年間第14主日(マルコ6:1-6)

まず、この度の台風被害に心からお見舞い申し上げます。「なぜこんなことが」と言いたくなるような災害でした。慰めと、励ましをイエスに願いたいと思います。

今週の福音朗読箇所は、故郷のナザレでイエスが受け入れられない現実を弟子たちが見ることになります。日本では「故郷に錦を飾る」と言ったりしますので、弟子たちはイエスの活動を、故郷の人々が手放しで歓迎するだろうと思っていたかもしれません。

ところが、事実は正反対でした。「誰それの息子が、何を偉そうに」そんな反応だったのです。イエスの働きぶりを、故郷の人々は自分たちの知っている知識と結びつけました。人々の驚く姿は今週の朗読の大切な鍵なのですが、驚きが信仰には結びつかず、かえって疑いを生む結果となりました。

先週、一連の奇跡はペトロの信仰告白に繋がる出来事として見ることもできると言いました。「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた」(6・5-6)今週の出来事は、弟子たちを失望させ、なかでもペトロの信仰を挫く危険もあったと思います。

ペトロは今日の出来事でも信仰を失わなかったのでしょうか。期待をくじかれるとき、人はだれでも自身を失い、失望するものです。私だってそう考えます。けれどもペトロは、故郷で冷たくあしらわれたイエスに、従い続けたようです。

最近二つの貴重な体験をしました。改めてカトリックの信仰は素晴らしいと思いました。一人の御婦人は、楽しみにしていた日を迎えようとしていましたが、その日を延期されてしまいました。ふつうであれば、落胆し、恨みに思うかもしれません。けれどもその人は、「わたしの償いが足りないので、延ばされたのでしょう」と事もなげに答えました。

その人の様子は逐一聞いていたので、いよいよその日が来ると思っていたのです。「がっかりしているだろうから、慰めてあげよう。」そんな気持ちでしたが、その御婦人はむしろ、延期されたことを神さまのお考えに違いないと結びつけたのです。こんな人と出会うことで、私たちは信仰を深めてもらうのではないでしょうか。割り切って考えることの多い私も、その受け止め方に頭が下がりました。

もう一人は、先週出血の止まらない女性を説教に取り上げましたが、そのミサの帰りに私のスータンの裾に触れて帰った御婦人がいたのです。「あの人は、どうしてあんなことしたのだろう」と、さっき朗読した出血の止まらない女性の箇所と御婦人の行動とを結びつけることができませんでした。しかしこの御婦人は、私のスータンの裾に触れて、「神さまがきっと良くしてくださる」と信じ、黙って帰っていったのです。

驚くべきことが起こりました。調子が良くなったと、後日御礼を述べに御婦人が司祭館に来たのです。調子の悪かった人が司祭館にまで御礼に来るのはよほど嬉しかったのでしょう。私は先週裾に触れた理由がやっとわかり、私も御婦人の調子が良くなったのを喜び合いました。私を道具として、イエスの力が御婦人に届いたのだと思います。

エスの故郷ナザレで、人々はイエスを驚きをもって迎えました。驚きは、大切に温めると信仰に向かっていきますが、粗末に扱うと疑いのもとになります。故郷の人々は自分たちが感じた驚きを粗末に扱ってしまい、イエスを疑いの目で見たのです。しかし弟子たちは、イエスの驚くべきわざを大切に温めました。

私たちがわからなくても、きっとそこには何かが込められているに違いない。私の体験談で話した二人の人も、自分の身に降りかかっていることを身の回りにある答えで片付けようとせず、もっと大切な意味が込められていると考えたので、神さまが答えてくださいました。

「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」(6・3)故郷の人々は簡単な答えに結びつけたために、イエスを見誤りました。弟子たちはその場ではわからなくても、答えがわかるまで驚きを温め続けたのです。そのおかげで、ペトロはイエスへの信仰を告白できたのでした。

私たちの周りにも、「なぜそうなるのか」と驚き怪しむことがあるかもしれません。「神さまはおられるのか」とさえ思うかもしれません。簡単な答えにすがろうとすれば、私たちはほんとうの意味を見つけることなく、失望したり恨みに思ったりするのです。

神さまが私たちに見せているのは、「知恵の輪」のようなものではないでしょうか。答えは確かにあるのですが、簡単な答えに結びつけようとしても決して解けないのです。「こうに違いない」と思ったことすら横に置いて、神さまが示そうとする答えにたどり着かなければなりません。神さまの示そうとする答えを知るまで待てない人は、知恵の輪を無理やりこじ開けて勝手な答えを出すでしょう。

そうではなく、神さまが示そうとする答えはかならずあるのだから、納得して神さまの答えを受け入れる準備が整うまで待ちましょう。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。」(6・2)問い続けるなら、神さまが示そうとする答えに私たちもたどり着き、納得してその答えを受け入れることができると思います。

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ちょっとひとやすみ
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▼サルテリオの演奏はとても良かった。良いものに触れると、良いものが生まれてくるのかもしれない。終わりのあいさつのときに、「この教会は100年の歴史を刻んできました。1日も欠かさずこの聖堂は起こった出来事を記録して100年を迎えました。今日のこの日も、この聖堂は素晴らしい楽器を、その音色を記憶したと信じています」と言った。
▼このあいさつは、自画自賛になるが、準備して出てくるものではないと思う。良いものに触れて、生まれたものだと信じている。説教で触れた人も、「神さまが引き合わせてくれた人」「必ず出会うことになっている人」だと思う。
▼人との出会いが人を育てる。出会った人のことを記憶し、体に刻んで人は成長していく。人生は無制限に長くはない。出会う人は限られている。出会う人に育ててもらうためには、その人の前に身をかがめるべきだと思う。耳を傾けるべきだと思う。
▼韓国語で最近はちょっとしたことが言えるようになった。「今日は長崎に出かけます」「今から病院に(銀行に)行きます」韓国語で用件を言われた相手は目をまん丸くしているが、それを見るのも楽しい。ゆくゆくは、韓国語のミサの共同司式に並びたいものだ

† 神に感謝 †