待降節第2主日(マタイ3:1-12)

土曜日、保育園のクリスマス会に参加してきました。今年のクリスマス会は、わたしにとって忘れられないクリスマス会となりました。クリスマス会の最初に用意されていた聖劇で、たくさんの園児が練習したことを立派に演じている中、羊飼いが羊を導きながら登場しました。その、羊飼いが引き連れてきた小さな羊たちの中の1匹が、会場の隅に座っていたわたしを見つけて、「神父さま〜」と手を振ってきたのです。

わたしはとっさに手を振って返してあげたい衝動に駆られましたが、羊飼いの家畜の羊が手を振っているのって演技として変ですよね。もしわたしが手を振って返したら、それこそ聖劇を台無しにしてしまうのではないかと思い、手を振りたいのを何とか我慢して、「神父さまも君を見つけたよ」と目で合図を送って、聖劇を見守りました。

ところが羊を演じている小さな子供には、手を振って返してもらえない理由など分かるはずがありません。「へんだなぁ」と思ったのか、何度も何度も「神父さま〜」とその園児は手を振っておりました。わたしはもうたまらなくて、胸を締め付けられる思いでした。皆さんが主任司祭の立場でしたら、こういうとき手を振って返すのでしょうか。

さて、この日のクリスマス会の聖劇を観て、わたしは今週待降節第2主日の構想が思い浮かびました。とっても可愛い園児が聖劇の最中に手を振っています。手を振って返したい。でも、今はその時ではない。よくよく考えて、その時がやって来たら決してタイミングを遅らせることなくすぐに園児に手を振り返すことでしょう。神の救いの計画は、たとえばこのようなものではないだろうか。そう思ったのです。

待降節第2主日は、洗礼者ヨハネの登場を取り扱います。神は救いの計画の中で、御子をお遣わしになる直前に、洗礼者ヨハネを登場させることを計画なさいました。それは、何となくそうしようと思ったのではなく、タイミングを遅らせることなく、的確にヨハネを旧約の最後の預言者として登場させ、救い主を迎える準備をさせたのです。

洗礼者ヨハネを、救い主がお生まれになる50年前に登場させる可能性はあったでしょうか。主の到来を待ち望むイスラエルの民は、「主よ来てください」と、何度も神に手を振り続けていたのです。神はそれをよくご存知で、この民を救うためにすぐにでも主への最後の準備をさせる預言者を送ることは可能だったでしょう。けれども神は、もっともよいタイミングを待って、的確に、ヨハネを人々に遣わしたのです。

神が計画を実行されるとき、その計画はもっとも時に叶っているはずです。炎のような口調で荒れ野に集まった人々を悔い改めさせるヨハネは、彼のすぐ後においでになる救い主を迎える最高の準備をさせる最適の人物でした。ヨハネユダヤの人々に求めたことは、すべてを横に置いておいでになる救い主のために自分を差し出すことでした。

アブラハムの信仰を受け継いでいる」という民族としての誇りや、「わざわざ荒れ野のヨハネのもとに来て罪を悔い改めている敬虔な人間だ」といった自負心、そんなちっぽけな優越感をかなぐり捨てて、おいでになる救い主に自分を差し出しなさいと主張するのです。ひとことで言うなら、「悔い改めにふさわしい実を結べ」(3・8)となります。

「悔い改めにふさわしい実を結べ。」具体的には、後から来られる方が授けてくださる「聖霊による洗礼」を受けるということです。アブラハムの血筋によるのでもなく、進んでおこなう償いのわざによるのでもなく、ただ「父と子と聖霊による洗礼」に生きる土台を置く。この生き方を、「悔い改めにふさわしい実」としたのです。それはまた、「救い主、イエス・キリスト」に生きる土台を置くことでもあります。

洗礼者ヨハネは、まだ見ていないお方にすでに生きる土台を置いて生活し始めていました。荒れ野にしりぞいたのも、「後から来る方」にすべてを委ねて生きる決意の表れだったのでしょう。わたしたちも、ヨハネが今週示そうとする生き方を選ぶ必要があります。すなわち、「わたしの生きる土台であるイエス・キリストから離れない」この決意を表す必要があるのです。

わたしたちは洗礼によって、イエス・キリストという土台を据えられました。かつて洗礼は、川のほとりで授けられ、水の中に3度身を沈めていました。今でもキリスト教のあるグループは、体を沈めるための浴槽が用意され、その中に身を沈めて洗礼を施しています。

体を水の中に沈め、また水から引き上げる動作は、洗礼を受ける人がいったん自分に死に、キリストによって生きることを表しています。すると、「父と子と聖霊による洗礼」を土台として生きる人は、キリストのために生きることを行動で示すことが求められます。「悔い改めにふさわしい実を結べ」と、ここでも言われているのです。

3つ例を挙げたいと思います。まずは、日頃から秘跡に親しむことです。聖体拝領、罪の赦し、節目節目に迎える堅信の秘跡、婚姻の秘跡、病者の塗油などです。日頃から秘跡に親しむ生活は、土台である洗礼の恵みをさらに堅固なものにします。

次に、聖書や教会の教えに親しむことです。長い歴史の中で教会も枝を伸ばしてきましたが、枝葉の部分はさまざまに変化することでしょう。けれども聖書と、公会議の教えのような教会が保持している根本的な教えは変わることはありません。信仰年は終わりましたが、信仰の核心の部分を確認することはますます大切になっています。

最後に、あなたのほかにあと1人2人、「父と子と聖霊による洗礼」を土台として生きる人を見いだしましょう。あなたを通して、「わたしも、あなたと同じ土台に人生の基礎を置きたい」と願う人を見つけましょう。「悔い改めにふさわしい実を結べ」との洗礼者ヨハネの呼びかけは、すでに同じ信仰にある人にも、まだ本当の意味で主の降誕を迎えない人のためにも向けられています。わたしたちが、ヨハネの呼びかけをすべての人に届けましょう。そのための恵みと力を、このミサの中で願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼去年はこんなにモテただろうか?モテ期か?秋の小学校運動会のときから、何となくその兆候はあった。運動会の来賓で呼ばれて出席して、借り物競走などでプログラムに借り出されると、「神父さま〜」と保育園児から黄色い声援を受け、手を振ってもらっていた。隣の人から「さすが神父さまへの声援は違いますねぇ」と冷やかされたりしたが、まったく声援の理由に思い当たる節がなかった。
▼今回もそうである。なぜ羊飼いの羊役から、わたしだけを選んで手を振ってもらう理由があるのか。ほかの人には一切目もくれず、わたしだけに手を振っていた理由は何か。少なくともわたしにはその理由が思い当たらない。その幼子はカトリック信者の家庭の子でもないし、申し訳ない話だが、わたしもどこのだれかも知らないのである。
▼クリスマス会の間、椅子に座っているわたしの前を通り過ぎる保育園の子供たちが、代わる代わる「神父さま〜」と言って手を振っていく。この場面では何の妨げもないのでわたしも手を振って返す。子供たちは満足した顔で次の演目に向かっていく。しかしわたしは、「なぜそこまでわたしに手を振ってくれているのか」ますます謎が深まっていく。
▼ためらいと、戸惑いすら覚える。ある園児はわたしの手を握り、「神父さまの手、あったかい」と言った後、まるで自分の父親であるかのようにわたしの膝の上に座り、しばしわたしに抱っこしてもらってまた離れていった。何だったのだろう?
▼わたしはこの保育園の子供たちと何回触れ合っているだろうか。ほとんど、数えるほどしか触れ合っていない。夏祭り、運動会、七五三、クリスマス会、卒園式、これくらいか。年に5回で、だれがその人になつくだろうか?考えれば考えるほど謎である。
▼亡くなった「やなせたかし」氏は、「子供は本能で相手を見抜く。子供には嘘やごまかしや中身を水で薄めたようなものは通用しない」とインタビューで答えていた。わたしに喜々として手を振り、近寄ってくる園児たちはわたしの何を見抜いているのか。しかし少なくとも、わたしが何もかも見抜かれていることは、わたし自身感じていることである。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===