任司祭や小教区評議会の方々と力を合わせて、証しをすることです。

エスは今生きて、わたしたちを喜びで満たしておられる。復活したイエスを信じる人は、今喜びを抱えて生きることができると、あなたが生きる場所で証ししてください。復活したイエスは、さまざまなしるしで、これからあなたの証しを裏書きしてくださいます。

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ちょっとひとやすみ
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カトリック信者が日本でカトリックの信仰を表明するのは難しいのだろうか。家庭の中で1人だけカトリック信者だという人をわたしは何人も知っている。その人たちの中で、あからさまに家族から悪く言われる人がいることも知っている。
▼「家社会」が根強く、家の宗教、家の伝統を破壊するとして、カトリックの信仰を捨てて、仏教になってくれと言われている人がいる。実際、見た目はすっかり仏教徒として暮らしている人もいる。もちろん、洗礼を受けて仏教徒からカトリック信者になっている人もいる。
▼問題はいろいろ複雑だ。だが、そうした問題も、「家」の中だけで解決しようとしないで、もっと幅広い人に意見をもらって、難しい問題をみんなで考えてみてはいかがだろうか。「家」社会の中で、「家」の中だけで答えを探すなら、きっと制約されてしまうに違いない。
▼ところが、現代のわたしたちの暮らしは複雑に絡み合った社会である。「家」だけに縛られているわけではない。地域社会に開かれている部分もあるし、ちょっと工夫すれば、家庭の問題、地域の問題であっても全国に意見を求めることも可能である。そういう手段が現在は幸いにそろっている。
▼だから、抱えている問題を閉じ込めず、勇気を出して発信してはいかがだろうか。家庭の主婦、子どもたち、そして問題を抱えている人と知り合った友人知人、教会の家族。いろんな人が置かれている事情によりよい提案をしてもらうことを期待して、現状を発信する人になってもらえないだろうか。
▼いろんな人が、発信する人になってくれれば、発信されたメッセージを受信する人がきっと現れるはずである。メッセージを受信した人の中には、「こうしたらよいのではないか」という提案をもっている人がひょっとしたらいるかも知れない。
ヨハネ福音書はこう語っている。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(ヨハネ1・1)ことばはつまり、「発信」を担う根源的な素材である。だから神は、発信することをやめないお方なのではないだろうか。
▼イエスは「わたしに従いなさい」(マタイ9・9)と招いている。生涯、発信し続けたイエスが、「わたしに従いなさい」と言っているのだから、それぞれの立場で、発信する人が現れて、もっとたくさんの人で問題解決に当たるきっかけを作ってほしい。
▼司祭・修道者・信徒・カトリック信者でなくても、どのようにカトリックの教えを日本に位置づけるか、幅広く考えを巡らせてほしい。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===