聖金曜日(ヨハネ18:1-19:42)

エスのご死去を朗読でたどっていきました。イエスを死に追いやる人々の中で働く悪の力は、その人の正しい判断力までも奪い去りました。大祭司アンナスは、イエスを縛ったまま大祭司カイアファのもとへ送りました。カイアファも何も手を貸さず、総督ピラトの元へ送ります。

裁判を開いて尋問したピラトは、「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」(18・38)と言い、釈放しようと努めたのです。しかし、ピラトはイエスではなく強盗のバラバを釈放したのでした。祭司長たちにそそのかされた群衆も、心の声に耳を傾けることができませんでした。

もう一人、イエスの死に深くかかわっている人がいます。それはペトロです。ペトロは三度、イエスのことを否定しています。ペトロに焦点を当てて、今年の聖金曜日を黙想したいと思います。

エスは宣教活動を開始するにあたり、十二人の弟子を集めました。その弟子の頭がペトロです。しかしペトロは、門番の女中の言葉に、致命的な過ちを犯してしまいます。「あなたもの、あの人の弟子の一人ではありませんか。」(18・17)ペトロは「違う」と言ったのです。

ペトロが「違う」と言ったことは、個人の問題では済まされません。彼は弟子の代表、一番弟子だからです。ペトロが「違う」と言うならば、だれが「わたしはイエスの弟子である」と言うのでしょうか。

ペトロが「弟子ではない」「違う」と打ち消したのは、イエスがみずから選んだ弟子さえも、敵対する悪の勢力に打ち勝てなかったということなのです。それはつまり、イエスが十字架にかけられていのちをささげなければ、どんな人間も自分を救えない、自分だけではなく他の人をも救えないということなのです。弱く、貧しい、愚かな人間を救うために、イエスの十字架上の死がどうしても必要だったのです。

エスの最期の場面で、十二人の弟子たちがみな「わたしたちはイエスの弟子である」と声を上げていたら、出来事はさぞ変わっていたことでしょう。けれども、それは実現しませんでした。かろうじてイエスのそばにとどまった「愛する弟子」も、ただ黙ってイエスの最期を見届けることしかできなかったのです。

エスは、十字架の上でいのちをおささげになりました。今、わたしたちにも門番の女中は問いかけています。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」残念ながら、わたしたちも場合によっては自分が弟子であることを「違う」と打ち消してきました。こんな弱いわたしたちを、イエスさまは黙って背負い、赦し、救ってくださいます。今はただ、感謝して十字架上のイエスを礼拝しましょう。

このあと、十字架の礼拝の儀が執り行われます。一人ずつ十字架の前で深々とお辞儀をし、礼拝をささげます。弟子であることを打ち消したわたしをそれでも愛してくださる十字架上のイエスに、感謝の誠をささげましょう。

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ちょっとひとやすみ
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聖金曜日は断食の日でもある。大斎・小斎と言って、通常大斎は1食のみ普通に食べる。あと2食は断食にふさわしい食事。小斎は肉を使った料理を食べない。もともとヨーロッパで確立した断食の規則だから、このようなスタイルだが、日本人にはアワビもサザエもあるので、日本(アジア)に適合した規定を設けたほうがよいと思う。
▼それは横に置いといて、断食をしていれば当然お腹がすく。妄想する。肉は出てこないが、魚が食べたいなぁという欲求はある。魚を常時食べていると、毎日食べても飽きない魚と、毎日食べるのはちょっと、という魚がある。
▼アジ・イワシは、毎日でも食べられる。アジを包丁ではなく、指で三枚(骨と、左右両側の身でいわゆる「三枚」)に開き、刺身で食べれば毎日でも食べることができる。もちろん少量(三切れとか、五切れとか)ということで、五匹とか十匹毎日食べるという意味ではない。
▼では毎日食べるのはちょっと、という魚は何か。意外に思うかもしれないが、わたしにとってそれは鯛である。養殖の鯛ではない。広い海で釣り上げた天然の真鯛のことだ。たとえ天然の真鯛でも、毎日となるとちょっと辛い。特に去年は数えるのも面倒になるくらい釣り上げたので、見ているだけでもお腹がいっぱいになってしまう。
▼まぁこんなたわごとは、五島列島に赴任しているから言えるのであって、この先で海と隔絶された小教区(想像すらできないが)に赴任すれば、こんなたわごとは口にしなくなるだろう。今のうち、今のうち。
▼断食で意識はもうろう。早く12時過ぎて、土曜日になってほしいものだ。だが土曜日も聖土曜日。断食の務めはないとしてもイエスの死を悲しんで喪に服す時間には変わりない。聖土曜日の、実り豊かな過ごし方を知っている人がいたら教えてほしい。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===