聖金曜日(ヨハ18:1-19:42)

聖金曜日、主の受難を記念しています。マルコ福音書を解説した書物の中に、「思い起こし、物語れ」という本がありまして、上下二巻の書物で、合計一千頁ほどあります。「主の受難を記念する」という言い方に前から私は抵抗がありましたが、この本のタイトルのように、「思い起こし、物語る」ことが記念することの本質なのだと思いました。

さて、聖週間の連続した説教の中で、私が取り上げているテーマは「イエスをどのように呼ぶか」ということです。受難の主日、ピラトはイエスを「お前」と呼びました。聖木曜日、イエスを裏切ろうと決意したユダの引き金となった言葉として、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」という言葉を引用して、ユダがイエスを「あの男」と呼んだことに触れました。

今日、十字架の上でいのちをささげるイエスをペトロは「知らない」と言います。問い詰める人々が「あの人」と呼んだり「あの男」と呼んだりしてイエスの仲間だと追い詰める中で、直接は書かれていませんが、「あの人のことなど知らない」「あの男のことは知らない」と否定するのです。

エスは孤立しています。イエスから遠い人が「お前」と呼ぶのは仕方がなくても、最も近い場所にいる弟子たちがイエスを「あの人」「あの男」と言い放っているのです。イエスを「先生」とか「主」とか呼ばなければならない人々がその呼び方でイエスから心が遠く離れてしまっていることがわかります。

こんな人のために十字架にかかる必要があるでしょうか。すべての人をご自分のもとに引き寄せるためでした。私たちが犯した大なり小なりの罪を、認めるためです。イエスから遠く離れている人のためにも、イエスのそば近くにいて心苦しくもイエスを知らないと言ってしまった人のためにも、すべての人をご自分のもとに引き寄せるために、イエスは十字架の上でいのちをささげるのです。

私たちは残念ながらイエスを「あの人」「あの男」と呼んだ者たちの仲間です。イエスの弟子が「あの男」と呼んだのでした。私たちも洗礼堅信を受けて、イエスの弟子となっています。「あの男」と呼び捨てた覚えはなくとも、ふだんの生活で誰かにイエスのことを「主」とか「イエス様」とかなかなか呼べない弱い存在です。

私たちはいつになったらふさわしい言葉でイエスを呼ぶことができるのでしょうか。それはイエスの復活を待つしかありません。復活したイエスが私たちを勇気づけ、ふさわしい呼び方をわたしの唇に授けてくださいます。復活のその時を待って、今日は静かに十字架を礼拝しましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼聖木曜日に聖金曜日の原稿を書いた。聖木曜日に聖金曜日の気分に切り替えて書く必要がある。そして数時間後には聖木曜日に復活徹夜祭の気分に切り替えて原稿を書く。この切り替えにエネルギーを消費すると言ったら信じてもらえるだろうか。
▼残念ながら信じてもらえないかもしれない。けれども自分の中では、聖木曜日の主の晩餐の席に立ち会い、聖金曜日の主の受難に立ち会い、その後に復活の場面を弟子たちとともに目撃しているつもりである。しかもほぼ一日で。だから私にとってはエネルギーを相当消費している。
▼復活祭を無事に迎えられたら、いったんネジを緩めたい。何か気分転換ができることを見つけて、頭の中を空っぽにして、それから次の大きな通過点である献堂百周年に向かうことにしよう。まずは釣りか。あるいは実家に帰らせてもらうか。実家に帰るのは間違いないが、実家では寝るだけで、ほとんどの時間前任地で釣りをするか。
▼まぁいずれにしても限られた器であるから、一度空っぽにしてそれから前に進みたいものだ。黙想会の時に痛いほど経験したが、説教師の接待やゆるしの秘跡のお手伝いの神父様の接待をしただけで疲れてしまった。たまたま土曜日に終わったが、土曜日は間髪入れずに受難の主日典礼だった。
▼切り替える暇もなく、聖週間に突入した。だから今年は相当疲れた中で聖週間を迎えている。疲れているとろくなことがない。典礼の流れを間違えたり、大事なことを見落としたり、説教の録音をし忘れたり。
▼思い出したが、故郷鯛之浦教会での銀祝ミサの時、ICレコーダーを忘れてきてしまった。生涯悔やまれる出来事だった。年齢のせいにはしたくないが、きっと疲れていたのだと思う。

† 神に感謝 †