待降節第3主日(ヨハネ1:6-8,19-28)

待降節第3主日、今年B年の福音朗読は洗礼者ヨハネに与えられた役割「使命」について紹介されています。わたしたちも、洗礼者ヨハネのように神から「使命」を託されていると思います。洗礼者ヨハネの使命に学びながら、わたしたちの果たすべき使命について思い巡らし、使命を果たす方法を考えてみましょう。

国政選挙当日を迎えました。大切な一票を無駄にしないように、誠実に投票して来てください。わたしはすでに期日前投票を済ませておりますが、クリスマス会を邪魔されたことと、多額の費用を使って何のための選挙なのかという疑問はとうとう拭えませんでした。

さてヨハネ福音記者は、洗礼者ヨハネのことを「彼は光ではなく、光について証しをするために来た」(1・8)と紹介します。決して自分が光であると言ったりせず、光について証しをすることに徹しています。これは、洗礼者ヨハネが、自分に託された使命をはっきりと自覚しているしるしだと思います。

自分の使命を十分に理解している人は、自分に託されていることを完全に果たすことに力を注ぎ、そこに集中するものです。たとえば野球では監督が場面によって打者に送りバントを命じることがあります。かつてバント職人と言われた川相昌弘選手は、ギネス記録となる通算533本の送りバントを決めました。

彼がバントをすれば、相手投手がどんなに難しい球を投げても、簡単にボールを転がしました。簡単ではなかったはずですが、観ている人にはいとも簡単にこなしているように見えたのです。自分に託された仕事を完璧に果たすために、常に集中していたからこそできる業です。使命に徹し、使命に生きる人の姿です。

洗礼者ヨハネは、「光であるイエス」について証しをすることに徹しました。まだイエスの働きはベールに包まれていましたが、自分は「荒れ野で叫ぶ声」(1・23)となり、「主の道をまっすぐに」(同)して舞台から去り、イエスに場を譲ったのでした。その時点ではイエスよりも洗礼者ヨハネのほうが評判を得ていましたが、彼が自分の使命を取り違えることは決してなかったのです。

洗礼者ヨハネはなぜ、自分の使命を正しく理解できたのでしょうか。実は洗礼者ヨハネの証しは今週選ばれた朗読個所と、そのあとに続く二つの証しがセットになっていて、三日連続の証しが行われています。今日の朗読では、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」(1・23)が中心になっています。

二日目は、自分のほうへイエスが来られるのを見て「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」(1・29)と証しします。三日目は、「水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」(1・33-34)とあって、三日間の証しのどこかに、自分の使命を正しく理解した鍵があるはずです。

わたしは「わたしをお遣わしになった方が・・・であるとわたしに言われた」この部分が鍵だと考えました。「これこれの様子を見たら」と、洗礼者ヨハネは自分に対する声を聞いたのです。声を聞いたことで、自分の使命は「荒れ野で叫ぶ声」であり、声の持ち主は自分ではなく、これから出会う方であると理解したのです。使命を与える方の声がはっきりと聞こえたので、使命を取り違えることもありませんでした。

わたしたちはどうでしょうか。わたしたちにも、神は使命をお与えになっていると思いますが、その声は聞き違えたり、間違えたりしないほどはっきりしているのでしょうか。

わたしは、一人ひとりが自分に都合のいいように聞こうとしない限り、使命をお与えになる神の呼びかけははっきり伝わると思っています。そのことを考えさせるのは、洗礼者ヨハネが彼のもとに集まったファリサイ派に属する人々に言った言葉です。「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。」(1・26)

これは文字どおりには、ヨハネのもとに遣わされたファリサイ派に属する人々の間に、あなた方の知らない方がおられるという意味ですが、わたしは踏み込んで、「わたしたち一人ひとりの心の中に、あなたがたの知らない方がおられる」と考えてみました。

つまり、わたしたちに使命を授ける方は、わたしたちの中にとどまってくださって、その使命を間違いなく実行できるように導いてくださると考えたのです。ですから、わたしたち一人一人に与えられる使命は、都合のいいように聞こうとしない限りはっきりと響いていて、常にその使命に生きる生き方から逸れないように、イエスが共にいて導いてくださると思うのです。

与えられた使命は、それぞれ違いがあるでしょう。生活全体をささげておこなう使命もあるでしょうし、家庭の中で、職場の中で果たしてほしい使命もあるでしょう。ぜひその使命をこの待降節に心の中で確認し、反芻してください。やがてお迎えする救い主の成長と共に、自分の使命を確実にまっとうして神の国の完成のために働くことができますように、このミサの中で取り次ぎを願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼「この道しかない」と声高に言っている人たちに。あなたたちのおかげでわたしたちのクリスマス会が取りやめになった。700億円も国民の税金を散財して、予算5万円かそこらのささやかな楽しみを潰した。本当に腹が立つ。
▼「経済観」という言葉が適切かは分からないが、わたしの経済観ははっきりしている。「領収証(領収書)はもらえないことがあっても、請求書が無くなることはない。」ついこの前も2004年の請求書を盾に、注文した商品を発送してもらえなかった。
▼2004年と言えば、ちょうど転勤のごたごたの最中だったはず。転勤の荷物にまぎれて請求書を無くしたのかもしれないが、今回縁があって同じ会社に注文を入れたら丁寧に「2004年の未払い分を払ってくれたら今回の注文を発送します」ときた。
▼それで「うっかりしていたのだと思いますので、再度請求書を送ってください」と連絡したが、なかなか届かない。「請求書の再送をお願いしますという連絡は届きましたか?」と催促して、しばらくして「これから送ります」と言ってきた。
▼しかし、2日待っても届かない。4日経過したが来ない。5日目に届いた。そこでその日のうちに送金したのだが、送金後2日たってから「入金の確認が取れません。このままですと新規の注文はキャンセルさせていただきます」と言う。なぜ午前中に送金した通知がその日のうちに届かないのか。
▼「送金の確認は取れましたか?念のため明細書のコピーを添付します」ここまで念押ししてようやく「入金確認が取れましたので新規の注文の発送手続きに入らせていただきます。」めんどくせー。だが、「請求は決してなくならない」というわたしの体験はここでさらに固まった。
▼「言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。」(ルカ12・59)神さまもわたしたちに貸しがあり、請求すべきものについては必ず請求書を人間に提示する。その請求を支払わなければ、わたしたちはきっと天の国に迎えられないだろう。この世でも、天の国でも、請求された内容は必ず払わなければならない。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===