洗礼者聖ヨハネの誕生(ルカ1:57-66,80)

今年は洗礼者聖ヨハネの誕生の祭日6月24日が日曜日と重なりました。祝日が日曜日と重なるとその年は暦から消える中で、イエスの先駆者となった洗礼者聖ヨハネの誕生は特別です。ほかにも聖ペトロ聖パウロの祝日が日曜日と重なったときも特別扱いです。洗礼者聖ヨハネに焦点を当てて、今週の学びを見つけることにしましょう。

今週の朗読で目につくのは、ヨハネの誕生を喜ぶ周囲の人々と、両親の喜びとでは見ているものが違うということです。人々は、子どもに恵まれない夫婦を神が大いに慈しまれたと喜びました。両親は、我が子を前に、「主の前に道を整える預言者」が生まれたと見ていたのです。

誕生したことに目を向ける周囲の人々は、当時のしきたりに従って子どもに名前をつけようとします。彼らの目には、子どもに恵まれたということ以外は見えていなかったからです。ところが両親は、神の計画に沿った出来事だから、神の計画に沿った名前をつけなければならないと理解していました。「名はヨハネとしなければなりません」「この子の名はヨハネ」眼の前の子どもを、単に赤ん坊と見ている周囲の人々と、預言者と見ている両親とでは、見えているものが違っていたのです。

何が違っていたのでしょうか。両親には、見えないものが見えていたのです。人々が「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」(1・61)と言ったとき、周囲の人々には見えていないものを見せてもらっている。そんな静かな喜びに満たされていたことでしょう。

見えないものを見る力を「信仰」と言い換えても良いでしょう。主の天使から我が子の誕生を予告されたとき、受け入れることができませんでした。主の天使が見ているものを、ザカリアはその時点で見ることができなかったからです。見えないものを見る力、「信仰」が足りなかったのです。そのためザカリアは神によって口がきけなくなりました。

今ようやく、ザカリアはエリサベトとともに主の天使が予告した世界が見えるようになったのです。単に我が子が与えられたというだけではなく、イスラエルの民に「主に先立つ預言者」「主の道を整える者」が与えられたことを見て取ったのです。

見えないものが見えるとき、信仰はより一層深まります。ザカリアは主の天使の言葉を疑い、口が聞けなくりましたが、今ようやく見えないものが見えるようになり、信仰が深まり準備が整ったので、神を賛美し始めます。

ここで見逃してはいけないことがあります。父ザカリアは「口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」(1・64)となっていますが、これは日本語の翻訳がそうなっているのであって、見えないものを見るためには、もう一歩踏み込む必要があります。この部分を元の言葉であるギリシャ語に近い訳をすると「口は開かれ、舌がほどかれ、神を賛美して言った」となるそうです。この違いにお気づきでしょうか。

違いは「口が開き」と「口が開かれ」です。「口が開いた」これだけですと、今まで内面の問題などで言葉を失っていた状態から回復して語りだしたように感じます。当時周囲の人々にはそのように見えていたかもしれません。

しかし「口が開かれた」という意味であれば、その向こうに「口が開けないように仕向けた方」がおられて、その方がザカリアを赦し、赦された証しに口が開かれたことになります。その御方とは「神」であって、ザカリアはかつての疑いの罪がようやく赦されて、神を賛美し始めたということです。

ザカリアにとってこの賛美は、見えないものが見えるようになった賛美、信仰を深めてもらったことへの賛美でした。私たちも説教の結びは、見えないものを見せてもらったことへの賛美で終わりたいのです。

では、洗礼者聖ヨハネの誕生は私たちにとってどんな意味があるのでしょうか。主の道を整える預言者が私たちにも与えられたということです。人々に主の道を整える、その日がやってきたということです。当時そのような機会に恵まれただけではなく、今も私たちを通して、主の道を整える、その日が来ているということなのです。

これを、私たち誰もが知っている言葉で何と言えばよいでしょうか。私が言わずとも、ここにいる皆さんが声に出してくれたなら、説教を閉じても構いません。どんな言葉が当てはまるでしょうか。口は開いたままで、思い浮かばないでしょうか。おそらくこの言葉にたどり着くと思います。ミサ中の言葉です。「主の死を思い、復活をたたえよう。主が来られるまで。」

ヨハネの誕生を通して、主の道を整える時代がやってきたと言いました。今の時代、誰が主の道を整える人なのでしょうか。主任司祭でしょうか。修道院のシスターたちでしょうか。そうかも知れませんが、もっと身近な場所では、ここに集まっている皆さんお一人おひとりが、「主の道を整える預言者」なのではないでしょうか。

たとえば家庭で、日に三度の食事を頂いています。時には来客も交えて、楽しい食事かもしれません。その食事を、主の道にかなったものに整えるために、「食前の祈り」をします。誰が「食前の祈り」を唱えるのでしょうか。主任司祭が呼ばれて唱えるのでしょうか。

日々の生活。朝が来て、夜で一日が終わります。一日の始まりを主の道にかなったものにするために「朝の祈り」を唱えます。誰が「朝の祈り」を唱えるのでしょうか。まさか、修道院のシスターが呼び出されて唱えるのでしょうか。

十分、答えはわかっていると思います。世に対して、そして世の終わりまで、「主の道を整える預言者」となるのは私たち一人ひとりなのです。今週洗礼者聖ヨハネの誕生に選ばれた朗読から、ぜひ見えないものを見抜いて、生活に活かしてください。見えないものが見える信仰の目を常に磨いてくださるよう、主に願い求めることにしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼あと50回メルマガを配信すれば1000号かぁ。予想はしていたが、実際にこんな日が来るとは。毎号の積み重ねとは言え大したものだ。私が取り組んだことで1000回続きそうなのはこのメルマガしかない。大抵の習い事は1年も続かなかったから、このメルマガ1000回はその日には自分で自分を褒めてあげよう。
▼実はこの文章を書くための日本語変換はGoogle日本語という変換ソフトを使用している。先週のメルマガの直後に、「こんな日本語変換ソフトもあります」と声をかけていただいた。昨日今日のことで評価はできないが、これからしばらく使い続けてみたい。
▼面白いと感じるかどうかわからないが、ミサの式文の中には「主よ、あわれみたまえ」とか、「感謝したてまつる」とか、通常の会話では使わないような用語がけっこう頻繁に出てくる。現代であれば、「主よ、どうかあわれみを」そして「感謝します」となるところだが、典礼の中では古い言葉が残っている。
▼ただ今韓国語のミサ儀式書を韓国人の神父様の手ほどきで勉強し始めているが、韓国語のミサの中にも、日本語で言うところの「〜たまえ」のような「古典的な表現」が多数あるそうだ。言葉を勉強するときは直接先生に習うのがベストだが、それができなければ辞書に頼ることとなる。ただ辞書は古典的な表現にまで気を配って教えてくれないと思う。そこまで辞書に期待するのは酷である。
▼だが面白いところでこの溝を埋めてくれた。朝鮮王朝ドラマだ。「国王」に対する言葉は特別な言い回しが多くなる。それが、案外韓国語のミサを理解するのに役に立っている。「チュニムケソ(本当はハングルで表記したいのだが)」に繋がる「チョナケソ」とか、「〜ソソ」のような表現は、ドラマから先に学ぶことになった。

† 神に感謝 †