主の洗礼(マタイ3:13-17)

主の洗礼の祝日を迎えました。イエスが洗礼を受ける姿から、わたしたちがいただいている洗礼の恵みをもう一度振り返る機会といたしましょう。さらに振り返りにとどまらず、洗礼を受けていない人に洗礼を呼び掛けるきっかけにもしていきましょう。

今週、大曽小教区の跡次教会でも主日のミサをささげました。確か跡次教会でのミサは初めてのことだと思います。ただ、大曽小教区の黙想会をずいぶん昔に務めたことがあって、その時黙想会に参加した人にとっては、およそ20年ぶりに一緒にミサをささげる機会となりました。

主の洗礼の祝日の説教をまとめると、「水の中から上がり、天に向かって歩く」ということになります。イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けると、すぐに水の中から上がられました。これから宣教生活を始めるためです。そして、イエスに向かって天が開きました。イエスは天の御父に向かう道のりをまっすぐに歩き始めます。これらはそのまま、わたしたちに生き方を示すものでもありました。

当時の洗礼の儀式は、水に体を沈めておこなっていました。教会はこれを、これまでの罪に染まった生き方に死に、死んだ自分を神によって引き上げられて、新しい神のいのちに生きるしるしと考えています。わたしたちキリスト者が今生きているのは、罪に染まった生き方に生きているのではなく、洗礼を通して与えられたいのちに生きているのです。

エスは、洗礼を受けて生き方を改める必要はありませんでしたが、人として、わたしたちの生き方を指し示すために洗礼をお受けになりました。わたしたちキリスト者にとって、イエスの前に道はなく、イエスが歩いたあとに、わたしたちの歩むべき道が開かれるのです。イエスは、人が歩むべき道のりのその最初の一歩からわたしたちに模範を示し、「わたしについてきなさい」と招いているのです。

私事ですが、上五島地区の5人の神父さまが、2月に計画している大浦教会から福岡県の今村教会までの徒歩巡礼のために、現在自主トレを続けております。つい最近の1月7日にも、わたしが卒業した東浦小学校から、江ノ浜の龍馬像を設置している公園まで、歩いて往復してきました。24kmくらいあったと思います。

歩くという移動手段は、最も遅い移動手段です。自転車、バイク、車、お金に糸目を付けないなら、空を飛ぶ乗り物で移動するならもっと早いでしょう。最も遅い移動手段ではありますが、移動する区間の情報を最も手に入れることができるのは歩くということだと思います。

鳥の鳴き声、草むらに潜む動物の音、途中通過していく集落に住む人々の何気ない会話、これらすべてを体験出来るのは、歩くという移動手段だけです。わたしもこの前の長時間の徒歩訓練で実感しました。

エスも、道を歩いて移動しました。ご自分に託された救いの道を最後まで歩き通しました。十字架にはりつけにされるその場所へも、三度倒れながらも歩いて行きました。それは、歩くという手段が、人間の思いのすべてを受け止める最高の手段だったからだと思います。イエスを愛している人の思いも、イエスを憎んでいる人の思いも受け止め、ゆるして救いに導くために、道を最後まで歩き抜かれたのでした。

エスが取った行動は、わたしたちが受けたものを振り返る物差しであり、わたしたちへの生き方の模範です。イエスはあえて洗礼をお受けになりました。人が、罪な生き方を捨てて、神のいのちに生きることを教えるためです。わたしたちは洗礼を受けていますから、わたしの生き方は今どうなっているだろうかと考える必要があります。わたしたちが恵みに感謝することもなく、神の招く方向を気にも留めないで生きているとしたら、それはいまだに罪な生き方をしているのです。

さらに、イエスの取られた行動は、わたしたちを新しい取り組みへと促します。罪な生き方を捨てて、恵みに感謝し、神の招きに信頼して生きる。こんな新しい生き方があるよと、周りの人にも知らせに行くことです。わたしたちが自分を振り返るところで考えた、罪な生き方を何も気付かずに続けている人が何と多いことでしょうか。

エスが示す生き方をまったく理解しない人にとって、最後に生き方を決めるのは自分自身ということになります。わたしの判断はそんなに信頼できるのでしょうか。人は皆、開かれた天に向かって歩いているのですが、この世に生まれたときから人生の最期を迎えるまで、自分自身の判断だけで開かれた天に向かって歩を進める力があるのでしょうか。

わたしは、イエスが示された道を歩むのが正しい生き方だと思います。最後を自分で決めるのではなく、イエスに委ねて生きる。この生き方を、自分自身も貫くし、イエスを知らない人にも示してあげる。それが、イエスの洗礼の姿がわたしたちに教えていることだと思います。

歩みが遅く感じられる人もいるでしょう。イエスの模範もいただいたし、わたしたちの進むべき方向も分かった。それなのになぜこの人は前に進もうとしないのか。遠回りをしたり、本来の歩むべき道を逃げ回ったりするのか。そのように見える人もいるかも知れません。

もちろんそのような人は心配だと思いますが、「歩みの遅い人はたくさんの情報を手に入れる」という体験から学んだことを思い出しましょう。心配している相手が投げやりな人でなく、壁に当たってもがいている人であるなら、きっとその人は貴重な学びを得ながら、遠回りに見える道を歩いているのだと思います。いつかその人も、ゴルゴタの丘まで十字架を担いで歩いたイエスにたどり着き、追い付くことでしょう。

洗礼を受けるという最初の一歩から始め、十字架上での最期の時まで歩き続けたイエスが、わたしたちの人生の歩み、信仰の歩みの模範です。歩くのをやめないでください。どんなに遅くてもいいから、歩き続けてください。まだたくさんの、歩かないと気付けない体験が待っています。前を歩くイエスを見つめながら、これからも開かれた天に向かって歩を進めていきましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼1月7日、これまでで最長の距離を歩いた。母校の東浦小学校から、江ノ浜というところにある「祈りの龍馬像」までを往復した。体が慣れてきたのか、往復24kmの道のりもスムーズにクリアできた。
▼1つ失敗だったのは、水分補給の認識不足という点だ。出発前、ポケットに150円入れて出発したが、飲み物2本分、300円持って行くべきだった。この日は暖かく、風もほとんど感じないほどだったが、次第に喉が乾き、水分補給に迫られた。小一時間歩いた頃に自動販売機を見つけ、スポーツドリンクを買った。
▼もうお金がないいことは分かっていたが、ドリンク1本で最後までもたないだろうかという甘い認識だった。2時間ちょっとで折り返し地点の銅像前まで来たが、ペットボトルの中身は3分の1しか残ってなかった。片道で半分減ったのだから、最低でも半分残っていなければ、当然足りない。
▼延べ時間が4時間に近づいた頃に有川港周辺まで来て、お金もないのにスーパーに入った。箱を開けただけの、冷やしていないスポーツドリンクが、89円で置いていた。ふだんは自動販売機で150円で売っているのに、89円でも利益が出るのか。今考えるようなことではないが、そんなことまで浮かんだ。
▼しかし、100円さえも手元にはなかった。しかたなく有川港のトイレまで引き返し、手洗いの水を飲み、トイレを済ませて出発地点の小学校前に帰り着いた。4時間40分、本当に長い特訓だったが、さまざまなことを学んだ実りある特訓だった。
▼こんな収穫があったと思う。4時間以上も苦手なことに時間を費やせたこと。ハーフマラソンくらいの距離を、4時間で完走できると分かったこと。これならフルマラソンの距離も、10時間もあれば完走できるかも知れない、そんな希望を持てたこと。
▼ほかにも、1日の時間のうち、4時間歩いてもまだ時間があると分かったこと。いろんな収穫があった。次も、本番に繋がるような徒歩訓練に挑戦するつもりだ。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===