年間第30主日(マタイ22:34-40)

律法の専門家は、イエスを試そうとして尋ねました。 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」(22・36)。私たちは、イエスを困らせようとしてではなく、自分自身への真剣な問いかけとして考えてみましょう。「わたしにとって、最も重要なことは何でしょうか」。どんな答えが出てくるでしょうか。

考えるヒントとして、これまでになくしたものを振り返ってみると参考になるかも知れません。たとえば、何か大きな損失をこうむった。または、大きな喪失感を味わった。その時からあなたは、もう立ち直れない、もう未来はないと思って生きてきたでしょうか。

それでも多くの人が、一から出発し直して、今は新たな気持ちで日々を歩んでいるのではないでしょうか。大変な喪失感を味わった時期があったかも知れませんが、そうした時期を乗り越えて、今を生きているのだと思います。

私自身も、大きな損失をこうむった時期がありました。もちろん人によって何が大打撃かは違いがあると思いますが、私はある時、これまでたくさん残していたパソコンのデータを失いました。説教の原稿、教会学校の教案、黙想会の原稿、恩人や友人に宛てて書いた手紙、出会った多くの人との記念写真。ある時それらすべてを失い、がっかりし、怒りさえこみ上げてきました。

大きな損失をこうむりましたが、だからといって人生を投げ出すことはありませんでした。資料や何かの記録や思い出は、失ってしまうことは残念ですが、それらが自分のすべてではありません。これからも新しい出会いもあるでしょうし、これまで以上に資料や記録を残すこともあり得るからです。

また、皆さんよくご存じですが、私は5ヶ月前に、父を亡くしました。若かったとは言えないけれども、平均寿命79歳にさえ届かない71歳でした。どうして?なぜ?現実がなかなか受け入れられませんでした。よく言われるように、大きな穴が開いたような感じがしました。

愛している人を失うことは大きな損失です。でも、それでも私は前を向いて歩いています。もう前を向いて歩けない、人生はこれで終わってしまったと、そこまでの失望感を味わったわけではありませんでした。

重大な喪失感を味わって、ようやく「わたしの最も重要なこと」が見えるようになりました。「わたしの最も重要なこと」は、これまでに失ったものの中には存在せず、違うところにあった。もっと言うと、私を立ち直らせてくれた神の中に、「最も重要なこと」があったということです。

神の中に「最も重要なこと」があったと言いましたが、別の言葉で言うと、大きな喪失感の中でも神が与えてくれた「前を向いて歩いていける」という力こそが、「最も重要なこと」だったのかも知れません。

なぜ、前を向いて歩き続ける力が、「最も重要なこと」と言えるのでしょうか。それは、神が与えてくれた「前を向いて歩き続ける力」が、神が私を愛し続けておられるしるしだからだと思います。

これ以上ないという喪失感を味わっても、神は私を見捨てず、愛し続けてくださった。そうであれば、最も重要な第一の掟は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(22・37)となるわけです。

同じような考え方に立つと、「隣人を自分のように愛しなさい」(22・39)という掟も理解できます。私に、もう一度前を向いて歩き続ける力を与えてくれた神の次に、重要なのは隣人なのです。隣人、しかも、ずっと私を見捨てず、見守ってくれた隣人が、だれにでも1人はいるものなのです。

1例あげたいと思います。私個人の司祭としての活動ですが、2002年の誕生日から、だれにも相談せず、日曜日の説教をメールマガジンで配信するサービス(メルマガ名「こうじ神父今週の説教」)を続けています。簡単に言うと、申し込んでくれた人に、毎週説教を送り続けているという活動です。

現在第382号なのですが、メールで送った説教をだれも読んでもらえず、だれからも振り向かれずに廃刊しなければならないという危険もありました。けれどもそのメルマガは今月まで6年7ヶ月連続、それも毎週配信できています。

なぜ、相手も見えない人に説教を送り続けることができたのでしょうか。それは、奇跡的にも第1号から欠かさず読んでくれている人がいたからです。私は知りませんでしたが、これまでの382回、6年7ヶ月の説教を、欠かさず読んでくれていた人から便りがあったのです。それで、こんな人もいるんだなぁと力を与えられたのです。

個人的に始めた活動、その誕生の瞬間から、決して見捨てず、自分のことのように思ってくれる人がいたことが分かりました。この経験から、第二の掟は自然に理解できるようになります。「隣人を自分のように愛しなさい」(22・39)。体験を通してイエスが、「あなたは見捨てられずにだれかに支えられ、今まで歩いてくることができたのだから、あなたも隣人を自分のように愛しなさい」と呼びかけているのだと思います。

自分にとって最も重要なものに気付いた時、最も重要な掟の意味が見えてきます。神をこの上なく愛することと、隣人を自分のように愛すること。この2つの掟は、真剣に毎日を生きているすべての人に十分理解できる掟なのです。

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼10月22日はまるでアクションドラマ「24(Twenty-Four)」のような1日だった。朝6時、月に1度だけの修道院チャペルでのミサをささげた。この日は教会聖堂でのミサはお休み。ところがこの日に限って、かつて長崎でよくテニスをしていたS神父さまのお父上と叔母?のシスターが前日から伊王島に宿泊し、22日朝にミサに行く予定をしていたらしい。
▼朝、修道院のミサを終え、司祭館に戻って朝食のパンを食べ、コーヒーを飲んで一息ついていたら朝9時に司祭館のチャイムが鳴る。上述の2人が「教会でお祈りさせてください」と訪ねてきたのだった。一緒に祈り、かつてお世話になったご子息の神父さまの話をして話が弾み、送り出した。
▼その後午前10時頃、例の神父さまからメールが来る。「父が訪ねてきましたか」。せめて前日に知らせてもらえれば。修道院のミサを変更できたのに。悔いが残った。そのことをメールで返事していると郵便物が届く11時になったので郵便受けを見に行くと長野県の保育士から手書きの手紙。以前馬込教会を訪ねたことがあり、メルマガを読んでいて、説教集がほしいとのこと。急いで準備した。
▼昼からは日鉄伊王島鉱業所閉山35周年慰霊祭(名称が長いなぁ)にカトリック側の追悼をするために出席。追悼の式典が終わると、日鉄伊王島鉱業所に縁のある人々で親睦会。この親睦会に顔を出し、結構いい気分になって帰る。戻ってちょっと居眠りしていると、あれあれという間に夕方になり(ロザリオの祈りが夕方5時半からなので、祈りには顔を出した)、なかなかお腹が空かないので先にWii Fitで30分の運動を済ませる。
▼シャワーを浴び、終わった頃に電話。とあるカトリック教会の広報部員で、子どものための全国誌「こじか」に記事を寄稿している神父さまですねと電話した理由を述べ、広報紙に「こじか」の記事を出典を明記して掲載させてほしいと言われ、大丈夫だろうと思ったので(厳密には著作権の問題が発生するかも)掲載O.K.ですと答えた。
▼1日で、こんなにたくさんのことが重なったのは珍しい。1週間で起こるようなことが1日に凝縮されて起こった。思い出せなかったこともあったかも知れないが、これほど複雑な出来事は神さまでなければ計画・立案できないに違いない。神さまは必ず存在するとこの日も思った。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===