待降節第4主日(ルカ1:39-45)

水曜日に、4度目くらいの司祭団マラソンレーニングの再開をしました。11月初めに再開したのですが挫折し、3度目も挫折し、今回でたぶん4度目くらいです。もしかしたら5回目かもしれませんが、皆さんどうでもいい話だと思うのでここはあまり引っ張らないことにします。

レーニングを再開したわけですが、来年1月29日(火)まで残り時間も少ないので、少し負荷をかけようと思いました。後浜串に向かう登り始め、土石流対策を施しているところにカーブミラーがあります。教会前バス停からそのカーブミラーまでを往復しようと考えました。

片道425メートル、往復で850メートルです。2往復すると1700メートル、区切りがいいのは6往復で5100メートルです。ざっと5キロと考えると、最終目標としてはこの6往復5キロを、25分でカバーしたいわけです。

ところが、いざ走ってみると、すでに4往復で30分かかっています。4往復と言ったら3.4キロです。1キロ9分かかっているじゃありませんか。とんでもなく遅いので、今年のマラソン大会直後に公言していた「3位を目指します」は、何だかどこかのマニフェストみたいに「たいそうなことを言っていたが、何一つ実現できなかったじゃないか」そんな陰口をたたかれそうな雲行きです。ペースを上げるように努力します。

さて、今週の福音朗読は、マリアがエリサベトを訪問する場面です。わたしは、エリサベトが最後に言った「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(1・45)を黙想したいと思います。

エリザベトの言葉は、直接にはマリアのことをたたえた言葉です。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方」は、明らかにマリアのことだからです。ただエリサベトも、自分が言った言葉の意味を理解している女性です。なぜならエリサベトもまた、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた」女性だからです。

マリアとエリサベトの間には、「理解できる人だけがたどり着ける世界」があるのだと思います。何を言いたいか、皆さんもお分かりだと思います。たどり着いた人だけが分かること、体験した人だけが分かる感覚のようなものがあるのです。

例を挙げましょう。わたしの釣りの師匠は、魚をかけるタイミングをこう言いました。「『コツッ』と手元に感じた時は遅いんです。『コ』と『ツ』の間でかけないと、魚はかからんのですよ。」本当にそうだなぁと思います。魚のほうも命がけですから、のんびりしている人にまで釣り上げられていたら滅びてしまいます。わずかな相手の動きを感じ取れる人だけが、狙っている魚にありつけるわけです。

正月も近くなって、あちこちで餅をついて丸めている頃でしょう。1分間で5個丸めることのできる人はいるでしょうか。1分で1個も丸めることのできないわたしには、5個丸めることのできる人の話はとてもついていけません。今わたしは司祭団マラソン大会の走り込みをしている段階ですが、現状は1キロを6分とか7分で走るレベルの話で、1キロ3分で走る人の会話にはついていけないのです。

そのように、マリアとエリサベトがたどり着いている信仰の世界、お互いを「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた人」と認め合う人同士の会話は、文字通りに信じて生きてきた生活の裏付けがなければ、成り立たない会話なのです。

そこで、マリアとエリサベトが、これまでにどのような形で「主がおっしゃったことは必ず実現する」と信じたのか、拾ってみたいと思います。

エリサベトは、「不妊の女」と周囲の人から言われていました。エリサベトがたとえ社交的で、面倒見が良い人であっても、彼女は「面倒見の良い女」とは呼んでもらえなかったのです。一つのことだけを取り上げて、みんなが同じ見方で彼女を見ていたのです。

そのエリサベトに、神はいつくしみの目を注いでくださいました。彼女はこれを、神はずっとわたしたち夫婦を愛しておられたと信じたのだと思います。神がいつくしみの目を注いでいることを彼女が忘れなかったから、子供を授かったとき神に感謝できたのです。天地創造のとき、主は命じられました。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」(創1・28)主がおっしゃったことは必ず実現すると、信じたのです。

マリアは、ダビデの家系に属するヨセフの婚約者でした。ダビデの家系に属する人の許嫁ですから、ダビデの子孫に関する言い伝えを固く信じていたことでしょう。それは、「ダビデの子孫から、救い主が生まれる」ということです。

どのようにしてその預言が成就するのか、それはいつなのか、何も確かなことは無かったのに、マリアは「主がおっしゃったこと」として少しも疑わずに信じたのです。そして救い主の預言は、少しも疑わなかったマリアを通して実現しました。

マリアとエリサベト。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた2人が、神をたたえ合っています。こんなにすばらしい光景が、他にあるでしょうか。もしわたしたちに、このような体験ができるとしたらどんなにステキなことでしょう。

実はわたしたちにも、マリアとエリサベトは道を示しているのだと思います。「主がおっしゃったことは必ず実現する」救い主がもうすぐおいでになります。救い主はこの世界においでになります。期待している人もいるけれども、救い主のことを気にもしていない人もいる。そんな現実の世界に、神の子はお生まれになるのです。

わたしたちは、固く信じましょう。救い主が、すべての人のためにお生まれになることを。救い主が、すべての人の心の闇を照らす光であることを。救い主は、弱い人、貧しい人の心をよくご存じであることを。「主がおっしゃったことは必ず実現する」と、1人でも多くの人が声をそろえてたたえる時、そこに幸いが訪れます。

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ちょっとひとやすみ
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NHK-BSの受け売りなのだが、アップルの創業者スティーブ・ジョブズ氏が7年前にカリフォルニア州シリコンバレー内にあるスタンフォード大学の卒業式のスピーチを依頼され、あの"Stay Hungry. Stay Foolish."という言葉を残したスピーチの話。彼は意外にも自身の3つのつらい体験を話して、スピーチを身近なものにしていた。
▼1つは、彼が養子に出されたこと。次は、大学を6ヶ月で中退したこと。最後は、創業者でありながら、アップルを10年後に追い出されたこと。そして彼は、信念をもって取り組んだことは、たとえ1つ1つは点であっても、あとで1本の線につながる。だから信念を持て。そういうことを語った。
ジョブズ氏は点が線につながることを「直感」「運命」「人生」「カルマ」と語ったが、わたしはそれは「聖霊の働き」だと思う。関連のなさそうな、一見バラバラに思える出来事を結び合わせるのは人間にはできない。人間にはできないのだから、それは神の働き、聖霊の成せるわざだと思うのだ。
▼しかしなかなか、信念をもって自分が取り組んでいることを貫き通すのは難しい。信念をもって貫いてみたら、「あなたは会社に損失をもたらしている。会社を出て行ってくれ」と追い出されたのである。もちろんあとでは彼は呼び戻され、アップル再建を見事に成し遂げるのだが、大抵の人は追放された時点で失望し、夢をあきらめてしまうだろう。
▼ではわたしたちは、聖霊がいつか「点」と「点」を結び合わせて「線」にしてくださると信じて、目の前のことを取り組んでいるだろうか。それほどの信念をもって、情熱を注いで日々を過ごしているだろうか。自分のしていることに、本当に意味と価値を見いだせているだろうか。だれが何と言おうが、自分だけはその働きを信じているだろうか。
▼そこまで考えると、岩をも砕くような情熱を注いでいるとは言えないのかもしれない。あちこちに残された「点」が、「起点」になるほどしっかり刻まれていなければ、「点」をたどって「線」にすることはできないだろう。
▼すると、それぞれの「起点」となる場所で(それがどこなのか、初めから分かっている人などいないのだが)精一杯のことをしなければならない。「あとで疲れるからほどほどに」と言っていては、その働きは「起点」にはなってくれない。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===