年間第13主日(マルコ5:21-43)

マルコ福音書4章35節から8章26節は、一連の奇跡物語です。これら一連の奇跡は、それぞれ癒やされた人の物語であると同時に、ペトロの信仰告白を引き出すための出来事でもあります。私たちも、物語を読むことで、イエスへの信仰を告白する、信仰を宣言する機会としたいと思います。

7月3日、聖トマスの霊名のお祝いを今日開いてもらうことになり、感謝申し上げます。祝賀会の時は、寸劇をしようと思っていますので、楽しみにしておいてください。また「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に登録されました。私たちはこれからも誇りを持って、受けた信仰を守り継いで行きたいものです。

7月1日は、日付にこだわって考えると「福者ペトロ岐部と187殉教者」の記念日です。東京大司教区ではいろんな記念行事を計画しているようですが、長崎では特別な行事は組まれていません。なにか一つでも、ということで188殉教者の取り次ぎを願い、列聖を求める祈りが届いています。ミサの終わりに唱えて、各自持ち帰ってください。身近な人に配りたい人もいるでしょうから、出入り口にカードを置きますので、ご利用ください。

主任司祭は車を去年の5月に「カローラフィールダーハイブリッド」に買い替えましたが、1年ちょっと乗ったところで油断が生じたのでしょう。佐世保市総合病院の立体駐車場の中で対向車と離合するときに柱で車を凹ませてしまいました。

私は降っていて、相手は登ってくるところでしたが、油断があったのでしょう。大きく左折して対向車をかわそうとしたら後部座席、左のドアを柱に押し付けて、ドアが凹んでしまいました。興味がある人は車庫の扉を開けて見に行ってみてください。

がっかりしましたが、ちょうど総合病院での出来事でしたので、入院手続きを取って、明日から入院させることにしています。その間は、長崎に行く用事のときでも軽自動車で行かなければなりません。ただし、軽トラックでは行かないことにします。軽トラックで大司教館に停めていたときに、「ここは大司教館に用事のある人が利用できる駐車場です。速やかに移動させてください」と張り紙をされた経験があるので、今回は軽トラックでは行かないことにします。

さて与えられた福音朗読は「ヤイロの娘」と「イエスの服に触れる女」の二つの奇跡物語です。私はそのうちの「イエスの服に触れる女」について少し考えてみたいと思います。出血の止まらない女性は、「この方の服にでも触れればいやしていただける」(5・28)と固く信じて、イエスに近づいていきます。

それにしても不思議なのはイエスの言葉です。「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、『わたしの服に触れたのはだれか』と言われた。」(5・30)

なぜ、このような投げかけをしたのでしょうか。群衆がイエスに押し寄せていても、「いやしていただける」と固く信じて近づいてくる女性がこの中にいると、イエスはご存知だったはずです。それだけの決意をした人であれば、鬼気迫るものが伝わるはずです。なぜイエスは、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われるのでしょうか。

もし、イエスがうっかりしていたとしたら、私は慰められます。服に触れるまで、自分の内から力が出て行くまで気づかなかったのであれば、私は慰められます。イエスさまでもうっかりすることがあるのだな。私が車をうっかりぶつけるのも無理ないよな。そう思うのです。

「わたしの服に触れたのはだれか」と言われたのは確かです。うっかりしていたから確かめようとしているのでないとすれば、どんな狙いがあるかを探す必要があります。それは、ペトロのためだったかもしれません。弟子たちが「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」と言ったことになっていますが、ペトロが代表して言ったのかもしれません。

弟子たちの考えをまとめると、「群衆が押し迫っているのでだれが触れたか分からない」となりますが、イエスが示した答えは、「群衆が押し寄せている状況でも、固い決意で願い求めている人に恵みは届く」ということです。仮にイエスがうっかりしていたとしても、イエスから力が出て行って、その人をいやしてくださるということです。

私たちに当てはめてみましょう。私たちは自分たちの願いが届くのは、何かのことで目に留まるから、抜きん出ているから叶えてもらえると思うかもしれません。特別なことなどない願いは、誰の目にも留まらないし、神にも取り上げてもらえないと思っているかもしれません。

今週イエスが示してくださったのは、人々の目には見分けもつかない願いであっても、イエスは必ず叶えてくださるということです。私たちの願いはいろいろですが、どんな願いも、誰の目にも留まらない願いであっても、神は目を留めてくださるということです。

神が目を留めてくださるなら、神は答えてくださいます。「神は必ず、目を留めてくださる。」中田神父は、これまでその体験をいくつも積みました。さまざまな病人を見舞い、神のもとへ旅立つ場面に立ち会い、神が目を留めてくださる姿を見てきたのです。私が願ったとおりではないかもしれません。ですが神が目を留めてくださり、神が与えてくださる答えは、十分信頼できます。

あとは、イエスの示した答えに私たちがどのように動くかです。イエスの示した答えを、人々に告白する、宣言すること。これが私たちに求められています。イエスは必ず答えてくださいます。そして、私たちに示されたイエスの答えは、十分信頼できます。この気持で新たな一週間を過ごしてまいりましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼「ひらどちくしさいかいぎ」を変換させたら、「平戸筑紫再会議」と表示され、「たいした変換だなぁ」と舌を巻いた。すぐに学習して「平戸地区司祭会議」と変換するようになったのだが、しばらくは笑える変換とおつきあいすることになりそうだ。
▼今年もありがたいことに霊名のお祝いをしていただいた。霊名のお祝いをしてもらうことで、霊的な家族の絆を確認できる。祝ってくださる人がいて、参加してない人も後でその様子を聞いて、霊的な家族は一致して喜び合う。私たち田平教会家族は、時にこのような形で家族のカタチを確認する。
▼祝賀会で、簡単な寸劇を行った。示談金詐欺である。私たちは案外「自分は詐欺には引っかからない」と思っているが、きっと司祭でさえも、巧妙な罠には騙されるのだと思う。そのあたりを滑稽な劇にしてみた。あとは役者の演技次第か。
▼「長崎と天草のキリスト教関連遺産」がユネスコ世界文化遺産に正式に登録された。長崎教区が関連資産を統括しているが、赴任している主任司祭が長崎教区の総意を表しているかは別問題かもしれない。負担に感じている小教区、小教区の主任司祭もいると思う。
世界遺産が重荷とか負担とならないように、ぜひ知恵を結集してもらいたい。案内する人が必要だし、地元の理解はこれまで以上に必要だ。世界遺産と結びついた巡礼の形でこれまで以上に訪問者がやってくる。活性化にどう結びつけるか。私たちも大いに関心を持っている。

† 神に感謝 †