聖母の被昇天(ルカ1:39-56)

聖母の被昇天の祭日が、日曜日、主日と重なりました。とても珍しいことだと思います。クリスマスが日曜日に重なるのも珍しいと思いますが、司祭にとっては、聖母の被昇天、クリスマスが日曜日に重なっている年は、最高の祝い日です。理由は1つ。説教を余計にしなくて済むからです。

皆さんの家庭では、この聖母の被昇天の祝いに合わせて、ふくれ餅を作ったりしているでしょうか。まさか、「ふくれ餅とは何ぞや」という人は五島にはいないと思いますが、写真が手元にありますので、ごらんになって思い出してください。このふくれ餅、鯛ノ浦の実家でもよく作ってお祝いしてもらったものです。小さいころからごちそうの少なかった家庭ですから、こうして祝い日に作ってもらったふくれ餅は、懐かしいごちそうの味の1つです。

皆さんの家庭にも、こうした習慣があればいいなぁと思います。必ずしも、ふくれ餅を作る必要はないのですが、8月15日、聖母の被昇天のお祝い日には、わが家はこういう料理で祝うのだ。そうした習慣が定着すればいいなぁと思います。ぜひ、取り組んでみてください。

福音朗読の学びに入りましょう。マリアが、エリザベトを訪ねる場面から始まっています。マリアの挨拶を受けたエリザベトは、喜び、声高らかに言いました。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。」(1・42)

日本語ではあまり意識しないかもしれませんが、「祝福された方」という表現は、「誰かに祝福された」ということが必ず背後にあります。誰に祝福されているか。それは言うまでもなく、神によって祝福されているということです。

神の祝福を受けて、人は幸いを得ます。神の祝福が、その人のものの考え方、行動の仕方に影響を与えます。エリザベトはマリアを次のようにたたえました。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(1・45)マリアの心には、神の祝福を受けた結果、「主がおっしゃったことは必ず実現する」との思いが、芽生えていたのです。

朗読の後半は、「マリアの賛歌」と呼ばれる部分ですが、わたしは、このマリアの賛歌は、「主がおっしゃったことは必ず実現する」との思いを具体的に言い表したものではないかなぁと思いました。

マリアはご自身のことをこう歌います。「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。」(1・48-49)

マリアも、救い主の到来を待ち望んでいたわけですが、マリア自身を通してその期待が実現しようとしています。ここにすでに、「主がおっしゃったことは必ず実現する」との思いが表されています。

マリアも、マリアが訪ねていったエリザベトも、人間の目には低いと考えられていたもの、取るに足りないと思われていた者たちです。マリアは、だれも見向きもしないガリラヤの町ナザレの出身でした。エリザベトは「結婚していながら子を産まない女性」として見られていました。

神は人間の目に高いとみられている者たちを通り過ぎて、マリア、またエリザベトのもとにおいでになったのです。人間の目に低いとみられている者、取るに足りないと見られている者に、神はおいでになる。その光景を、マリアはわたしたちに見せてくださいました。

51節から53節の、「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」という部分も、マリアがわたしたちに示してくれた、「主がおっしゃったことは必ず実現する」光景です。

マリアがこの賛歌を歌ったとき、ほかの人にはこの低くされた人が高くされ、飢えた者が良い物で満たされる光景は見えていなかったかもしれません。ですが、神の祝福に照らされたマリアの目には、将来実現される姿として、はっきり見えている光景なのです。

マリアが指し示した光景を、わたしたちも眺めることにしましょう。人間の目に低いとみられている者、取るに足りないと見られている者に、今もまだ神の憐れみと祝福は届いていないと感じるかもしれません。

また世界平和に目を向けた時、まだまだ低くされた人が高くされ、飢えた者が良い物で満たされる光景は実現していないと感じるでしょう。なぜこれほど知識人がいながら、世界に真の平和は訪れないのか。希望を失いかけることもあるでしょう。

けれども、マリアが歌い上げた光景は、「主がおっしゃったことは必ず実現する」と信じて歌い上げた光景です。わたしたちは、マリアを通して、神が必ず実現する世界を信じましょう。

マリアは、最後まで神への信頼を失わずに、最後には神によって天に上げられました。わたしたちもマリアに倣うことで、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」という称賛を受けることができます。

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ちょっとひとやすみ
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NHK連続テレビ小説を見ている。妖怪漫画で一世を風靡した漫画家を取り上げている。今観ている場面では、締め切りに追われ、忙しくて「妖怪いそがし」がとりついているという話が展開されていた。
▼この話の落ちは、土曜日なのでまだ予断はできないが、漫画家の女房が、「妖怪いそがしにとりつかれていたのは、自分のほうかもしれない」と振り返るシーンがある。長女が学校で「漫画家の娘だ」「妖怪の仲間だ」などと言われてつらい思いをしていたのを、母親として気付いてあげられなかったことを反省していた。
▼今週に限っては、ドラマとしてではなく、自分のこととして眺めていた。「妖怪いそがし」がいるかどうかは知らないが、忙しくて本来の人間的な温かい交わりや、思いやりが欠けてきていたのではないかと反省させられた。お手紙の返事、暑中見舞いのお礼。本当に申し訳なく思っている。
▼今年はよく泳いでいる。この原稿を書いた週も、子供に引っ張り出されては泳ぎに行った。おかげで、五島生まれでありながら泳ぎが苦手だったわたしが、人命救助まではできないまでも、泳ぎ続けることができるところまで来ている。沖に出たり戻ったり、物につかまらずに泳いでいるのだから我ながら感心する。
▼8月1日の球技大会に向けて練習していた時、右の太ももを痛めたのだが、今は泳いでいても何も感じなくなった。痛めた太ももをクールダウンしながら、ジワリジワリ今日まで回復させることができたのかもしれない。だが、この話をお医者さんに聞かせれば、完治する前に泳ぐなんてとんでもない、と叱られるかもしれないが。
▼教区の新聞コラム欄に、平和について思うところを述べてみた。かわいい子には旅をさせよと言うが、今の日本では、それこそ海外での旅でもしないと、平和の尊さ、ありがたさを実感できないのかもしれない。平和を保つ人は、平和に向かって行動している。何もしないで平和が訪れるなんてことは、実際にはないのではないか。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===