待降節第2主日(マルコ1:1-8)

待降節第2主日は、洗礼者ヨハネが登場する場面が福音朗読に選ばれます。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」という叫びに、わたしたちはどのように応じたらよいのかを今週考えることにしましょう。わたしたちが相応しく洗礼者ヨハネの叫びに答えるなら、現代に洗礼者ヨハネの叫び声を生きたものにすることができます。

ここ数週間で、記憶に残る興味深い人と出会いました。先月お会いしたのは一組の若いカップルで、先祖に中田藤吉・中田藤太郎神父さまを持っている人でした。わたしも中田姓ですから当然この2人の中田神父さまは先祖がつながっていまして、初めてお会いした若い青年なのに、先祖の話で話し込んですっかり打ち解けてしまいました。現在平戸で病院勤務ということなので、将来また会うこともあるでしょう。

もう一人は、曽根の巡回地から来た人でした。この方も全く知らない人ですが、親同士が兄弟で福見に住んでいる人を訪ねてみたがその時は会えず、せっかく福見教会の近くに来たから主任神父さまに挨拶してから帰ろうと浜串の司祭館を訪ねてくれたのでした。

その人は話をしているうちに声が詰まり、福見に訪ねて行った人のことを、もっと早くから親しくしておくべきだった、このまま疎遠になりはしないかと心を痛めている様子でした。訪ねに行くまでにこんなに時間がかかってしまったと、初対面のわたしの前でさめざめと泣くのでした。わたしは昼ごはんの真っ最中だったので、涙ながらに話すその人の話をおかずにご飯を食べたのでした。

この二通りの出会い、何がわたしの心に響いたかというと、信仰にまっすぐ生きているという点です。先祖をたどって五島までやって来て、共通の先祖がいるわたしに信仰に生きた先祖の話を目を輝かせてしている。福見のおじさんが生きている時に世話になって、今おじさんに恩返しができない分、何十年も会っていないいとこの人に会って、おじさんの分まで恩返しがしたいと涙ながらに話している。この人たちには一本筋が通っていると思ったのです。

筋が通っている人の話、信念を曲げずに貫いている人の話は心を打つものです。なぜでしょうか。その人の中に、まっすぐに通った道があるからです。カトリック信者にとってそれは主の道です。主が通られる道筋がその人の中にまっすぐにひかれている。こういう人の話はいつも人の心を打つのではないでしょうか。

わたしは、最近出会ったこの二通りの人たちは、すでに洗礼者ヨハネの叫びに耳を傾け、その呼びかけに答えて生き始めている人々だと思いました。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」(1・3)主のために道を整え、自分の生き方に主を迎えることを最上の喜びとし、その他のことを横に置ける人々です。

今回出会った人々が、その生き方を貫いてくれたらと願っています。先祖の信仰を目を輝かせて語る生き方。親の信仰を誇りに思い、いとこと思い出話を語り合いたいと涙ながらに切望する生き方。それで十分です。どちらも、語ろうと思えば自分の成し遂げたことを語れるでしょう。それをあえて横に置いて、信仰にまつわる話を最優先に語る。こういう人は、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」この洗礼者ヨハネの叫びを現代によみがえらせている人だと思うのです。

主をお迎えする道をまっすぐに通すため、他のものを横に置ける人は誰でも、現代に洗礼者ヨハネの叫びをよみがえらせる人です。この生き方は、現代に対する挑戦でもあります。現代は、「物質的繁栄」「経済最優先」という道をまっすぐに通すために、他のものを横に置く生き方が幅を利かせています。誰かの受け売りみたいですが、「この道しかない」と言っています。

では経済最優先で信仰を横に置いて、わたしたちは救い主を本当にお迎えできるのでしょうか。信仰の話は、時として声を詰まらせるほどの深みがありますが、経済の話で声を詰まらせることが果たしてあるでしょうか。救い主をお迎えする準備をしなさいと叫ぶ洗礼者ヨハネの声を、荒れ野に閉じ込めてしまってよいでしょうか。むしろ、経済最優先と叫んでいる社会の中心で、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と響かせるべきではないでしょうか。

わたしの生き方には、信仰のまっすぐな道がひかれているでしょうか。経済最優先で、信仰の道は石だらけの歩きたくない道となっているのでしょうか。救い主をお迎えし、救い主に確実にお会いするためには、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」という声に耳を傾ける必要があります。

これからの約三週間、救い主を迎えようとしている人なのだと周りの人にも感じさせる生き方を工夫しましょう。主を迎えることが何より大事なのだなと周りの人に感じさせることができれば、あなたもまた洗礼者ヨハネの叫びを現代によみがえらせている人なのです。

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ちょっとひとやすみ
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▼「この道しかない」と声高に言っている人たちに。あなたたちのおかげでわたしたちのクリスマス会が取りやめになった。700億円も国民の税金を散財して、予算5万円かそこらのささやかな楽しみを潰した。本当に腹が立つ。
▼「経済観」という言葉が適切かは分からないが、わたしの経済観ははっきりしている。「領収証(領収書)はもらえないことがあっても、請求書が無くなることはない。」ついこの前も2004年の請求書を盾に、注文した商品を発送してもらえなかった。
▼2004年と言えば、ちょうど転勤のごたごたの最中だったはず。転勤の荷物にまぎれて請求書を無くしたのかもしれないが、今回縁があって同じ会社に注文を入れたら丁寧に「2004年の未払い分を払ってくれたら今回の注文を発送します」ときた。
▼それで「うっかりしていたのだと思いますので、再度請求書を送ってください」と連絡したが、なかなか届かない。「請求書の再送をお願いしますという連絡は届きましたか?」と催促して、しばらくして「これから送ります」と言ってきた。
▼しかし、2日待っても届かない。4日経過したが来ない。5日目に届いた。そこでその日のうちに送金したのだが、送金後2日たってから「入金の確認が取れません。このままですと新規の注文はキャンセルさせていただきます」と言う。なぜ午前中に送金した通知がその日のうちに届かないのか。
▼「送金の確認は取れましたか?念のため明細書のコピーを添付します」ここまで念押ししてようやく「入金確認が取れましたので新規の注文の発送手続きに入らせていただきます。」めんどくせー。だが、「請求は決してなくならない」というわたしの体験はここでさらに固まった。
▼「言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。」(ルカ12・59)神さまもわたしたちに貸しがあり、請求すべきものについては必ず請求書を人間に提示する。その請求を支払わなければ、わたしたちはきっと天の国に迎えられないだろう。この世でも、天の国でも、請求された内容は必ず払わなければならない。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===